第26話 図書カードの返却日と延滞金
俺はどこにでもいる高校2年生だ。
特技もない。取り柄もない。
最近、一冊の本をわざと返さないでいる。
その程度の卑怯な男だ。
ことの起こりは半月前にさかのぼる。
文月堂で本を立ち読みしていたときだった。
文月堂はすずらん団地前商店街の、いちばん端にある古本屋だ。
そして、そこの娘がひよりさんだった。
黒髪のロングを背中で小さく結んでいる。
ベージュのカーディガン。深緑のロングスカート。
いつも革装の古い本を抱えて、棚の前に立っている。
その日、俺がレジに持っていった文庫を見て、ひよりさんはふっと笑った。
「それ、面白いですよね。わたしも好きです」
俺の心臓はその一言で、3日ぶんくらい働いた。
それから、ひよりさんは棚の奥から一冊の本を出してきた。
革装の古いやつだった。
「もしよかったら、これも。うちの貸し出しなので」
「か、貸し出し?」
「文月堂は売る本と、わたしが貸す本があるんです。気に入った人にだけ」
ひよりさんは本の見返しに手作りの紙をぺたと貼った。
図書カードだった。
古い図書館にあった、あの厚紙のやつ。
ひよりさんは自分でそれを作っていた。
日付の欄。返却日の欄。
几帳面な字で「返却日」と書いてある。
「返却日、2週間後で。延滞したら延滞金、ありますからね」
ひよりさんはいたずらっぽく笑った。
「えん、たいきん」
「冗談です。1日、1円」
俺はその本を両手で受け取った。
たぶん、宝物を受け取る手つきになっていた。
――それが半月前。
返却日はとっくに過ぎている。
俺は本を読み終えていた。
とっくに読み終えていた。
なのに返していない。
なぜか。
返したら文月堂に行く理由がなくなるからだ。
借りた本を返す。
それはまた会いに行く口実になる。
だが、返してしまえば次の口実がない。
だから俺は読み終えた本を机の上に伏せたまま、半月置いている。
1日1円の延滞金を積み上げながら。
(……我ながら、最低だ)
そんなある日、わかばが俺の部屋に入ってきた。
手にはためにゃんの電卓。
机の上の革装の本に目を留めた。
すっと目が細くなった。
「あおちゃん。これ、なに」
「……借り物だ。触るな」
わかばは本の見返しをぺらとめくった。
ひよりさんの手作りの図書カードがそこにあった。
返却日の欄をじっと見ている。
「返却日、半月前」
「……」
「延滞、15日」
わかばはためにゃんの電卓を、ぺたぺたと叩いた。
「YEN」が光った。
「1日1円。延滞金、15円」
「待て。それはひよりさんの冗談で」
「冗談でも書いてある。書いてある料金は発生する」
わかばの中では、紙に書かれた金額はすべて現実だった。
世の中の契約書という契約書が、こいつにかかると額面どおり執行される。
「あおちゃん。延滞金15円。わたしが取り立てる」
「なんでお前が」
「文月堂は遠い。わたしは近い。代理徴収」
(こいつ、他人の冗談の延滞金を横から回収しに来た)
俺は財布から15円を出した。
10円玉が1枚。五円玉が1枚。
わかばはそれを受け取って、台帳になにか書いた。
それから、ぼーっとした顔で俺を見た。
「あおちゃん。この本、読み終わってる?」
「……ああ」
「いつ読み終わった」
「……2週間前」
「じゃあ、なんで返さないの」
俺は答えられなかった。
わかばはしばらく俺の顔を見ていた。
それから机の上の革装の本を見た。
返却日の過ぎた図書カードを見た。
そして言った。
「あおちゃんは、本を返したくないんじゃない」
「……」
「返したら文月堂に行く理由がなくなる。だからわざと返さない」
俺はコーラの缶を持つ手が止まった。
……刺された。
今年何回目か、もう数えていない。
「タイガとおなじ」
わかばがぼそっと言った。
去年、俺が健気だの悲愴だのと上から評していたあの男の子。
延滞金を払いながら本を返さない俺は、いままったく同じ場所に立っていた。
「お前……気づいてたのか」
「うん。タイガで見たから。同じ顔」
わかばはためにゃんの石フィギュアを机にことんと置いた。
商売モードオフの合図だった。
「あおちゃん。延滞金は口実のレンタル料」
「……」
「でも口実はいつか切れる。本はいつかぼろぼろになる。会う理由をお金でつなぐのはつづかない」
それは去年、わかばがタイガに出した結論と同じだった。
お金でつながった関係は、お金が尽きれば終わる。
「だからあおちゃん。本、返してきて」
「……返したら終わりだろ」
「ちがう」
わかばはぼーっとした顔のまま言った。
「返しに行って、つぎの本を借りる。それは口実じゃない。約束」
俺は黙った。
口実は後ろ向きの理由だ。
だが約束は前向きの理由だ。
同じ『また会う』でも向きが違う。
10歳児がそれを言った。
俺は革装の本を抱えて文月堂に向かった。
商店街のいちばん端。
木枠のガラス戸を引いた。
からりと古いベルが鳴った。
ひよりさんはレジの奥で本を読んでいた。
顔を上げた。
「あ。あおばさん」
「……これ。返しに来ました。すみません、すごく遅れて」
俺は革装の本を差し出した。
図書カードの返却日は半月過ぎている。
ひよりさんは本を受け取って見返しの図書カードを見た。
それからふっと笑った。
「延滞金、15日ぶんですね」
「……はい。15円。さっき妹に先に取られました」
「妹さんに?」
「代理徴収だと言って」
ひよりさんは口に手を当てて笑った。
声を立てずに肩だけ揺らして。
文月堂のほこりっぽい光の中で、その横顔がすこしほどけた。
半月前と同じ笑い方だった。
「あおばさん」
「は、はい」
「本、どうでした」
俺はすこし考えた。
それから本当のことを言った。
「……2週間前に読み終わってました」
ひよりさんが目をまるくした。
「読み終わってたのに返さなかったんですか」
「……はい」
言ってしまった。
延滞金15円の本当の理由を、半分白状したようなものだった。
ひよりさんはしばらく何も言わなかった。
それから棚の奥からもう一冊、革装の本を出してきた。
見返しに新しい図書カードをぺたと貼った。
「じゃあ、これ。つぎの本です」
「え」
「読み終わったら、返却日よりすこし遅れて返しに来てください」
ひよりさんはいたずらっぽく笑った。
「延滞金は1日1円なので」
俺はその本を受け取った。
ひよりさんは知っていた。
たぶんぜんぶ知っていた。
俺がなぜ本を返さなかったのか。
そのうえでつぎの本を貸してくれた。
「すこし遅れて返しに来て」と言って。
それはわかばの言った『約束』にいちばん近いものだった。
口実じゃない。
両方が知っていて、それでもまた会う約束を本の貸し借りの形で結んだ。
帰り道、空がよく晴れた。
俺はコーラを買って、ぷしゅと開けた。
ひよりさんは炭酸が苦手らしい。
前に商店街の自販機の前で、みたらし団子を買っているのを見た。
今度、もしなにか渡せるなら、コーラじゃないやつがいい。
(……まだ、告白はしない)
告白はしない。
レンを見てこわくなったのは本当だ。
だが今日は、半月止まっていた本が一冊進んで、つぎの一冊に変わった。
それだけでじゅうぶん、前に進んだ気がした。
家に帰るとわかばが待っていた。
「あおちゃん. 本、返した?」
「ああ。つぎの借りてきた」
「いつ返す」
「……読み終わったら、すこし遅れて」
わかばはぼーっとした顔ですこし考えた。
それからためにゃんの電卓をぺたと叩いた。
「あおちゃん。つぎの延滞金もわたしが代理徴収する」
「商売にすんな」
「友達価格。あおちゃんはお客さまじゃなくて家族だから。延滞金、半額」
俺はちょっとだけ泣きそうになった。
守銭奴の半額は、たぶんこいつなりのいちばんのやさしさだった。
あおばの図書カードとひよりの返却日が、延滞金15円で取引されていた。
だがその15円が買っていたのは、本じゃなかった。
半月ぶんの勇気の足踏みだった。




