第47話「父の残業と、時間を売る仕事」
夜11時を過ぎても、居間の電気は消えなかった。
わかばは、ちゃぶ台の前で、ためにゃんの電卓を叩いていた。ぺたぺたという音だけが、部屋に響いていた。何かを計算しているというより、待っている手が、勝手に動いているようだった。
「お父さん、遅いな」
俺は、時計を見た。父の帰宅時刻は、金曜は8時半、火曜は9時。前に、そう聞いた覚えがある。今日は水曜のはずだったが、もう、そのどれよりも遅い。
「残業だって」
わかばが、ぼそっと言った。
「なんで知ってる」
「お母さんが、寝る前に、教えてくれた」
母さんは、朝が早い。もう自分の部屋で、とっくに寝ている頃だった。この家で、父の帰りを待っているのは、俺とわかばの二人だけだった。
「残業代って、いくらだろ」
わかばが、急に、電卓を持ち直した。
「お前、こんな時間まで、そっちの計算する気か」
「する気」
(金の匂いがすると、こいつの眠気は消える。省エネ設計のはずなのに、ここだけ性能がいい。)
玄関のドアが開いたのは、それから、しばらくしてからだった。
「ただいま……」
いつもの「ー」の伸びが、今日はなかった。父だった。ネクタイは、すでに緩んでいた。缶ビールも、持ってきていなかった。
「おかえり、お父さん」
わかばが、いつもの通り立ち上がった。缶ビールを開けた。リモコンを渡した。エアコンを合わせて、肩を揉みはじめる。手順は、何年たっても変わらない。
「お父さん。お疲れさまパック。500円」
「……ああ。頼む」
(父の「ああ」が、こんなに重いのを、はじめて聞いた気がする。)
「父さん。今日、何時間、残業したんだ」
「3時間かな。9時まで、粘った」
「残業代って、時給計算なのか」
「うん。だいたい、1500円ってとこだ」
わかばの目が、すっ、と細くなった。手は、肩を揉んだまま、口だけ動いた。
「3時間だから、4500円」
「暗算はやいな」
「お父さんの3時間、わたしの9回ぶん」
俺は、口の中で数字を転がした。500円の、9倍。たしかに、そうなる。
(会社は、疲れた時間を、高く買うんだな。うちより、ずっと。)
父が、ふっ、と笑った。
「安く見えるだろ。会社の方が、わかばちゃんより、高いんだから」
「安くない」
わかばは、言い切った。
「お父さんは、時間、売るの平気でしょ。会社に。でも、帰ってきてからの時間は、誰にも売らない」
缶ビールを口へ運びかけていた父の手が、止まった。
「……それは、前に、俺が言ったやつだな」
「なに」
「ものを買う金と、誰かが動いてくれたことに払う金は、別物だって話。お前の500円は、たぶん、後ろのほうだ」
「500円で、いつも同じ。値上げ、しない」
「なんでだ。今日、いくらでも払えるのに」
肩を揉む手が、ふと止まった。
「なんでかは、わたしにも、わからない」
わかばは、正直に言った。肩を揉む手だけが、また動きだした。
俺は、コーラのプルタブに指をかけて、止めた。
……刺された。残業代を計算していたのは、俺のほうだったはずなのに。誇らしいのか、少し、切ないのか。自分でも、よくわからなかった。
父は、目を閉じたまま、財布から500円玉を取り出した。わかばの手のひらに、のせる。
「今日も、頼むわ」
「うん。お疲れさま」
ためにゃん電卓の「YEN」が、テレビの明かりを受けて、いつもと同じ強さで光った。4500円の日も、500円の日も、そこだけは変わらなかった。
父の3時間は、4500円になった。わかばの500円の、9倍だった。
父の疲れと、わかばのサービスが、今日も500円で、取引されていた。




