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すずらん団地五号棟 〜わかばとお小遣いと、時々ちくわ〜  作者: 夕凪 鏡介


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第37話 つむぎの猛練習と聴くだけの時間

 俺の妹、わかば。最近つむぎに会っていない。会っていないのは、俺じゃなくて、わかばのほうだ。


「つむぎちゃん、最近来ないな」


「うん。忙しいらしい」


 わかばはためにゃんの電卓をいじりながら、ぼーっとそう言った。声の温度がいつもよりすこし低い。


 つむぎは3階に住むわかばの数少ない友達のひとりだ。学級委員で常識人。ピアノを習っている。去年の発表会では、わかばに緊張ほぐし手数料として石フィギュアを1個渡している。


「発表会、また近いのか」


「発表会じゃない。コンクール、地区の予選」


「格が違うんだな。入賞したら賞金出るのか」


「あおちゃん、それ聞くのは今じゃない」


 わかばはそう言うと、電卓をぺしっとちゃぶ台に置いた。俺の質問を、値踏みする価値もないと判定したらしかった。


(お前が金の話するの、我慢したのか。珍しいこともあるもんだな)


「うん。落ちたら、終わり」


 わかばは電卓の画面を見つめたまま、しばらく黙っていた。


 その日の夕方、俺たちは3階のつむぎの家に向かった。玄関のインターホンを押す前に、中からピアノの音が漏れていた。同じフレーズを何度も何度も繰り返している。


 つむぎのお母さんが困った顔でドアを開けた。


「わかばちゃん。ごめんね、今ちょっと……」


「呼んでない。ただ、見に来ただけ」


 わかばは玄関先の三和土にそのまま座り込んだ。お母さんは奥をちらりと振り返って、それじゃあ、とだけ言って台所のほうへ引っ込んでいった。ドアの向こうから漏れてくる音を、わかばはじっと聞いている。俺もならって隣に座った。


(おい、上がらないのか)


 わかばは答えず、膝を抱えていた。ピアノの音は途中でつっかえて止まり、また最初から始まった。同じ箇所でまた止まった。


「わかばちゃん、なにしに来たの」


 いつのまにかつむぎが玄関先まで出てきていた。汗で前髪が額に張りついている。三つ編みの片方がほどけかけていた。


「聞きに来た」


「練習、うるさかった? ごめんね、もうちょっとで終わるから」


 つむぎは丸メガネの位置を直しながら、いつもの学級委員の顔で笑おうとした。だが、口の端がうまく上がっていなかった。


「うるさくない。ちょうどいい」


「そう。じゃあ、平気」


 つむぎはまだ、いつもの顔を保とうとしていた。だが、わかばが動かないのを見て、その顔がすこしずつ崩れていった。


「今日、もう何回も間違えてる。地区予選まで、あと10日」


「同じところで、止まってる」


「わかる?」


「わかる。さっきから、ずっと聞いてたから」


 つむぎは玄関の上がり框に、へたり込むように座った。俺たちと同じ高さになった。


「わかばちゃんはいいよね。お金の計算、間違えても直せば済む」


「直せる」


「ピアノは直せない。弾いてる間は戻れない。間違えた音は鳴っちゃったら、もう消せない」


 俺はその言葉にちょっと驚いた。つむぎが怖がっているのは、失敗そのものじゃなかった。


(巻き戻せないことが、怖いのか。……いや、それだけでもない気がする)


「先生にもう十分だって言われても、まだ間違える。舞台の上であと10日後にこの音を、絶対に間違えられない」


 つむぎの目の縁が赤くなっていた。


 わかばはしばらく黙っていた。電卓を出そうとして、途中で止めた。それから玄関マットの上に、あぐらをかいた。


「弾いて」


「え?」


「今の、途中まで。ここで、聞いてる」


 つむぎはしばらく動かなかった。それからゆっくりと立ち上がって、ピアノの前に戻っていった。


 演奏が始まった。俺たちは玄関に座ったまま、ドア越しにそれを聞いていた。同じ箇所に差し掛かって指がもつれ、音がひとつ崩れた。


 つむぎの手が止まる気配がした。だがすぐにまた弾き始めた。今度は最後まで、止まらずに弾ききった。


 俺はコーラに手を伸ばしかけて、ここが自分の家じゃないことを思い出した。手ぶらの右手が、間抜けに宙で止まった。


 ……刺された。


 今年、6回目のいっぱつだった。何に刺されたのか、自分でもうまく言葉にならなかった。ただ、玄関に座り続けていた1時間そのものが、いつのまにか胸のあたりをふさいでいた。


 演奏が終わって、つむぎが玄関先に戻ってきた。目が赤かった。


「まだ、間違えた」


「うん。1回」


「聞こえてた?」


「聞こえてた。でも止まらなかった」


 つむぎはふっと息を吐いた。それから初めてすこし笑った。今度は、いつもの学級委員の笑顔じゃなかった。


「わかばちゃんがいると、間違えても弾き続けられる気がする」


「なんで」


「わかばちゃん、間違えたことより止まらなかったことを、見てる感じがするから」


 わかばはぼーっとつむぎを見ていた。


「10日後も、来ていい?」


「毎日は来なくていい。でもたまに玄関で聞いてる」


「お金は」


「いらない。今日は、聞いてただけだから」


 つむぎの目からまた涙がこぼれた。今度は、さっきと違う涙だった。


 帰り道、俺はわかばに聞いた。


「今日の商売、いくらだった」


「0円」


「珍しいこと言うじゃないか。何もしてないのに」


「してる。玄関に、1時間、座ってた」


 わかばは、ためにゃんの電卓をポケットから出して、また戻した。


「あおちゃんも、10日後、また来て」


「俺も座るのかよ」


「1時間座って、10日後まで、また座る。それだけ」


 つむぎの、巻き戻せなかった数秒と、わかばの、座り続けた1時間が、3階の玄関先で相殺されていた。


             


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