第34話 ハルの弟子入り志願
「あおちゃん。尾行されてる」
「物騒なこと言うな。誰にだ」
「小さい子。新4年生。ずっとこっち見てる」
俺の妹、わかば。最近、妙な視線を感じているらしい。
わかばは玄関の窓から外をうかがっていた。俺も横からのぞいた。団地の外階段の下に、たしかに誰かがいた。
小さな女の子だった。ランドセルを背負ったまま、こっちの部屋をじっと見上げている。目が合うとさっと電柱の陰に隠れた。
「あれが噂のハルか」
「たぶん。学校でわたしのこと、すごい先輩って言いふらしてる子」
「話したことあるのか」
「ない。一度も。でも見られてるのは前から」
わかばはしばらく考えていた。それから玄関を開けた。
「あおちゃん、行ってくる」
「お、おい」
わかばはサンダルをつっかけて外に出た。俺もあわててあとを追った。
電柱の陰から女の子が恐る恐る出てきた。ランドセルの肩ベルトを両手でぎゅっと握っている。爪先が内側を向いたまま、半歩ぶんの距離をなかなか詰めてこない。
「あ、あの! わかば先輩ですか!」
「先輩じゃない。同じ団地の5年生」
「わかりました、わかば先輩!」
呼び方は、ちっとも直っていなかった。
「わたし、ハルです! 3組の!」
ハルは勢いよく頭を下げた。ランドセルの金具がかちゃんと鳴った。それからおもむろにノートを取り出した。表紙にでかでかと『けいえいノート』と書いてある。角が丸くすり切れて、開いた数だけ紙が白茶けていた。中はぎっしり絵と文字で埋まっていた。虚無ガチャの回転率。まるやまの開店時間。商店街の混雑する曜日。
虚無ガチャというのは、商店街のおもちゃ屋・まるやまで回せる100円ガシャポンの俗称だ。中身の9割が石でも、店のばあさんは絶対にはずれとは言わない。それを回転率で語る新4年生が、いま目の前にいる。
「わたし将来、お店を持ちたいんです。だからわかば先輩の噂聞いて」
「噂?」
「団地の5年生に、すごい商売の先輩がいるって。宿題も教えてくれるし公平だしぼったくらないし、でもしっかりもらうところはもらうって」
俺の知らないところで、わかばの噂はずいぶん都合よく脚色されているらしかった。
「わたしを弟子にしてください!」
ハルはノートを両手で差し出した。深々と頭を下げた。
わかばはノートを受け取ると、外階段の一段目に腰を下ろした。めくる指先だけがやけに速い。
「これ全部、一人で書いたの」
「はい! 毎日書いてます!」
わかばの指が止まった。虚無ガチャの回転率のページだった。1日の来客数と売り切れる時間帯が、几帳面な字で細かく記録されていた。
わかばの電卓は値踏みにかけては負け知らずだが、記録までは請け負ってくれない。その抜け落ちた部分を、この新4年生は鉛筆一本で毎日埋めているらしかった。
「なんでこんなに細かく調べてるの」
「将来のためです」
「ふうん」
わかばはノートの端を指先でとん、と叩いた。
「小学生の小遣いがいちばん動くのは、ガチャと駄菓子。そこを見れば、金がどこに集まるか分かる」
ハルの目が丸くなった。俺の目も、多分ちょっと丸くなった。
「弟子になるには、どうすれば」
「弟子はとってない」
「そんな……」
ハルの顔がくしゃっとなった。今にも泣きそうな顔だった。
わかばはぼーっとその顔を見ていた。それから電卓を取り出した。
「弟子はとってない。でも」
「でも?」
「1問10円」
「え?」
「質問1個10円。いつもの値段。ハルちゃんが知りたいこと答える。それだけ」
こいつの標準料金だ。今日も変わらない。
ハルはぱっと顔を輝かせた。それから財布を取り出そうとした。小さなハート柄の財布だった。中を開けて――固まった。
「あの……50円しかない」
「じゃあ5問」
ハルは真剣な顔で考えていた。それからノートを開いて、ページの上に鉛筆を立てた。
「1問目。虚無ガチャは何時に行くと当たりやすいですか」
「時間は関係ない。補充の日を狙う。まるやまは火曜と金曜」
「2問目。商店街でいちばんもうかる時間帯は」
「夕方。父ちゃんたちが帰る時間。疲れてるから財布がゆるくなる」
ハルは必死にノートに書き取っていた。鉛筆の芯が折れそうなくらい力が入っていた。
俺はその様子を横で見ていた。わかばがこんなに丁寧に質問に答えるのを初めて見た。
「3問目。えっと」
ハルは鉛筆を止めた。それから急にうつむいた。ランドセルの肩ベルトを、さっきより強く握り直していた。
「……ほんとに聞きたいこと聞いていいですか」
「うん」
「学校で変わってるって言われます。お金の計算ばっかりしてるって。友達があんまりいません」
ハルの声がだんだん小さくなっていった。
「わかば先輩は平気なんですか。同じこと言われて」
わかばは電卓を手に持ったまま動きを止めた。
俺も動きを止めた。
わかばはしばらく黙っていた。それから電卓をぺたと下ろした。
「言われてる。今も」
「……つらくないんですか」
「つらいと思ったこと少ない。だって」
わかばはすっと目を細めた。獲物を見つける目じゃなかった。もっと静かな目だった。
「変わってるから、あおちゃんがいつも隣で見ててくれる」
「え」
「変わってないと誰も見てくれない。変わってるから見つけてもらえる」
わかばの目が、ほんの半瞬だけ俺の方を向いた。
逃げ場を探すより早く、目を逸らすタイミングを失っていた。
ハルの目がじわっと潤んだ。
「4問目。5問目、まだ聞いていいですか」
「うん」
「4問目はいいです。もう答えもらいました」
ハルはノートを閉じた。50円を両手で差し出した。
「これ全部です」
「多い。2問ぶんでいい」
「え?」
「3問目は無料。変な質問だったから練習台になってもらった」
わかばが無料にする基準は、いまだに俺にはわからない。ただ、こういうときの帳簿だけが、いつもより甘くなることは知っている。
わかばは50円のうち、20円だけ受け取った。残りの30円をハルの手に押し戻した。
わかばの声は、いつもの値踏みの声より、ほんの少しだけ低かった。
俺はコーラの缶に伸ばしかけた指を、缶についた結露のぬるさごと止めた。
……刺された。
今年三回目のいっぱつだった。
「わかば先輩」
「ん」
「わたしもいつか、先輩みたいになれますか」
わかばはノートをハルに返した。
「なれる。でもわたしみたいじゃなくていい」
「え?」
「ハルちゃんの記録のつけかた、わたしより細かい。わたしとちがうやり方でいい」
ハルはノートをぎゅっと抱きしめた。それから深々と頭を下げて、来たときよりずっと速い足で走って帰っていった。ランドセルがぱたぱたと揺れていた。角の丸い『けいえいノート』が、走るたび胸の前で跳ねていた。
あの子は、また来る。次はきっと、財布の中身をもう少し増やして。
俺は家に戻る道すがら、わかばに聞いた。
「今日の商売いくらだった」
「20円」
「たったそれだけか」
「うん。でも」
わかばはためにゃんの電卓を手のひらでぺたとなでた。心当たりのある金銭の話をするときの合図だった。『YEN』の文字が光った。
「……悪くない取引だった」
液晶に浮かんだ「20」の数字を指先でひとなぞりすると、わかばはそれだけ言って電卓をポケットにしまった。頬がほんの少し緩んでいた。
「あおちゃん」
「なんだ」
「さっきの30円ぶん、帰ったらアイス一口ちょうだい」
「回収だけは早いんだよ、お前は」
50円のはずの代金と、20円で終わった商いが、アイス一口ぶんで、相殺されていた。
第34話 了




