第41話 レンの麦茶と言わない優しさ
あおばの部屋のドアを、ノックもなく開ける人間は、ひとりしかいない。
「お邪魔してます」
レンは言いながら、もう畳に寝そべっていた。スマホを顔の上に掲げたまま、器用に片手だけ振ってきた。
「勝手に入るなよ、毎回」
「毎回許してるくせに」
その通りだったので、俺は黙って麦茶を出した。冷蔵庫の指定席に、レンの分の缶麦茶があるのは、もう何年目かのことだった。数える気にもならないくらい、長い付き合いだった。
レンはスマホを置いて、上体だけ起こした。それから、じっと俺を見た。
「……なんだよ」
「いや」
「言えよ」
「お前、なんか、顔が違う」
鋭いところを、こいつは急に突いてくる。妹の観察眼とは違う。妹は今の状態から逆算する。こいつは、ただ、前との違いを覚えているだけだ。
(今日は、わかばだけじゃなくて、こいつにまで見られてるのか)
「別に、いつも通りだけど」
「机の本、埃かぶってたのに、もうない」
俺は返事に詰まった。前に来たとき、確かにそんなことを言われた覚えがあった。あの本は今、もう手元にない。返しに行って、次のを借りて帰ってきていた。
「……よく覚えてるな、そんなこと」
「お前の部屋の情報量、俺、意外と多いから」
「ストーカーかよ」
「親友な」
レンはそう言って、また寝そべった。今度は、こっちを見なかった。
「聞かないのか」
「聞かない」
「なんで」
「聞いたら、こっちが何か言わなきゃいけなくなるだろ」
その一言で、レンが何を思い出しているのか、なんとなくわかる気がした。去年の春、気持ちを言葉にして友達をひとりなくしたと、前に聞いたことがある。それ以来、誰かの恋バナに踏み込むときだけ、こいつは妙に慎重になっている気がする。
(そっちは、そっちで、まだ引きずってるのかよ)
(優しさっていうより、まだ怖いだけなのかもしれない)
「レン、お前」
「言うな」
先に止められた。
「俺の話は、今、しなくていい。お前の話も、今、しなくていい。麦茶だけ飲みに来た」
妙に格好いいことを言うわりに、こいつはまだ寝そべったままだった。締まらない絵面だった。
こいつは、俺が深夜ラジオにハガキを送っていることを知っている、たったひとりの人間だった。それでも、一度も茶化してきたことがない。踏み込まない距離感は、いつもこいつが先に決めてくれる。
襖の向こうから、足音がした。わかばだった。
「レンくん、300円」
(慰謝サブスクは、去年のうちに終わってたはずだ。今は、ただの麦茶代だ)
「早いな、催促」
「今月ぶん」
わかばは、ためにゃんの電卓を片手に、部屋に入ってきた。レンは財布を探りながら、ちらっと俺を見た。
「なあ、わかば。お前の兄ちゃん、最近、なんか」
「聞かないんじゃなかったのかよ」
「わかばになら、聞いていい」
都合のいい理屈だった。わかばは、俺の顔を、一瞬だけ見た。
「楽しそうにしてる。あと、貸し、まだあるから」
「貸し?」
「あおちゃんには、わかる」
わかばはそれだけ言うと、レンから300円を受け取って、部屋を出ていった。レンの財布は、さっきより、確実に軽くなっているはずだった。
……刺された。今日は、二人がかりだった。
「……貸しって、なんだよ」
数日前、わかばに言われた台詞を、俺はそのままレンに使っていた。
「言わなくていい」
レンは、少し笑って、また寝そべった。
「じゃあ、俺も、聞かない」
「その代わり、いいことあったら、奢れよ」
「気が早いんだよ」
「気が早いくらいで、ちょうどいい」
(調子いいな、こいつも)
俺はコーラに手を伸ばしかけて、やめた。今日はまだ、1本も飲んでいなかった。
言わない優しさが、この部屋にふたつあった。レンの沈黙と、わかばの貸しが、同じ部屋に置かれていた。回収されるのは、まだ、先の話だった。




