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すずらん団地五号棟 〜わかばとお小遣いと、時々ちくわ〜  作者: 夕凪 鏡介


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第3章「時代はキャッシュレス」

世間は、いつの間にかキャッシュレスになっていた。


 商店街でも、コンビニでも、皆スマホをかざして、ぴ、と鳴らして去っていく。財布から小銭をじゃらじゃら出している人間は、絶滅危惧種でも見るような目で扱われる時代だ。便利な世の中だ、とは思う。思うが、俺には縁のない話のはずだった。


 なにせ、俺の総資産は、机の上の貯金箱に詰まった小銭が、全部だ。あとは図書カードと、いつ使ったのか思い出せないポイントカードが数枚。最先端の決済とやらとは、住む銀河が違う。


 ところが、その平和な原始時代に、ある夕方、突然、文明開化が押し寄せてきた。震源地は、もちろん、こたつの上だった。


「あおちゃん。これからは、キャッシュレス」


 学校から帰ると、まだランドセルを背負ったままのわかばが、台所のテーブルで何やら書き物をしていた。その手元から、紙の束を、すっと滑らせてくる。


 嫌な予感がした。この家で予感が外れたためしは、ほとんどない。


 紙には、定規で引いた几帳面な線。鉛筆の、やたら丁寧な字で、こう書いてあった。


『すずらん団地 五号棟 わかばPay 会員規約』


「……ペイ?」


「うん。これからは現金じゃなくて、ポイントで払う。時代だから」


「何の時代だ」


「キャッシュレスの、時代」


 わかばはようやくランドセルを下ろすと、束の一枚目をめくった。手書きのカードの絵が描いてある。鉛筆で四角い枠を引いて、その中に『わかばPay』のロゴ(本人いわく)が、これまた手書きで鎮座していた。


「あおちゃんは、もう、入会してる」


「入会した覚えがないが?」


「先週、肩たたきしてくれたとき。あれが、入会の手続き」


 肩たたき。確かに、した。先週わかばが「肩がこった」とか言うので(小学四年生の肩が、いったい何にこるというのか)、流れで十分ほど揉んでやった。あれが、まさか、本人の知らぬ間に金融サービスへの加入手続きだったとは。世界一こすい入会キャンペーンだ。


 しかも、だ。入会というのは普通、入る側が何か得をするものだろう。なのに俺は、肩を揉むという労働を提供させられたうえ、その対価をまるごと「入会金」として没収されている。入った瞬間に、もう毟られていた。


「待て。そもそも、なんでキャッシュレスなんだ。今までどおり現金でいいだろ」


「現金は、もう、限界がきてる」


 わかばは、ぼーっとした顔のまま、自分の貯金箱を指さした。陶器の、豚。背中の投入口から、小銭がぎっしり詰まっているのが透けて見える。


「重い。お腹いっぱいで、ぶたさん、つらそう」


「貯金箱の都合じゃねえか」


「あと、あおちゃんから取り立てるとき、毎回、小銭を数えるの、面倒」


 本音が出た。要するに、十円玉や五十円玉を毎回数えて受け取るのが、面倒になったらしい。徴収業務の効率化。小学四年生が、自分の集金システムを、デジタル改革しようとしている。


 考えてみれば、現金には弱点がある。重い。財布を覗けば残高が一目で割れる。なにより、相手の手持ちが、見えてしまう。搾り取る側からすれば、こちらの懐具合が筒抜けでは、限界まで搾りにくい。残高を電卓という不可視の箱に隠してしまえば、数字はいくらでもいじれる。わかばが現金を嫌う理由は、たぶん、そのあたりにある。


「ポイントだと、どうなるんだ」


「肩たたきとか、お皿洗いとか、したら、たまる。使ったら、減る。電卓に記録」


 わかばは電卓を持ち上げ、その液晶を、ぺた、と叩いてみせた。液晶の横には、まるっこい猫のシールが貼ってある。両手で小判を抱え込んだ、ちょっと目つきの悪い猫。わかば曰く『ためにゃん』というらしい。何の変哲もない電卓のはずが、この守銭奴ネコが一匹乗っているだけで、世界一信用ならない決済端末に見えてくる。


「いいか、よく聞け」


 俺は、ランドセルを背負ったままの妹に、人差し指を立ててみせた。


「キャッシュレスってのはな、銀行とか、ちゃんとした会社が、お金の代わりを保証してるから成り立つんだよ。残高はデータで管理されて、誰も勝手に書き換えられない。だから、みんな安心して使える。おまえのそれは、ただの、電卓に打った数字だろ」


「あおちゃん、くわしいね」


「兄として最低限の自衛だ」


 三日連続で、同じ台詞を吐いている。もはや口癖というより、効かないお守りだ。


「だいたい、その残高、誰が管理するんだ」


「わたし」


「改ざんし放題じゃねえか」


「しない。わたし、正直だから」


 正直な人間は、自分で自分を正直だとは言わない。これは、俺が人生で数少なく確信していることのひとつだ。


 俺は規約とやらを、ぱらぱらとめくった。やたら細かい字で、条文めいたものが並んでいる。鉛筆の芯を、よほど丁寧に削ったらしい。一文字も、かすれていない。準備の周到さだけは、毎度、感心する。


『第一条 わかばPayの一ポイントは、一円と同じ価値とする。』

『第二条 ただし、両替・換金・現金への払い戻しは、できない。』


「待て。一ポイント一円って言っといて、現金には戻せないのか」


「うん。戻せない」


「じゃあ一円の価値、ないだろ」


「ある。加盟店で、使えるから」


 この第二条が、制度の急所だった。一ポイント=一円と宣言しておきながら、現金への払い戻しは禁止する。入口では現金を吸い込むのに、出口は塞がっている。一度ポイントに化けた価値は、二度と元の世界には戻れない。預け入れ専門で、引き出し窓口のない銀行。発想だけなら、闇金そのものだ。


「だいたい、現金に戻せないなら、俺がこの制度から抜けたいって思ったとき、貯めたポイントはどうなるんだ。ただの紙くずだろ」


「退会は、できる。でも、退会手数料が、かかる」


「いくらだ」


「ちょうど、今の残高ぶん」


 抜けようとした瞬間、残高がぴったり手数料に化ける。出口に立った瞬間、財布をはたかれる仕組みだ。蟻地獄のほうが、まだ良心的に思えてきた。


「で、その加盟店ってのは、どこにあるんだ。商店街か?」


「ううん。もっと、近く」


「近く?」


 わかばは、規約の最終ページを、すっと開いた。


『わかばPay 加盟店一覧』

 ・わかば(本人)


「一店舗しかないじゃねえか」


「これから増やす。たぶん」


 つまり、こういうことだ。俺が肩たたきで稼いだポイントは、わかばにしか使えない。そのわかばは、サービスも商品も、わかばPayでしか受け付けない。完全に閉じた経済圏。出口のない円環の中を、通貨だけがぐるぐる回っている。


 しかも発行元が、利用者で、加盟店で、審査機関で、為替の決定者でもある。役割が、全部わかば一人に集中している。世間ではこういうのを独占禁止法で取り締まるはずだが、団地の五階に、それを止める役所はない。あるのは、豚の貯金箱と、電卓だけだ。


「あおちゃん、今、何ポイント持ってるか、知りたい?」


「……いや、べつに」


「教えてあげる」


 その瞬間、わかばの目の奥に、明かりが灯った。お金の計算が絡むと、こいつの瞳は急にピントを結ぶ。さっきまでランドセルの重みでぼーっとしていた小学生が、いきなり敏腕の経理担当者になる。キラーン、というやつだ。


 わかばは電卓を、ぺた、ぺた、と叩いた。妙に長い。残高を出すだけで、こんなに桁を踏むものだろうか。(あとで思えば、あれはたぶん、利息の計算だ。)


 液晶に、数字が浮かんだ。


『-300』


「マイナス?」


「うん。あおちゃん、いま、三百ポイントの、借金」


 時間が、止まった。


 肩たたきでこつこつ貯めたはずの俺が、なぜか三百ポイントの債務を背負っている。プラスのはずが、マイナス。資産が、いつの間にか負債に化けていた。


 口座を開いた覚えもないのに、開設初日から残高が赤字。こんな金融機関があってたまるか。世の中の銀行は、新規開設したらまず特典で何百円かくれるものだろう。わが家の銀行は、開設したら、まず借金を背負わせてくる。


「なんで借金なんだよ! 俺、貯めてる側だろ!?」


「先週の、高所手当」


 ああ。買い出しの、二百五十円。


「あと、おとといの、見逃し料の、未払いぶん」


「待て、あれは払ってないぞ。交渉が決裂したから」


「決裂したけど、サービスは、提供済み。だから、ツケ」


「決裂したなら契約不成立だろうが。サービスも何も、なかったことになるはずだ」


「ううん。あおちゃん、あの朝、ちゃんと、二度寝しなかった。見逃しの効果は、もう出てる」


 効果は出ている、と来た。商品はもう食べちゃったんだからお代はもらう、と言い張る屋台のおやじみたいな理屈だ。


 わかばは、すっ、と目を細くした。


 そうだ。あの朝、俺は結局、見逃し料を払わずに起きた。払わなかったから、チャラになったと思い込んでいた。だが、こいつの帳簿の上では、見逃しというサービスは「提供済み」で、料金だけが宙に浮いていたらしい。それが今、ポイント残高という形で、亡霊みたいに俺に取り憑いている。


 過去の未払いを、新しい決済システムに統合してくる。バラバラだった負債を、ひとつの口座にまとめて繰り越す。これは、確か、あれだ……ローンの、おまとめ、とかいうやつだ。


「現金で払う。今すぐ。三百円、出すから、これでチャラだ」


 俺は財布に手を伸ばした。


「だめ。わかばPayは、現金、受け付けてない」


「は?」


「キャッシュレスだから。現金は、もう、使えない」


 電卓の上で、わかばの指が、つん、と画面を弾いた。


 俺の手の中の三百円が、急に、ただの金属の塊に見えてきた。使えないお金。価値の裏付けを失った、円い金属片。さっきまで世界一信用できると思っていた現金が、わが家の中でだけ、突然、流通停止を食らった。


「じゃあ、どうやって返すんだよ、その借金」


「労働で。肩たたきとか、お皿洗いとか」


「結局、こき使われるだけじゃねえか」


「うん。でも、キャッシュレス」


 キャッシュレスという単語が、もはや免罪符と化している。どんな理不尽も、最後に「でも、時代だから」「でも、キャッシュレス」と付ければ押し通せると思っているらしい。時代を盾に取った暴力だ。


 俺は、こたつに突っ伏した。木の天板が、頬に冷たい。


 時代の波という物は、いつだって、一番抵抗できない場所から押し寄せる。世間が電子決済へ移っていくのとはまったく無関係なところで、わが家にだけ独自通貨が生まれ、しかも俺は、その通貨制度の発足初日から、債務者だった。


 なんかもう、いいや。三百ポイント、肩たたきで返そう。揉めば、減る。それでいい。


 そう思って、ふと、嫌な可能性に気づいた。


「待て。肩たたきでポイントが貯まるなら……レートは? 一回、何ポイントだ」


 わかばは、ぼーっとした顔のまま、規約の、いちばん下の行を指さした。さっきは気づかなかった、ひときわ小さな字。


『※肩たたき一回につき、一ポイント。』


「……一回、一円か。三百回、揉めってことか」


「うん」


「いつまでに」


 わかばは、新しい紙を、すっと差し出してきた。几帳面な定規の線。鉛筆の、丁寧な字。


『わかばPay ポイント有効期限のお知らせ』


「ためたポイント、一週間で、消える」


「……俺の借金は?」


「消えない」


 わかばは、ぼーっとした顔のまま、こくりと、うなずいた。


             第三章 了

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