第39話 文月堂の合鍵と手放した口実
商店街のいちばん端。木枠のガラス戸の前で、俺はしばらく立ち止まっていた。
手には、コーラじゃないものが、ひとつ。
(何を言うか、まだ決めてない。決めてないのに、来た)
からりと古いベルが鳴った。
「あ。あおばさん」
ひよりさんは、レジの奥で本を読んでいた。顔を上げて、いつもの声を立てない笑い方をした。
「今日は、返す本、ないですよね」
「……はい。ないです」
「珍しい」
ひよりさんは、しおりをはさんで本を閉じた。俺は持ってきたものをカウンターに置いた。バウムクーヘンだった。輪の形をした、あの菓子。
「これ……お口に合うか、わからないですけど」
「わたし、バウムクーヘン、好きです」
ひよりさんは目をまるくした。
(よし。第一関門、突破)
「なんで今日、これを?」
俺は答えに詰まった。わかばの声が頭の中でこだまする。
(あおちゃんの言いたいことまでは教えられない)
「文月堂、休業するって聞きました」
「……ああ。改装するので」
「2ヶ月、らしいですね」
「はい。父が、前々から直したがってて」
ひよりさんの声は、いつもと変わらなかった。俺の心臓のほうが、勝手に走り出していた。
「……行けなくなるなって、思って」
「行けなくなる?」
「本を借りに、来られなくなる」
ひよりさんは、レジ台の本の背表紙を指先ですっとなぞった。何かを思い出す仕草だった。
「前に読んだ本に、書いてありました。理由がなくても会いに行きたい人は、たいてい答えが決まってるって」
文脈の読めない一言だった。だが、俺にはまっすぐ刺さった。
(本の引用で殴られるとは、思わなかった)
「その本の、あおばさんのぶんの結末、聞いても?」
ひよりさんはそう言って、俺の目を見た。逃げ道をふさぐような聞き方だった。
「口実、なくても、来ていいですか」
言い終えてから、心臓が一拍遅れて跳ねた。
ひよりさんはすぐには答えなかった。手元の本の角を、指で何度もなぞっていた。長い数秒だった。俺はその数秒のあいだ、コーラの缶を開ける仕草をしかけて、持ってきていないことに気づいた。習慣だけが空を切った。
「……いいです」
ひよりさんはぽつりとそう言った。
「理由、いらないので」
俺はそれだけで、じゅうぶんだった。だが口が勝手に、次の言葉を続けていた。
「休業中、店番とか」
「休業中は、店、開けないので」
即座に訂正された。俺は間抜けな提案をした自分に、内心で頭を抱えた。
(今、自分で口実に戻ろうとしただろ、俺)
「……そうでした」
「でも」
ひよりさんはしばらく黙っていた。それから、レジの奥の抽斗をそっと開けた。
「父に、なんて言おうか迷うんですけど」
迷いながら、ひよりさんは小さな鍵を取り出した。
「休業中の合鍵です」
「いいんですか、そんな」
「よくないかもしれません。でも」
ひよりさんは鍵を、俺の手のひらにそっと乗せた。
「口実、いらないって言われたので。だったら、鍵も、いらない理由で渡します」
俺は鍵を受け取った。ずっしりと重い気がした。実際は、ただの真鍮の鍵だったけれど。
「バウムクーヘン、ありがとうございます」
「……いえ」
「今度、来たとき、お茶いれますね。炭酸じゃないやつ」
ひよりさんはそう言って、また笑った。今度は、声を立てない笑い方じゃなかった。
俺は、まだ告白していない。レンの顔が、今も、ちらつく。だが今日、俺は口実をひとつ手放した。かわりに、鍵をひとつもらった。差し引きで何が増えたのか、うまく計算できない。わかばなら、電卓ですぐに出すんだろうか。
からりと古いベルを鳴らして、店を出た。空が、よく晴れていた。
あおばの手放した口実と、ひよりの迷いながら渡した鍵が、口実のいらない約束で取引されていた。ただし、その約束に、まだ言えない一言は含まれていなかった。2ヶ月ぶん、置き場所だけを先に確保した。
第39話 了




