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すずらん団地五号棟 〜わかばとお小遣いと、時々ちくわ〜  作者: 夕凪 鏡介


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第1話「5階の買い出しと、高所手当」

俺の妹、わかば。小学四年生、十歳。


水色のツインテール、茶色のシュシュ。


トマトみたいに赤いサロペット、白い丸襟のブラウス、白いソックス。


パッと見、絵に描いたみたいな「おっとり系小学生」だ。




……あくまで「パッと見」だが。




ガワは可愛い。中身は、資本主義の権化である。




たとえば今。


わかばは畳の上に、しおれた葱みたいにぺたんと転がっている。


茶色のシュシュで結ばれたツインテールの毛先が、扇風機の風を受けて頼りなく揺れている。


サロペットの肩ひもが片方ずり落ちて、ブラウスの肩がのぞいているが、本人は直す気配ゼロ。


白いソックスを履いた両足が、ぱたん、ぱたん、と気だるく上下している。




傍目には、ただの夏休みダレダレ小学生だ。




でも俺は知ってる。




あれは充電中だ。




獲物が近づいた瞬間、頭の中の電卓がガッと起動する。


十円玉の単位まで嗅ぎつけてくる。


財布の紐を握ってるのが俺だろうが、父だろうが、ジジイだろうが関係ない。


等しく搾り取られる。




(俺たち家族は、こいつにとって全員カモだ)


(しかも当人にその自覚がない)


(無自覚な搾取者ほど、恐ろしいものはない)




「あおちゃん」




来た。




(出た、『あおちゃん』の四音)


(このイントネーション、過去データ照合中……)


(……たぶん『中の上』)


(中の上イコール、財布が痛む系)




「あおちゃん、いま暇」


「暇じゃない」


「ちょうどよかった」


「聞いてた?」




俺はグレーのパーカーのフードを首から払って、座椅子から半身を起こす。


最近、わかばが「あおちゃん」と呼ぶ時の抑揚で、要件のヤバさが予測できるようになってきた。


これはもう、ただの生存戦略の話だ。




わかばはのろのろと身を起こすと、サロペットの胸ポケットから、


五百円玉と、百円玉一枚、十円玉三枚を取り出して、畳の上に並べた。


合計六百三十円。並べ方が、無駄に等間隔だった。




(神社の窓口かよ)


(小銭の整列だけはやけに丁寧)




「あおちゃん。お母さんが、ちくわと豆腐と卵」


「うん」


「あと、わたしのチョコミントアイス」


「うん」


「買ってきてって」


「うん」


「うちは五階」


「知ってる」


「エレベーター、ありません」


「住んでるから知ってる」


「あおちゃんは、高一」


「だから何」


「わたしは、小四」




わかばは六百三十円を、両手のひらでぐっと押し出してきた。


動作だけは、無駄にうやうやしい。


賽銭箱に金を入れる老人みたいだった。




「以上の状況をふまえ」


「やめろ」


「本日の買い出し、あおちゃんが適任です」


「お前も来い」




わかばの薄ブルーの目が、すっ、と細くなった。




(出た)


(目が細くなるやつ)


(こいつ、お小遣い計算モード入った時だけ、目がカミソリになる)




「同行希望なら、別料金です」


「何の」


「ついていき代」


「払うわけねえだろ」


「じゃあ単独で」


「お前、俺の妹だよな? 血、つながってんだよな?」


「つながってます」


「じゃあ一緒に来いよ」


「血と労働は別です」




……十歳児の口から出ていい台詞じゃなかった。




俺は深いため息をついて、六百三十円を握りしめて立ち上がった。


畳の上では、わかばがもう半分溶けかけている。


風鈴がちりんと鳴って、扇風機の首が右に振れた。


世界はどこまでも平和で、俺だけが理不尽な労働市場に放り込まれている。




茶色いスリッパを脱いで、白いスニーカーに足を突っ込む。


ふと振り返ると、わかばがこっちをじっと見ていた。


畳に頬をくっつけた横顔のまま、目だけがこっち向き。




「なんだよ」


「あおちゃん」


「うん」


「いってらっしゃい」


「……おう」


「事故には、気をつけて」




(おっ)


(人間っぽいこと言うじゃないか)




「労災が下りないので」




(出た)


(十歳児が労災を語った)


(こいつの中の人、誰だよ)


(労務管理士か?)




ドアを閉める。




外廊下に、むっとした熱気が押し寄せる。


七月の終わり、午後三時の団地は、煮詰めた麦茶の匂いがする。




すずらん団地・五号棟・五階。エレベーターなし。




この物件、家賃が安いのには、ちゃんと理由がある。




(一階分、二十四段)


(五階から一階で、九十六段)


(往復で、百九十二段)




数学嫌いだったはずなのに、最近やたら計算が早くなった。


これも全部、あいつのせいだ。


家計簿みたいな話し方をする妹のせいで、


俺の頭の中の電卓も、勝手に起動するようになってしまった。




三階の踊り場で、ピアノの音が漏れてきた。




ぽろん、ぽろん、と一音ずつ区切る、お手本みたいに正確な指運び。


ハノンの一番、二番、三番。




(あの几帳面さ)


(たぶん三〇五号室の三つ編みの子)


(妹のクラスメイト、丸メガネの、しっかりした子)


(名前は確か……つむぎ、だっけ)




うちの妹に爪の垢を煎じて飲ませたい。




商店街までは、徒歩五分。




文月堂の前を通る時、俺の足が、勝手にちょっとだけ遅くなる。




我ながら、わかりやすすぎる。




ガラス越しに見える店内、新刊コーナー。


長い黒髪を背中で小さく結んだ女子が、革装の文庫本を立ち読みしている。


ベージュのカーディガン、白いブラウスに紺色のリボン、深緑のロングスカートの裾が、扇風機の風で、ふわっと膨らんでいる。




ひより。




文月堂の娘。クラスはひとつ違う。俺の、その、まあ、片思いの相手だ。




……っていう設定が、いつの間にか俺の人生にインストールされてる。




(インストールした覚えは、別に、ない)


(っていうかインストール元はどこだ)


(自然発生か?)




ひよりは本のページを、世界で一番大事なものを撫でるような指先で、めくる。




指先で。




ページを。




俺はその横顔を、三秒だけ見た。


声をかける勇気は、ちくわと豆腐と卵とチョコミントアイスを買いに行く男子高校生の装備品リストには、入っていなかった。




無言で通り過ぎる。




くそ。今日も通り過ぎた。




にしくぼ精肉惣菜店でちくわ。駅前のスーパーで豆腐と卵とチョコミントアイス。




ちなみにチョコミントアイスはバニラより四十円高かった。




俺は無言でレジに六百七十円を出した。


差額の四十円は、俺のポケットマネーから消えた四十円である。




帰り道、両手にビニール袋を提げて、団地の階段を見上げた瞬間、


俺は今日二度目のため息をついた。




九十六段。買い物袋。気温三十二度。




しかも、卵。




卵というのは、世界で一番労働者を試す食材である。


落としたら終わり、傾けたら危険、揺らしたら罪。


エリクサー並みのレアアイテムよりも丁寧に運ぶ必要がある。




(エリクサーって、ゲームの話を知らない人には何のことか分からないやつだな)


(まあいい)


(俺の心の中だから許せ)




俺は卵パックを胸の高さに抱え直し、


もう片方の手にちくわと豆腐とアイスをまとめて、ひと呼吸ついて、登り始めた。




二階。


三階。三階の踊り場では、まだピアノが鳴っていた。さっきとは別の曲に変わっていた。


四階。




四階で、俺は一度立ち止まった。




膝が、笑った。




五階。




ドアを開けて、玄関に倒れ込むようにして買い物袋を置く。


冷房の効いた居間から、ぱたぱたと白いソックスの足音が近づいてきた。




「あおちゃん、おかえり」


「ただいま」


「お疲れさま」


「ありがとう」


「では」




(出た)


(『では』)


(『精算しましょう』フラグ)




「精算しましょう」




来やがった。




わかばは座卓の上にメモ帳とえんぴつを置き、ちょこんと正座した。


トマト赤のサロペットの肩ひもは、相変わらずずれたまま。


白い丸襟のブラウスの肩がのぞいているが、本人は気にしてない。




「ちくわ、お豆腐、たまご、わたしのチョコミントアイス」


「うん」


「合計、六百七十円」


「うん」


「お母さんから預かったのは、六百三十円」


「うん」


「差額、四十円」


「俺が立て替えた」


「立て替え分は、のちほどママから、あおちゃんに返金されます」


「助かる」


「ところで、あおちゃん」




ここからが本題なのを、俺は知っている。




「うん」


「うちは、五階です」


「知ってる」


「エレベーター、ありません」


「住んでるから知ってる」


「あおちゃんは、買い物袋を持って、九十六段、登りました」


「うん」


「これは、労働です」


「うん」


「ただの労働ではありません」


「うん」


「高所労働です」




俺は天井を見上げた。蛍光灯のひもが、ゆらゆら揺れていた。




「ママから、高所手当が出ます」


「は?」


「一段あたり、一円」


「マジか」


「九十六段で、九十六円」


「いい話じゃん」


「ただし、本日は気温三十二度の猛暑日」


「うん」


「猛暑加算、二十円」


「うん」


「卵搬送による精神的負荷、十円」


「うんうん」


「合計、百二十六円」


「百二十六円か、ありがたい」


「ただし」




嫌な予感がした。




「請求は、わたしが代理で行います」


「……は?」


「ママに『うちのあおちゃんが九十六段、卵を持って登ったので、高所手当をください』と説明できるのは、見ていたわたしだけ」


「ちょっと待て」


「だから、代理請求手数料が必要」


「いくらだ」


「百パーセント」


「全額じゃねえか!」


「いえ、回収成功時のみ百パーセント。失敗したらゼロ。完全成功報酬制です」


「お前の方の取り分の話だろ!」




扇風機の首が、左に振れた。


風鈴が、ちりん、と鳴った。


畳の上に、わかばの小さな影が、ちょこんと座っていた。




俺は天井を見上げて、深いため息をついた。




「俺の取り分は」


「労働経験」


「金じゃないのか」


「ハグ、一回まで」


「金にしてくれ」




わかばは答えなかった。




代わりに、メモ帳に「あおちゃん高所労働・代理請求126円・回収予定」とさらさら書き込んで、その紙ごと胸ポケットにしまった。


サロペットの胸ポケットに、料金表が、すうっと、吸い込まれていく。




その瞬間。




今日はじめて、わかばの薄ブルーの目が、ほんの一瞬、キラーン、と光った。




……可愛い、と思ってしまった。




(おい)


(その「可愛い」、税抜きで今いくら確定してる?)


(四十円+九十六段+百二十六円分の搾取予定)




うるせえ。今日くらい、忘れさせろ。




居間の畳の上で、わかばはチョコミントアイスのフタを真剣な顔で開けていた。スプーンを刺して、ひとくちすくって、口に入れる。ほっぺたが、ふにゃっとなる。薄ブルーの目が、ふにゃ、と細くなる。




あの一口分の幸せの原資が、たった今、俺の財布から消えた四十円と、


九十六段の階段と、


これからわかばがママから回収する予定の百二十六円だと思うと、なんか、もう、笑うしかなかった。




俺はあぐらをかいて、コーラの缶を開けた。




プシュッ。気の抜けた音。




扇風機がもう一度、首を振った。




……今日の俺の収支、四十円返金されるとして、結局はマイナスもプラスもなし。労働だけが残った。




なんかもう、いいや。




                            第一章 了

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