第35話 じいちゃんの一手と買えない時間
俺の妹、わかば。毎週日曜の午後になると、必ずいなくなる。
「わかば、どこ行った」
「じいちゃんち。囲碁」
母さんが洗濯物をたたみながら、そう言った。もう慣れた光景らしかった。
じいちゃんに囲碁を教わり始めたのは、去年の秋だ。白髪1本、1000円というインフレ手当をわかばが断って、「囲碁、教えて」と言い出したのがきっかけだった。それから、日曜はずっと、こうだ。
俺はたまに、様子を見に三号棟のじいちゃんの家までついていく。今日もそうだった。
じいちゃんの部屋には、碁盤が出ていた。碁石のぱちり、という音が畳に響いていた。
「じいちゃん。そこ打つと、囲まれる」
「む」
「ここに打った方が、いい」
じいちゃんは腕を組んで、うなっていた。それから白い碁石を盤の上に置こうとした。指先が、すこし震えていた。石が盤の上で、ころんと転がった。
「……おっと。歳をとると、指先がいうことを聞かんな」
「大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫。ただの手の震えだ」
じいちゃんは笑って、石を拾い直した。だが俺は、その手の動きをじっと見ていた。
「じいちゃん、この次の一手、覚えてる? 先週教えたやつ」
「……ん? どれだったか」
「隅の定石。3ヶ月前から、ずっと教えてるやつ」
じいちゃんはしばらく考えていた。それから、ばつが悪そうに頭をかいた。
「わすれた。年寄りは物覚えが悪くて、いかん」
「前は1回で、覚えてた」
「そうだったか。……そうだったかもしれん」
わかばは碁盤をじっと見ていた。何も言わなかった。
俺は隣の部屋で麦茶を飲むふりをしながら、その様子を見ていた。じいちゃんはいつもの豪快な笑い声を上げていた。
その日の帰り道、わかばはめずらしく無口だった。ためにゃんの電卓をぎゅっと握ったまま、歩いていた。
「あおちゃん」
「ん」
「じいちゃんの時間、買いたい」
「……は?」
「もっと教えてほしい。週に1回じゃ、足りない。週に3回とか、4回とか」
「そりゃ、じいちゃんも喜ぶだろうけど」
「お小遣い、貯めてる。じいちゃんに払う。1回、500円。だから、もっと来たい」
わかばの声は、いつもよりすこし早口だった。守銭奴が自分から金を払おうとしているのを、俺は初めて見た。
「500円払えば、じいちゃんの時間、増える?」
俺は答えに困った。増えない。誰の時間も、そうやって増やせない。だが、それを今わかばにそのまま言うのは、ちがう気がした。
次の日曜、わかばは貯金箱から500円玉を1枚取り出して、じいちゃんの家に向かった。俺もついていった。
「じいちゃん」
「おう、来たか」
「これ、500円。来週から週に3回、来ていい?」
じいちゃんは500円玉を見て、それからわかばの顔を見た。しばらく黙っていた。
「わかば。お前、なんで急に」
「じいちゃんの時間、買いたいから」
じいちゃんは白い髭をなでた。それから静かに笑った。いつもの豪快な笑いじゃなかった。
「わかば。わしの時間は、お前がいくら払っても、増えん」
「……」
「500円で週に3回来ても、来なくても、わしの寿命は変わらん。そういうもんじゃ、ない」
わかばの手の中で、500円玉が光っていた。
「じゃあ、どうすればいい。じいちゃんの時間、なくならないように」
じいちゃんは500円玉を、わかばの手にそっと押し戻した。
「金はいらん。来たい時に来ればいい。3回でも、1回でも」
「でも、それだと、じいちゃん、ただ働きになる」
「わかば」
じいちゃんの声が、すこし低くなった。
「お前が、わしの手が震えてるのに気づいて、ここまで500円握りしめて来た。それだけで、もうじゅうぶん、もらってる」
わかばの目が、じわっと潤んだ。
……刺された。
今年、4回目のいっぱつだった。
だが今回、刺されたのは、わかばだった。
「じいちゃん」
「ん」
「囲碁、続ける。来週も、再来週も」
「おう」
「でも、もう値段はつけない。お小遣いも、貯めない」
「そうか」
わかばは500円玉を財布にしまった。それから、ためにゃんの電卓をちゃぶ台の隅に、そっと置いた。「YEN」の文字が、消えた。
俺はコーラに手を伸ばしかけて、やめた。
その日、じいちゃんはいつもより1手多く、教えてくれた。手の震えは変わらなかった。だが、わかばはそれを、もう心配な顔で見ていなかった。ただ碁盤を、じっと見ていた。
帰り道、わかばに聞いた。
「今日の月謝、いくらだった」
「0円」
「500円払おうとしてたのに」
「うん。でも」
わかばは空を見上げていた。夕方の団地の上に、鳥が飛んでいた。
「じいちゃんの1手と、わたしの500円が、同じ価値にはならないって、わかった」
わかばのはらおうとした500円と、じいちゃんのうけとらなかった500円が、日曜の碁盤の上で、相殺されていた。
第35話 了




