第48話「文月堂の再開予告と、言えなかった続き」
からりと古いベルが鳴った。
文月堂の中は、2ヶ月ぶりに、木の匂いがした。
新しい棚板が、まだ乾ききっていない。ひよりさんは、段ボールの山の前で、腕まくりをしていた。
「あおばさん」
ひよりさんが、顔を上げた。
「来週、開けるんです。だから、その」
「だから、その、で終わるのか」
(本の話になると饒舌なくせに、頼み事になると急に幼稚園児に戻る。何度見ても、いまだに慣れない。)
「手伝って、もらえますか」
「もちろん」
即答した自分に、俺は少し驚いた。予定なんて、聞く前から要らなかった。
棚に、本を並べる。ジャンル別に。著者名の五十音順に。ひよりさんの指示は的確で、俺はただの荷物運びだった。
(デートというより、バイトだ。でも、時給が発生しないバイトほど、なぜか楽しい。この経済観念のなさ、わかばに見られたら殴られる。)
「お父さん、いないんですね、今日」
「仕入れ、行ってます。夕方には」
「じゃあ、それまでは」
「それまでは、二人です」
ひよりさんが、さらりと言った。俺の手から、本が一冊、滑り落ちそうになった。
(今の、なんの意図もない一文だよな。ないよな。あったら、俺は今すぐ回れ右して駅まで走る自信がある。)
作業の途中、ひよりさんが、古い一冊を棚の隅から拾い上げた。
「これ、休業前は、誰も借りなかった本」
表紙が、色褪せていた。ひよりさんは、それをめくって、ある一行を指でなぞった。
「『開けるより、開けたままにしておく方が、勇気がいる』」
「……なんだよ、それ」
「知りません。でも、なんか、今日っぽいなって」
ひよりさんは、声を立てて笑って、また棚に戻った。俺だけが、その一行を、しばらく持て余していた。
(開けたままにしておく方が、勇気がいる。誰目線だよ、それ。俺は今、扉どころか、口さえ開けられずにいるんだが。)
棚の上段に、手を伸ばした。ひよりさんも、同じ本に、手を伸ばした。
指先が、触れた。
どちらも、動けなかった。数秒後、ひよりさんが先に手を引いて「どうぞ」と譲った。俺は受け取った本の背表紙を、意味もなく二度見た。
(心臓に悪い。この店、防犯カメラより先に、俺の心拍数を心配してほしい。)
最後の段ボールが、空になった。ひよりさんが、汗を拭いながら、こっちを見た。
「ありがとうございました。あの」
「あの?」
「合鍵、もう」
言いかけたひよりさんを、俺は、遮った。
「まだ、いい」
自分の声が、思ったより、はっきり出た。
(このまま持っていたら、いつか、ひよりさんのお父さんに勘づかれる。それでも、言った。)
続けようとした。まだ、いい理由を。本当は、鍵の話じゃないことを。
店の外で、車が停まる音がした。
「……父、早い」
ひよりさんの声が、跳ねた。俺たちは、悪いことなんて何もしていないのに、妙に慌てて段ボールを畳みはじめた。
(言おうとした言葉が、ガムテープの音にかき消された。俺の人生、いつもこうだ。)
「ただいまー。おお、あおばくんも、来てくれてたのか」
ひよりさんのお父さんは、両手に紙袋を提げて、なにも知らない顔で笑った。俺たちは、なにも知らない顔で笑い返した。
帰り道、俺は、言えなかった続きを鞄の中身みたいに持ったまま歩いた。
棚には、全部の本が戻った。
あおばの伸ばした手と、ひよりの言いかけた鍵の続きが、車の音ひとつで相殺されていた。ただし、その相殺に、まだ言えない一言は含まれていなかった。




