第31話 進級式の予行と来年の引き継ぎ
俺の妹、わかば。
小学5年生、11歳。
あと一週間で、小学6年生になる。
進級。学年がひとつ上がる。
それはわかばに言わせると『事業の年度更新』らしい。
3月の終わり。
学校で進級式の予行があったとかで、わかばはやけにいろいろ持って帰ってきた。
新しい時間割。新しいクラス名簿。
そしていつものためにゃんの電卓。
「あおちゃん」
「ん」
「来年度の料金表をつくる」
(年度更新のたびに値上げを検討するな)
わかばはちゃぶ台に台帳を広げた。
一年分の取引の記録。
タイガの重力ビジネス。つむぎの手数料。
父さんのお疲れさまパック。じいちゃんの白髪。
ぜんぶわかばの細かい字で並んでいた。
台所のほうから、母さんが木べらでなにかをこんこん鳴らしている音がした。
玄関には父さんのかかとの潰れた革靴がぬぎっぱなしになっていた。
ふつうの日曜の午後だった。
「引き継ぎ」
「なにが」
「今年の台帳を、来年の台帳に引き継ぐ。事業は続くから」
わかばはぼーっとした顔で、ページをめくっていた。
俺はその横でコーラを飲んでいた。
飲みながらすこし考えていた。
来年のことをだ。
俺はもうすぐ高校3年生になる。
受験生だ。
塾。模試。自習室。
たぶん来年は家でぼーっとしている時間はなくなる。
わかばのいちばんのお客さま。
それは俺だ。
リモコンのレンタル料。昼寝の防音手当。
麦茶の。冷蔵庫の。数えきれない。
一年間、俺はこいつにぼったくられ続けてきた。
来年はそれも減るんだろう。
(……なんで俺がちょっとさみしいんだ)
おかしな話だった。
ぼったくられなくて済むなら、財布は安泰のはずだ。
なのになんだか釈然としなかった。
俺はその気持ちに蓋をしてコーラを飲んだ。
言わなければ誰にもバレない。
そう思っていた。
「あおちゃん」
「ん」
わかばが台帳から顔を上げた。
すっと目が細くなった。
(出た。あの目だ。獲物を見つけた目)
だがちがった。
今日のは財布を見る目じゃなかった。
俺の顔をまっすぐ見ていた。
「あおちゃんは来年、いそがしくなる」
「……まあ、受験だからな」
「だから心配してるんじゃないでしょ」
俺はコーラの缶を止めた。
「あおちゃんが心配なのは、来年わたしのいちばんのお客さまじゃなくなることでしょ」
……ぐと喉が鳴った。
わかばはぼーっとした顔のまま続けた。
「リモコンも。昼寝も。来年はあんまりない。だからあおちゃんは、わたしの台帳から消える。それがこわいんでしょ」
俺は何も言えなかった。
昨日まで自分でもちゃんと言葉にできていなかった。
蓋をして見ないふりをしていた。
それをこいつは台帳をめくるついでみたいに、すぱっと開けてみせた。
……刺された。
今年何回目か、もうわからない。
だがこれが今年最後の一本だ。
一年の締めくくりのいっぱつだった。
「あのな」
俺はなんとか声を出した。
「べつに消えるとか、そういうのは」
「消える」
わかばはきっぱり言った。
それからすこしだけ声をやわらかくした。
「でも、それはこまる。あおちゃんはわたしのいちばん長いお客さまだから」
わかばは新しい台帳のいちばん上の行に何かを書きはじめた。
俺は横からのぞきこんだ。
そこにはこう書いてあった。
『あおちゃん。年間契約。いちばんのお客さま。来年も継続。解約不可』
「料金は」
俺がおそるおそる聞くと、わかばはぼーっと答えた。
「0円」
「……ゼロ?」
「うん。来年はいそがしいからお金は取らない。でも契約は切らない。たまに帰ってきてリモコン借りてくれたら、それでいい」
(こいつ……)
わかばの理屈はいつもお金からはじまる。
料金。原価。減価償却。
なのにその理屈のいちばん奥のいちばん下の行に、いつもお金じゃない何かが座っていた。
今日のそれはこうだった。
来年お金が取れなくなっても。
リモコン代が0円になっても。
それでもあおちゃんとの契約だけは切りたくない。
だから料金を0円にしてでも台帳に残す。
守銭奴がいちばん長い客をつなぎとめるために、料金を自分から捨てていた。
「あおちゃん」
「ん」
「来年もわたしのこと、いちばんのお客さまにしてくれる?」
俺はコーラの最後のひとくちを飲み干した。
それからできるだけなんでもない顔で言った。
「……まあ、リモコンくらいは借りてやるよ」
「毎度ありがとうございます」
わかばはぼーっと頭を下げた。
それからちょっとだけ笑った。
その笑いはお小遣い計算のときのキラーンとはちがった。
獲物でも利益でもなかった。
ただ来年もこの5階の居間に俺がいることが決まって、うれしかったんだと思う。
窓の外はもう春だった。
すずらん団地の5号棟の5階。
エレベーターのない外階段の下から誰かの笑い声が聞こえた。
つむぎの声みたいだった。
商店街のほうから自転車のベルも鳴った。
タイガかもしれなかった。
来年、わかばは6年生になる。
きっと新しい客と、新しい料金表と、新しい台帳をつくる。
学校もクラスも変わる。
外の世界はこれからもどんどんこいつに触れてくる。
でもひとつだけ、変わらないものがあった。
あおばの来年の不安とわかばの新しい料金表が、年間契約0円で相殺されていた。
来年もこの団地の5階で、兄は妹にぼったくられる。
料金は0円でも。
それだけは確率100パーセントだった。
永遠に3が続くよりずっと確かな数字だった。




