第32話 新学期と時間の値段
俺の妹、わかば。
この春から小学5年生になった。10歳。
学年は上がったが、中身は去年と1ミリも変わっていない。
半目でちくわをかじり、ためにゃんの電卓を抱きしめている。
ただ去年とひとつだけ、ちがうことがあった。
「あおちゃん」
「ん」
「タイガくんと同じクラスになった」
わかばはぼーっとそう言った。
天気予報の『明日は晴れ』と同じ声だった。
(……去年のあの騒ぎは、なんだったんだ)
思い出す。
ひと月ちょっと前、タイガはこの居間で『来年、同じクラスになる確率』を、わかばに計算させていた。
33・33パーセント。
永遠に3が続くあの数字。
あいつはそれを、合否発表みたいな顔で受け止めていた。
「で、当たったのか。33・33パーセント」
「うん。当たった」
「よかったじゃないか」
「でも、わたしは確率を信じてない」
「知ってる。去年聞いた」
その日の夕方、当のタイガがうちに来た。
玄関を開けるなりいつもの強気な顔で――だが口元がどうしてもゆるんでいる。
「わかば! おれたち同じクラスだからな!」
「うん。知ってる。今朝言った」
「……つ、次のクラス替えも同じだったらいいよな!」
「確率は3分の1」
タイガの顔がぴきっと固まった。
(こいつ、また33・33パーセントの刑に処されてる)
だが、今年のタイガは去年より粘り強かった。
すぐにはしょげなかった。
膝の絆創膏をぺりぺりはがしながら、ふてくされたようにこう言った。
「……じゃあそのぶん、休み時間にいっぱい話すからな」
(お。こいつ去年よりちょっと進化してるな)
俺はコーラに手を伸ばしかけてやめた。
まだ飲む場面じゃない。
この兄妹漫才ならぬ幼馴染漫才を、もう少し見ていたかった。
タイガが帰ったあと。
わかばはちゃぶ台に新しい台帳を広げた。
表紙にでかでかとこう書いてある。
『五年生・新規顧客獲得キャンペーン』
「なんだ、その意識の高い見出しは」
「新学期は市場がリセットされる」
わかばはすっと目を細めた。
獲物を見つけたあの目だ。
ちゃぶ台の隅に置いてあったためにゃんの石フィギュアが、電卓の横からそっと遠ざけられた。
商売モード、オン。
「新しいクラス。新しい席。新しいお客さま。40人の未開拓市場」
「クラスメイトを市場って言うな」
「去年の顧客はキープ。タイガくん、つむぎちゃん。そこに新規を上乗せする。売上倍増計画」
(こいつ、進級を事業拡大の好機としか見てない)
俺はあきれた。
だが倍増でも三倍増でも、勝手にやってろと思った。
思ったのだが。
次の日から、わかばの様子がなんだかおかしかった。
いつもなら学校から帰ると、5秒で畳に沈没する女だ。
それが帰ってくるなり、ためにゃんの電卓をぺたぺたと難しい顔で叩いている。
「どうした。虚無ガチャの確率でもキャンセルの計算してるのか」
「ちがう。時間」
「時間?」
「新規顧客に営業する。一人あたり休み時間10分。40人。ぜんぶ回るのに400分」
ぺたぺた。
「でも一日の休み時間は、ぜんぶ足しても60分しかない」
「……足りないな」
「足りない。ぜんぜん足りない」
わかばは電卓をじっと見ていた。
「YEN」の文字がこまったように点滅した――ように見える。
「お金はふやせる。値上げすればいい。高所手当みたいに」
「まあ、お前はそうやって俺から搾り取ってきたな」
「でも時間はふやせない。一日は24時間。値上げしても25時間にはならない」
俺は思わずわかばの顔を見た。
こいつがこんなことでつまずいてるのを初めて見た。
お金の計算でわかばが手を止めたことは一度もない。
原価もレートも減価償却も、こいつは電卓ひとつでぜんぶ答えを出してきた。
でも時間だけは、電卓に答えが出ないらしかった。
(そりゃそうだ。それは金額じゃないからな)
わかばの電卓は金を数える道具だ。
1円も1万円も打てる。
だが『一時間』の値段は打てない。
ボタンがないんじゃない。時間にはそもそも値札がつかないのだ。
「あおちゃん」
「ん」
「時間って、いくら?」
俺は答えにつまった。
大人はよく時は金なりとか言う。
時給とかいう言葉もある。
でも俺はわかばにそれを教える気になれなかった。
なんとなくそれを教えたら、こいつがまたひとつ面倒な大人に近づく気がしたからだ。
「……さあな。俺にもわからん」
「あおちゃんでもわからないの」
「ああ。たぶん大人でもちゃんとはわかってない」
わかばはぼーっと電卓を置いた。
それからぽつりと言った。
「タイガくんも時間足りないって」
「あ?」
「今日言ってた。5年生は宿題が多い。サッカーの練習も増えた。去年よりいそがしいって」
わかばは窓の外を見ていた。
夕方の団地の外階段。
誰かがのぼっていく足音がした。
「タイガくんは同じクラスになれてうれしい。ほんとにうれしいと思う。でも」
わかばの声がすこし低くなった。
「でも5年生になったら、わたしと遊ぶ時間が減る。同じクラスなのに前より会えなくなるかもしれない。それがこわいんでしょ」
……刺された。
今年最初のいっぱつだった。
いや――刺されたのは俺じゃない。
俺はただそれを横で聞いていただけだ。
それなのになぜか俺の胸に刺さった。
タイガのまだ言葉になっていない不安を、わかばは宿題の量から逆算して当ててしまった。
こいつは人の財布の中身も見抜くけど。
人の時間の心細さも見抜くらしかった。
「なあ、わかば」
「ん」
「その新規顧客獲得キャンペーンだけどさ」
「うん」
「40人ぜんぶ回るの、やめとけば」
わかばはぼーっとこっちを見た。
「タイガとかつむぎとか。もういる客に使う時間が減るぞ。新規に時間取られて」
わかばはしばらく黙っていた。
ためにゃんの電卓を指でなぞっていた。
それからちゃぶ台の隅からためにゃんの石フィギュアをひとつ、そっと電卓の上に置いた。
商売モードをオフにする合図だった。
「……そうする」
「お、めずらしいな。素直だな」
「新規はいらない。40人もいらない。今のお客さまと友達に時間を使う」
わかばはキャンペーンの台帳をぱたんと閉じた。
一日で廃業だった。
(過去いちばん短命な事業だったな)
でも俺はなんだか、その一日で潰れた事業のことを悪くないと思った。
守銭奴のわかばが売上倍増より、今いる相手との時間を選んだ。
金額じゃ測れないものに初めてこいつが手を止めた。
ちなみに後日談がある。
わかばが新規開拓をやめたその数日後。
小学校で妙な噂が流れはじめた。
新4年生の誰かが、『五年生にすごい商売をする先輩がいる』言いふらしているらしい。
ハルとかいう名前の子だと、わかばは言っていた。
わかばが市場を閉じたその途端に。
市場のほうから勝手に客が来ようとしていた。
(世の中うまくいかないもんだ)
その夜、タイガからわかばのスマホにメッセージが来ていた。
『あした、サッカーの練習休みだから遊べる』。
わかばはそれを見てちょっとだけ笑った。
守銭奴が一円にもならない予定に笑った顔だった。
タイガの増えた宿題の時間とわかばの畳んだキャンペーンの時間が、明日の放課後一時間で相殺されていた。
お金ならわかばは一円まできっちり数える。
でもその一時間には、わかばは値札をつけなかった。
つけられなかったんじゃない。つけないと決めたのだ。
守銭奴が生まれて初めて、タダにした時間だった。




