第2章「朝の起床と、二度寝オプション」
日曜の朝というのは、本来、神様が人間に与えてくれた数少ない慈悲のはずだ。
学校もない。買い物のメモもない。母さんは朝から商店街の特売に出かけていて、家にいない。布団の中の温度と、外の世界の温度差。その境界線にぬくぬくと挟まれている時間こそ、俺にとって唯一の聖域だった。
午前九時。俺はその聖域のど真ん中で、二度目の眠りに落ちかけていた。
カーテンの隙間から差す光が、まぶたの裏をほんのり赤く染める。窓の外で、どこかの子どもが自転車のベルを鳴らした。遠くで、団地の誰かが布団を叩く音。ぱん、ぱん、と規則正しい。世界はちゃんと動いていて、その世界の隅っこで、俺だけが堂々と止まっている。
最高だ。あと三十分。いや、一時間。今日くらい、許されてもいいはずだ。
そう思った、まさにその瞬間だった。
「あおちゃん、起きて」
枕元で、声がした。
低くて、平らで、抑揚のない声。寝起きの脳みそでも、誰のものかは即座にわかる。わが家にこんな省エネな発声をする生き物は、一匹しかいない。
俺は薄目を開けた。
水色のツインテールが、すぐそこにあった。膝をついて、俺の顔をのぞき込んでいる。茶色のシュシュ。トマト色のサロペット。寝起きの視界には、それが朝日を背負って、なんだか神々しくさえ見えた。妹が、わざわざ兄を起こしにきてくれた。きょうだいの情というのは、こういうものか――。
「起きないと、追加料金が発生します」
神々しさは、〇・五秒で消えた。
「……は?」
「九時を過ぎました。標準起床時刻、超過」
わかばはそう言いながら、片手に握ったものを、すっと俺の鼻先に突きつけてきた。
電卓だった。(昨日からこいつは、こればっかりだ。)
「待て。待て待て。なんで朝、起きるだけで金がかかるんだ」
「あおちゃん、ゆうべ、自分で言ったでしょ」
「何を」
「『明日は早起きして、たまった洗濯やる』って」
言った。確かに、言った。ゆうべ寝る前、コーラを飲みながら、なんとなく殊勝な気分になって、口走った気がする。だが、寝る前の決意なんてものは、たいてい、朝日とともに溶けてなくなるものだ。アイスより早く溶ける。
「あれは……ゆうべの俺が言ったことだろ。今の俺は知らない」
「でも、あおちゃんはあおちゃん」
「人格は連続してても、契約は別だ」
我ながら、何を言っているんだろうと思った。日曜の朝から、妹相手に、人格の同一性について議論している高校一年生。字面だけ見ると、わりと終わっている。
わかばは、こたつ机――ではなく、今は俺の枕元に正座して、電卓を一度、ぺた、と叩いた。
液晶に数字が浮かぶ。
『0』
「今、起きれば、ゼロ円。無料」
「当たり前だろ。起きるのに金を取るな」
「でも、二度寝すると」
わかばはもう一度、ボタンを叩いた。
『100』
「二度寝オプション、十分につき百円」
俺は、布団の中で固まった。
整理しよう。今すぐ起きれば、無料。だが、もう少し眠りたい場合は、その睡眠に、一分十円の値段がつく。つまりこいつは、俺の二度寝を、課金制のサブスクリプションか何かにしようとしている。
「なんだそのオプション。誰が頼んだ」
「あおちゃんの体が頼んでる。まだ眠そう」
「勝手に俺の体を代弁するな」
「あおちゃん、目、半分しか開いてない」
事実だった。反論の糸口すらない。
そもそも、二度寝オプションという言葉のセンスが、もう不穏だ。オプションというのは、本来、こちらが望んで追加するものだろう。座席のグレードアップとか、保険の特約とか。望んでもいない眠気に、勝手にオプション料金を貼りつけるのは、押し売り以外の何ものでもない。
「だいたい、二度寝オプションって言い方が、もうずるいんだよ。罠っぽさを言葉で隠してるだろ」
「あおちゃん、むずかしい言葉、知ってるね」
「兄として最低限の自衛だ」
二日連続で、まったく同じ台詞を吐いている自分に気づいて、少しだけ悲しくなった。
俺は半開きの目で、天井のシミを見上げた。あのシミは、たぶん上の階の水漏れの跡だ。何年も前から、ずっとあそこにいる。あいつには課金されないのに、なぜ俺だけ。
「いいか、よく聞け」
俺は布団から、なんとか上半身だけ起こした。それだけで、ものすごく頑張った気がする。
「二度寝ってのはな、誰の許可もいらないんだよ。自分の布団で、自分の意思で、もう一回寝る。これは人類に与えられた、基本的な権利だ。憲法にだって書いてある」
「何条?」
「……二十……五条あたり」
「それ、健康で文化的な最低限度の生活のやつ。二度寝は入ってない」
なんでこいつは、小学四年生のくせに、生存権の条文を知っているんだ。学校で習うのはもっと先のはずだ。それとも、最近の小四はみんなこうなのか。だとしたら日本の未来は、たぶん明るくない。
わかばは、すっ、と目を細くした。
これだ。交渉モードのスイッチ。朝から全開で来やがる。
「あおちゃん。今日、洗濯しないと、明日着る服、ない」
「……あるだろ。たぶん」
「ゆうべ、自分で『もう着る服がない』って言ってた」
また、ゆうべの俺だ。ゆうべの俺は、どうやら今朝の俺を地獄に突き落とすために、いろいろと予言を残していったらしい。過去の自分が、いちばんの敵だった。
「わかった。わかったから。今、起きる。だから、課金はナシだ」
俺は布団をはねのけようとした。
その瞬間、わかばが、もう一つ別の紙を、すっと差し出してきた。
ノートを破った、見覚えのある紙。やたら丁寧な、定規の線。
『すずらん団地 五号棟 あおちゃん専用 起床サービスメニュー』
通常起床(声かけ一回)……無料
追い声かけ(二回目以降)……一回二十円
布団剥がし……五十円
カーテン全開(強制日光浴)……八十円
冷蔵庫の麦茶を持ってくる……三十円
二度寝の見逃し……交渉
「メニューが、できてる」
「ゆうべのうちに作った」
「俺が寝てるあいだに、こいつ……」
ぞっとした。俺が二十五条がどうとか寝ぼけているあいだ、わかばはとっくに、料金体系を整備し終えていた。出方を全部読まれていた。獲物が起きる前に、罠は完成していたわけだ。
「今、声かけ、何回目だ」
「一回目は、無料。さっきの『起きて』」
「じゃあ、まだ無料の範囲だな」
「うん。でも」
わかばは、電卓を一度、ぺた、と叩いた。
『20』
「今、二回目を言いました。『起きて』」
「言ってないだろ、今のは!」
「言いました。さっき、布団に手をかけたとき。小さい声で」
記憶にない。だが、寝起きの自分の記憶ほど、あてにならないものはない。俺は今朝、自分が何を言ったかすら、保証できない。
「証拠は」
「録音はしてない。でも、わたしが聞いた。証人」
「身内の証言じゃないか」
「身内だから、いちばん近くで聞こえた」
ぐうの音も出ない、というやつを、俺はこの二日間で、もう三回くらい体験している気がする。
俺は、もう一度、布団に倒れ込みたい衝動に駆られた。すべてを忘れて、温かい暗闇に沈みたい。だが、そこに沈んだ瞬間、十分百円のメーターが回り始める。タクシーより高い気がする。
考えろ。こいつの料金表には、必ず穴がある。昨日もそうだった。
俺は、メニューの一行に目を留めた。
『二度寝の見逃し……交渉』
「待て。この『見逃し』って項目。交渉、って書いてあるな」
「うん」
「つまり、二度寝を見逃してもらう余地は、ある。交渉次第で」
「ある」
俺は身を起こした。眠気が、少しだけ引いた。交渉の余地があるなら、勝ち筋はある。
「じゃあ交渉だ。俺は今日、ちゃんと洗濯をする。昼までにやる。約束する。その代わり、午前中の二度寝は、見逃してくれ。チャラだ」
完璧な提案だと思った。労働の対価として、休息を要求する。労使交渉として、まっとうだ。
わかばは、ぼーっとした顔のまま、しばらく俺を見ていた。
その目の奥で、何かが、ちりっと光った。お金の匂いを嗅ぎつけたときの、あの顔だ。さっきまで眠そうにすら見えた瞳が、急にピントを合わせる。キラーン、というやつ。省エネ少女の電源が、お金の話のときだけ、なぜか勝手に全開になる。
それから、電卓を、ゆっくりと、ぺた、と叩いた。
『500』
「見逃し料、五百円」
「交渉って言っただろうが! 値上がりしてるじゃねえか!」
「交渉したから、値段がついた。さっきまでは、値段、なかった」
理屈が、宇宙の彼方まで吹っ飛んでいった。
つまり、交渉という行為そのものが、サービスとして課金対象だったらしい。黙って起きていれば無料だったものが、口を開いた瞬間、五百円の値札が貼られた。沈黙は金、というが、わが家では、沈黙だけが唯一の無料だ。
俺は天井のシミを、もう一度見上げた。あのシミは、何年もあそこにいて、一円も払っていない。羨ましい。心の底から、羨ましい。
なんだか、どうでもよくなってきた。昨日もこの感覚を味わった気がする。二日連続で、朝から妹に財布の主導権を握られている。抵抗するだけ、メーターが回る。これはもう、天気とか時差ぼけと同じで、抗うものではなく、受け入れるものなのかもしれない。生活様式だ。
「……もういい。起きる。洗濯する。金は払わん」
俺は布団をはねのけて、立ち上がった。寝起きの足が、少しふらつく。
「あおちゃん」
「なんだよ」
「立ち上がりサービス、お手伝いしようか」
「いらん。一人で立てる」
「でも、ふらついてた」
「立てるって言ってるだろ」
そう言って、台所へ向かおうとした、その一歩目だった。
足の裏に、ぺた、と何かが貼りついた。
見ると、それは、さっきの料金メニューだった。床に落ちていたのを、俺が踏んだらしい。素足の裏に、鉛筆で引いた定規の線の感触が、なんとなく伝わってくる気がした。
俺は、足を上げた。メニュー表が、ぺりっと床に戻る。たいした問題じゃない。ただの紙だ。そう思って、台所へ向き直ろうとした。
「あおちゃん」
わかばが、すっと、目を細くしていた。座ったまま、こちらを見上げている。声は相変わらず平らなのに、その平らさが、いちばん怖い。
「それ、メニュー表。踏んだ」
「……落ちてたからだろ。わざとじゃない」
「うん。でも、踏んだのは事実」
「だから、なんなんだよ」
わかばは、握っていた電卓を、こちらに向けた。
液晶には、まだ『500』の数字が残っている。さっきの見逃し料だ。だが、わかばの指は、その横の、クリアボタンには伸びなかった。むしろ、新しい数字を打ち込もうと、ゆっくり持ち上がっていく。
「足あと、ついた。だから、弁償」
俺は、まだ朝ごはんすら食べていない。
第二章 了




