第42話 文月堂の静けさと鍵を使う理由
電話がかかってきたのは、日曜の朝だった。
「あおばさん。お願いが、あって」
ひよりさんの声はいつもより少しだけ早口だった。
「父の眼鏡を店に忘れたみたいで。母と、出かけてしまってて。取りに行けないんです。合鍵、渡してましたよね」
渡されていた。使う日が来るとは思っていなかった。
「レジの奥の棚に。すみません、こんなこと頼んで」
「……いえ。行きます」
電話を切ってから、俺はしばらく鍵を見つめていた。真鍮の小さな鍵。使う理由が向こうからやってきた。わかばに見つかったとき、あれだけ釘を刺された。なのに初めて使う口実が「頼まれ事」とは、少し拍子抜けだった。
(見せびらかすな、とは言われたけど。使うなとは、言われてない)
商店街の端まで歩いた。シャッターの半分下りた文月堂は、休業の札が下がっていた。休業に入って、2週間が経っていた。
周りに誰もいないのを確かめてから、俺は鍵を差し込んだ。かちりと、思ったより軽い音がした。からりと、聞き慣れたベルの音が続いた。
中は、暗かった。
本の匂いがいつもより濃かった。人がいないと、匂いだけが残るらしい。俺は電気をつけずに、窓から入る光だけでレジの奥へ回った。
棚の上に眼鏡があった。すぐに見つかった。
それだけのはずだった。
早く出よう、と思った。ひよりさんのお父さんが戻ってきたらと考えると、落ち着かなかった。
だが俺はしばらく動けなかった。カウンターの内側に、ひよりさんがいつも座っている椅子があった。座面が少しへこんでいた。ここに座って、あの人は毎日本を読んでいる。誰もいない店だからこそ、その光景がやけに鮮明に浮かんだ。
(俺は何をしに来たんだっけ)
眼鏡を上着のポケットに入れた。それで用は済んだ。済んだはずなのに、俺はカウンターの上の一冊に目を止めた。
しおりが挟まっていた。読みかけの本だった。ひよりさんのいつもの革装のやつじゃない。薄い文庫本だった。
俺はそれを開かなかった。開いたら、あの人の読んでいる途中を勝手に覗くことになる。それは鍵を渡された理由には含まれていない。
店を出て、鍵をかけた。かちりと、また軽い音がした。からりと、ベルがもう一度鳴った。誰にも会わずに済んだことに、少しだけほっとした。
その足で、俺はひよりさんの家に眼鏡を届けた。
「わざわざすみません」
ひよりさんは玄関先で少しだけ困った顔をした。父親は奥にいるらしく、姿は見えなかった。
「店、寒くなかったですか」
「……いえ。本の匂いが濃かったです」
そう言うと、ひよりさんは目をまるくした。それからいつもの声を立てない笑い方をした。
「わかります。人がいないと、匂いが残るんです」
俺と同じことを思っていたらしい。それがなぜだかうれしかった。
「カウンターの本、読みかけでした。閉めるとき、開けずに置いてきました」
言ってから、余計なことを言ったかと思った。だがひよりさんはしばらく黙ってからこう言った。
「前に読んだ小説に、こんな一節があったんです。人の読みかけを閉じたままにしておける人は、たいてい、その人の時間を大事にできる人だって」
また本の話だった。文脈はあいかわらず読めなかった。だが今日のそれは、俺を責めているのでも試しているのでもないと、なんとなくわかった。
(この人はいつも、本の後ろに隠れて本当のことを言う気がする)
「合鍵、返しましょうか」
俺がそう言うと、ひよりさんは首を小さく横に振った。
「まだ持っててください。休業、あと1ヶ月半あるので」
「……はい」
「父の眼鏡、また忘れるかもしれないし」
そう言って、ひよりさんは今度は声を立てて笑った。眼鏡を忘れる父親を口実にした気がした。俺がコーラを飲む口実を探すのと同じように。
帰り道、俺はポケットの中の鍵を握っていた。
口実はもういらないと言われたはずだった。なのに今日、俺は口実の代わりになるものをちゃんと持って帰ってきた気がする。眼鏡ひとつぶんの本物の用事。
わかばが知ったら、これを何円と値踏みするだろうか。ふとそんなことを考えた。……いや、あいつでもたぶん値段のつけようがないと言う気がした。
合鍵をいつ返すかの約束と、次の忘れ物を届ける約束は、まだかたちになっていなかった。




