第23話 「タイガの逆襲と、値上げ交渉」
俺はどこにでもいる高校2年生だ。
特技もない。取り柄もない。
最近、妹の客が自分から値上げを申し出てきた。
意味がわからない。
その意味をたぶん俺だけがわかってしまった。
その程度の兄である。
ことの起こりは日曜の昼だった。
玄関のチャイムが鳴った。
出るとタイガが立っていた。
星柄の赤いTシャツ。カーキの短パン。膝に絆創膏。脇にサッカーボール。
去年とほとんど同じ装備だった。
だが背はすこし伸びていた。
タイガも小学5年生になっていた。
「あ、あのさ! わかばちゃん、いますか」
声は去年と同じくらい上ずっていた。
一年たっても、こいつの初恋は1ミリも減っていなかった。
「わかばー。タイガが来てるぞ」
わかばがのそのそと出てきた。
手にはためにゃんの電卓。
「タイガ。なに?」
「あ、あのさ! 重力ビジネス! 値上げしてほしいんだ!」
俺はコーラを落としそうになった。
値上げ。
客が自分から値上げを要求していた。
世のなかのすべての商売の逆をいっていた。
「タイガ。重力ビジネスは一回200円。去年からずっと200円」
「うん! それを一回500円にしてほしい!」
「な、なんでだ」
俺はつい口を挟んだ。
タイガは耳まで赤くして、ボールをぎゅっと抱えた。
怒っているのか照れているのか、こいつは顔の赤さがいつも同じだった。
「だって! 500円払えば! わかばちゃん、もっと長くボール取りに行ってくれるだろ!」
……ああ。
俺は天をあおいだ。
こいつは気づいてしまったのだ。
お金をたくさん払えば、わかばが自分のためにもっと長く動いてくれる。
その時間がほしい。
だから値上げを自分から申し出る。
去年のあのときと同じだった。
こいつは重力ビジネスの200円で、わかばと関わる時間を買っていた。
一年かけてその単価を上げに来た。
健気なというより、いっそ悲愴な戦略だった。
(こいつ、一年かけて考えたのがそれか)
わかばはぼーっとした顔でタイガを見ていた。
すっと目が細くなった。
獲物を見つけた目だ。
去年ならここで500円を即受けていた。
客が自分から単価を上げてくれるなら、商売として断る理由はない。
だが今年のわかばはちがった。
わかばは電卓をぺたぺたと叩いた。
「YEN」が光った。
それからその電卓を座卓に置いた。
「タイガ。値上げはしない」
「な、なんで! お金ならあるよ! お年玉、貯めてる!」
「お金の問題じゃない」
わかばはぼーっとした顔のまま言った。
「タイガは500円払いたいんじゃない」
「……」
「お金を払わないとわたしに会えないと思ってる。だから払い続けてた」
タイガの顔の赤さがすこし引いた。
今度は照れじゃなかった。
図星をつかれた顔だった。
「ちがう……おれはただ……」
「ボールを落とすのもわざと。重力ビジネスを頼みたいから。一年ずっとわざと落としてた」
タイガが黙った。
俺も黙った。
一年分の重力ビジネスがぜんぶわざとだった。
こいつはわかばに会うために、自分のボールを何十回も5階から落とし続けていた。
プロも使う自慢のボールを。
わかばはためにゃんの石フィギュアをポケットから取り出した。
それを座卓にことんと置いた。
商売モードをやめる合図だった。
「タイガ」
「な、なに」
「お金、いらない」
タイガの肩ががくっと落ちた。
お金がいらない。
それはこいつには「もう来るな」と聞こえたらしい。
会う口実を取り上げられた顔だった。
わかばは続けた。
「タイガは今日からお客さまを卒業」
「……」
「今日から、友達」
タイガが顔を上げた。
わかばは確定申告の台帳を開いた。
「友達」の欄につむぎちゃんの名前があった。
その下にわかばは鉛筆で「タイガ」と書き足した。
金額の欄は空白だった。
「友達はお金いらない。わざとボールを落とさなくていい。ふつうに来ていい」
タイガはしばらくその台帳を見ていた。
それからぐしゃっと顔をゆがめた。
怒り顔でも照れ顔でもなかった。
赤くなるのを通り越して白くなっていた。
泣くのをこらえる顔だった。
こいつはサッカーで負けても泣かないんだろうな、と思った。
なのに友達になれただけで泣きそうになっていた。
「……ふつうに来ていいの」
「うん」
「お金、なくても」
「うん。友達だから」
タイガはボールをぎゅっと抱えたまま何度も頷いた。
耳がまた赤くなった。
今度はたぶんいちばんいい赤さだった。
「じゃ、じゃあ! 来週も来る! ふつうに!」
「うん。待ってる」
タイガは帰っていった。
階段を駆け下りる音が5階まで聞こえた。
途中でたぶん転んだ。
「いてっ」という声がした。
膝の絆創膏がまた一枚増えるのだろう。
俺はベランダからその背中を見送った。
わかばは台帳の「友達」の欄を見ていた。
つむぎちゃんとタイガ。二人になった。
金額のつかない人が一人から二人に増えていた。
「なあ、わかば」
「ん」
「お前、タイガがお前のこと好きなの知ってるだろ」
「うん。知ってる。去年から」
「友達にしちゃってよかったのか」
わかばはぼーっとした顔で考えた。
「タイガはお金でわたしとつながってた。お金はいつかなくなる。お年玉もなくなる。そしたらタイガは来れなくなる」
「うん」
「友達はお金いらない。だからなくならない。ずっと来れる」
筋は通っていた。
守銭奴が金をいらないと言う。
その理由までちゃんと損得でできていた。
「あおちゃん」
「ん」
「タイガは一年、わざとボールを落とた。一回も休まなかった」
「ああ」
「……あんなに続く人いない。だから友達にした」
理由になっているような、なっていないような答えだった。
こいつが客を友達にしたのはタイガがはじめてじゃない。
つむぎちゃんがいた。
なのにタイガのときだけ、こいつはすこし言葉を探していた。
たぶん本人も気づいていない。
俺はコーラを開ける手が止まった。
……刺された。今年3回目の。
去年こいつはタイガに「足元じゃない。気持ちを見てる」と言った。
一年たってその気持ちに、こいつなりの答えを出したらしい。
恋人でもなく、客でもなく、友達という答えを。
タイガの逆襲は失敗した。
値上げ交渉は通らなかった。
だがこいつはたぶん勝った。
お金で買っていた時間が、お金のいらない時間に変わった。
一年分のわざと落としたボールがぜんぶ報われた。
ただひとつだけ。
タイガがほしかったのはたぶん友達ではなかった。
もう一歩先だった。
わかばはそこに気づいていない。
気づいているのはたぶん、同じ片思いをこじらせている俺だけだった。
(古本屋のあの人の横顔がすこしよぎった)
友達になれた。それは前進だ。
だが友達になったぶん、タイガの初恋はゴールからすこしだけ遠ざかった気もした。
前に進んだのに遠ざかる。
初恋とはそういう不便なものらしい。
俺はベランダでコーラをぷしゅと開けた。
よく晴れた日曜だった。
下の公園でタイガがボールを蹴っていた。
今日は5階に向かって落とさなかった。
ふつうに地面を転がしていた。
タイガの値上げ交渉とわかばの友達認定が、0円で取引されていた。
去年は200円だったのに。今年は0円だった。
値段は下がったのに、関係はすこし深くなっていた。




