第43話 わかばの宿題と時間の返し方
夏休み前、最後の週だった。
網戸の向こうで、蝉が鳴き始めていた。
わかばが、鉛筆を握ったまま止まっていた。
珍しい光景だった。
「……なにやってんの」
「宿題」
それだけ言って、また黙った。同じ文章題の上で、鉛筆が止まっている。
(珍しいこともあるもんだな)
「見せてみろ」
「いい」
「いいから」
わかばは、しぶしぶノートを差し出した。八百屋でりんごとみかんを買う、割合の文章題だった。
「金の話だろ。お前の専門だろ」
「うるさい」
わかばは、めずらしく口をとがらせた。
「現実の値段は、わかる。でも、これは、現実の値段じゃない」
わかばにも、わからないことがあるらしかった。それが、なんだか新鮮だった。
わかばは、鉛筆の先で、ノートを何度もつついていた。答えが降ってくるのを、待っているみたいだった。汗で、前髪が少し、額に張りついている。
「教えてやろうか」
「いい」
「前に、時間、貸してくれただろ。まだ返してなかった」
わかばの手が、止まった。
「……あれ、まだ生きてたの」
「生きてる」
「利子は」
「つけない。前に言われた通り、そのまま返す」
わかばはしばらく、こっちを見ていた。それから、鉛筆をちゃぶ台に置いた。
「じゃあ、お願いします、あおちゃん」
妙に、素直だった。
俺は、割合の説明を、わかばの言葉に翻訳することにした。数式じゃなくて、台帳の言葉で。
「りんごの数を、財布の中の100円玉だと思え」
「……お金の話に、していいの」
「お前がわかるように言ってるだけだ」
「100円玉が、4枚から5枚に増えた。何パーセント増えた」
「1枚増えたのは、わかる。でも、パーセントが」
「4枚を、もとの財布の中身だと思え。5枚は、増えたあとの財布」
わかばは、しばらく黙って、ノートをにらんでいた。扇風機の首が、ちょうどこっちを向いて、また離れていった。
「……25パーセント、増えた」
「正解」
わかばは、次の問題も、同じやり方で解いた。今度は、誰にも聞かなかった。
「なんで、財布だとわかるのに、りんごだとわからないんだろう」
(それは、たぶん、俺にもわからない)
「たぶん、りんごに値段をつけたこと、ないからだろ」
「……りんごにも、値段あるのに」
「お前がつけたことないだけで、あるんだよ」
わかばは、まだ納得のいかない顔をしていたが、それ以上は聞いてこなかった。鉛筆を持ち直して、残りの問題を、自分で解き始めた。
もう、俺の出番はなかった。
(あっさり、返し終わったな。貸しって、こんなもんか)
わかばが、顔を上げずに言った。
「あおちゃん、時間、ありがとう」
まっすぐな言葉が、思ったより効いた。
俺はコーラに手を伸ばしかけて、やめた。
……刺された。見抜かれたわけでもないのに、刺さることもあるらしい。
「別に、いいって」
「貸しは、貸しだから」
その几帳面さが、こいつらしかった。
「これで、チャラ?」
「チャラ」
言ってから、わかばは、少しだけ迷った顔をした。
「あおちゃん。次、なんかあったら、また借りていい?」
「いつでも」
答えてから、しまったと思った。無期限の貸付を、うっかり約束してしまった。
わかばは、それだけ聞くと、また問題に戻った。鉛筆の音だけが、しばらく続いた。
今日の貸し借りは、そこで終わった。次はいつ、何を借りるのか、決めているのはわかば本人だけだった。




