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すずらん団地五号棟 〜わかばとお小遣いと、時々ちくわ〜  作者: 夕凪 鏡介


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第28話「運動会と、応援代行」

俺はどこにでもいる高校2年生だ。

運動会は中学までだった。

高校になってからは一度もない。

その程度のすこし退屈な男だ。


5月の連休が終わったその金曜日の夕方、タイガが団地の階段に立っていた。


星柄の赤いTシャツ。膝に絆創膏。

サッカーボールはなかった。


ボールのないタイガは、なんだか手持ち無沙汰で両手をだらりと下げていた。


「タイガ、ボールは?」


俺は階段の下から声をかけた。

タイガはちょっと驚いた顔をして、それから恥ずかしそうにこっちを見た。


「……ボールは、今日ない」


ボールのないタイガは新種の生き物みたいだった。

重力ビジネスの素材を持たない、ただの10歳。


「わかばに用か」


「うん」


タイガはすずらん団地の5階まで、ボールを持たずに上がってきた。

これはこいつの中ではちょっとした事件だった。


部屋に入るとわかばがちゃぶ台の前にいた。

ためにゃんの電卓を片手に、紙の台帳をひらいて数字を書き込んでいた。


守銭奴の確定申告は今年もまだ続いているらしかった。


「あ、タイガ」


わかばはすっと目を細めた。


獲物を見つけたときの目だった。

だがすぐにぼーっとした顔に戻った。


タイガはもう客じゃない。友達だ。

わかばはきっと、つい癖で目を細めた自分に少し気まずそうだった。


「わかば。お願いある」


「うん」


「明日、運動会」


「うん。明日。土曜日」


「リレー、アンカー、走る」


タイガは自分のシューズの先を見ていた。

膝の絆創膏が夕日でちょっと光った。


「だから応援、たのむ」


わかばはしばらくタイガを見ていた。

それからためにゃんの電卓をぺたと一回叩いた。

「YEN」が光った。


(……出た。応援も商品にする気か)


「応援、いくらで」


タイガは唇を噛んだ。

それからポケットから200円玉を出した。

百円玉が2枚。


「二百円で」


「タイガ」


わかばはぼーっとした目でタイガを見ていた。


「タイガはわたしの友達」


わかばの紙の台帳のいちばん新しいページには、『友達』と書かれた欄があった。

第23話で、わかばはタイガをそこに書き込んだ。

金額の欄は空白のままだ。


「友達はお金いらない」


「でも」


「でも、なに」


タイガは200円玉を握りしめて、しばらく黙っていた。

それからぼそっと言った。


「お金払わないと……応援、本気にしてもらえないかもしれない」


俺はコーラを開ける手が止まった。


……出た。

今年何回目かも数えていない、10歳の本気の弱音。


わかばはしばらくタイガを見ていた。


「タイガ」


「うん」


「お金は、応援を本気にする道具じゃない」


「……」


「明日わたし行く。お金なし。応援本気」


タイガは200円玉をもう一度ポケットに戻した。

それからちょっとほっとした顔をした。


ほっとした顔のまま、こんどはなにか別のことを言いそうにして、口をひらきかけて閉じた。


タイガは何かを呑み込んだ。

何かはたぶん俺にも、はっきりとは分からない何かだった。


階段を開下りていくタイガの後ろ姿を、俺はベランダから見ていた。

膝の絆創膏が夕方の影の中で、もうほとんど見えなかった。



翌日はよく晴れた土曜の朝だった。


俺はわかばに付き添って小学校に行った。


「あおちゃん、なんで来るの」


「お前、ひとりで来たがらないだろ」


「来てもいい」


「来てやるって言ってんだから、来てやる」


わかばはためにゃんのメッセンジャーバッグを斜めがけにして、両手にためにゃんの電卓と紙の台帳を持っていた。


バッグはなぜかいつもよりちょっとふくらんでいた。

中身は聞かないことにした。


小学校の校庭は運動会の朝の独特の匂いがした。

砂と白いラインの石灰と、保護者用のお茶の香り。


保護者席のいちばん隅に俺たちは座った。

プログラムの最後の方にリレーがあった。

タイガは5年男子の部のアンカーだ。


午前中、わかばはずっと電卓と台帳をひらいていた。


「お前、なに計算してんだ」


「タイガが何位になるかの確率」


「……」


「重力ビジネスの実績データから走力を推定」


守銭奴の妹は運動会を統計データにしていた。


「お前、応援に来たんじゃないのか」


「これも応援」


「数字いじってるのが応援?」


「タイガが何位でも、わたしの中で順位は決まってる」


わかばはぼーっとグラウンドを見ていた。


「タイガは今年いちばん本気の友達」


俺はコーラのキャップを開けかけて止めた。


……これは刺された側じゃない。

わかばのほうから漏れた本音だった。



午後、リレーの時間が来た。


タイガはアンカーで青組だった。


第三走者がバトンを渡す時点で、青組は3位だった。

トップとの差は20メートルくらい。

アンカーの距離でひっくり返るのは難しい。


タイガがバトンを受け取った。


走り出した。


俺はわかばの隣で立ち上がっていた。

気づいたら立ち上がっていた。


タイガは速かった。

重力ビジネスのときの『ボールを落とすために、5階を見上げる』あの目は今日はなかった。


前だけ見て、足をぐんと前に出していた。


一位を抜いた。二位を抜いた。

トップに5メートル差。


タイガがふとこちらを見た。

保護者席のわかばのほうを見た。


その瞬間、タイガの足がわずかにもつれた。


「……」


わかばは応援していなかった。


立ち上がってもいなかった。電卓も叩いていなかった。

ただじっとタイガのほうを見ていた。


動かなかった。声も出していなかった。

瞬きすらしていないみたいだった。


タイガはふらつきながらも踏み直した。

最後の10メートルをもう一度ぐんと加速して、ゴールテープにほとんど飛び込むようにして入った。


2位だった。


差は半歩。


タイガはゴール後、両手を膝についてしばらく立ち上がれなかった。

胸が大きく上下していた。


わかばは座ったまま、ためにゃんの電卓をぺたと一回叩いた。

「YEN」が消えていた。


電池が切れたのか、わざと電源を落としたのか、俺には分からなかった。


「あおちゃん」


「ん」


「タイガ、2位」


「ああ。惜しかったな」


「ううん。2位、いちばんよかった」


「は?」


わかばはぼーっとタイガのほうを見ていた。

タイガはまだ膝に手をついていた。


「タイガはわたしを見たから足がもつれた」


「……ああ」


「もしわたしを見なかったら一位だった」


わかばは紙の台帳を閉じた。


「でも見なかったらタイガじゃない」



帰り道、タイガは商店街の入口まで俺たちと一緒に歩いた。


膝の絆創膏は新しいやつに替わっていた。

たぶん走ったあとでまた転んだのだろう。


「タイガ」


わかばが言った。


「2位、おめでとう」


「……うん」


「お金いらないから、来週も応援する」


「来週も?」


「うん。来週は運動会じゃない。でも応援する」


「……運動会ない日に?」


「うん。タイガが走ってなくても応援する」


タイガはしばらく黙っていた。

それからぼそっと言った。


「わかば」


「うん」


「おれ、ほんとは応援いらなかった」


「うん」


「……ただ見ててほしかった」


わかばはぼーっとした顔のまま、うんと頷いた。


「知ってた」


タイガはちょっとびっくりしてわかばを見た。


「……いつから」


「最初から」


「……」


「タイガは応援が欲しいんじゃない。見ててほしいだけ」


タイガは商店街の入口で立ち止まっていた。

両手がぎゅっと握られていた。

膝の絆創膏がしわしわになっていた。


俺は横でコーラを飲んでいた。


……刺された。

今年何回目か、もう数えていない。


今刺されたのは俺じゃなく、タイガのほうだった。

だがこいつが刺されると、俺もどこかがいっしょに痛んだ。


たぶんわかばの『見ててほしいだけ』は、10歳のタイガにも、16歳の俺にも、40歳の父にも、同じように刺さる種類の言葉だった。


タイガはしばらく何も言えなかった。

それからぼそっと言った。


「……ありがとう」


「うん」


「お金いらないって言ってくれて」


「うん」


「お金もらってたら、おれいつかお金足りなくなって、わかばに会えなくなるって思ってた」


わかばはしばらく何も言わなかった。

それからぼーっとした顔のままこう言った。


「タイガ。友達はずっと続く。お金いらないからずっと続く」


タイガは商店街の方に走っていった。

膝の絆創膏がもう一度ひかった。



家に帰る道、わかばはためにゃんの電卓を、ぺたぺたと何度か叩いた。

「YEN」はもう光らなかった。


「あおちゃん」


「ん」


「応援代行、メニュー消した」


「メニューにしてたのか」


「うん。声援一回50円。旗振り100円。メガホン200円」


「……」


「ぜんぜん消した」


「なんで」


「応援はお金じゃ計算できない。電卓に入らない」


わかばの電卓は、計算しかできない道具だった。

声の大きさも、見ている時間も、心臓のドキドキも、数字にしないと入らない。


だが応援はたぶん、数字にできない種類のものだった。

守銭奴の10歳がそれを認めた。


わかばはためにゃんの電卓を、メッセンジャーバッグのいちばん奥のポケットにしまった。

ためにゃんの石フィギュアとおなじ場所だった。


タイガの2位の半歩とわかばの応援代行が、声援0回で相殺されていた。


だがその声援0回がタイガに渡していたのは、メガホンの音じゃなかった。

お金で買い続けなくてもずっと続く、見ててもらえるという約束だった。

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