第20話 「年末の大掃除と、母の査察」
俺はどこにでもいる高校1年生だ。
特技もない。取り柄もない。
この一年、家の10歳児が、家じゅうを商売の市場に変えていくのを、ただ見てきた。
その程度の兄である。
12月31日。
大晦日だった。
朝から、家族で大掃除をしていた。
めずらしく、母さんが家にいた。
商店街の総菜屋も、大晦日の夕方で店じまい。
母さんは、年に1度、まる一日、家にいる。
木べらは、さすがに今日は握っていない。
代わりに、雑巾を握っていた。
わかばは、ためにゃんの電卓を片手に、窓を拭いていた。
「あおちゃん。大掃除も、商売になる」
「にならないだろ」
「窓拭き、1枚、50円」
「誰が払うんだ」
「お父さん」
「お父さんは、いま、こたつで寝てる」
父さんは大掃除の最中に、こたつで半分亡くなっていた。
大晦日も平常運転だった。
そこへ母さんが、雑巾をぱんとはたいた。
「わかば」
「は、はい」
「今日は商売、禁止」
「な、なんで」
「大掃除は家族の仕事。家族の仕事に、値段はつけん」
わかばはむうと黙った。
わが家で、わかばの商売を一言で止められる人間を、俺ははじめて見た。
母さんだった。
大掃除は夕方までかかった。
窓がぴかぴかになった。
畳も拭いた。
こたつの父さんだけは、最後まで動かなかった。
たぶん、こたつごと掃除されていた。
日が暮れた。
母さんがこたつに座って、家庭用の電卓を出した。
ためにゃんの電卓とよく似た音のするやつだった。
「わかば。年末査察」
「ねんまつ、ささつ?」
「一年分の台帳。ぜんぶ出して」
わかばは奥から古いノートを持ってきた。
表紙にためにゃんのシールが貼ってあった。
一年分の、商売の台帳だった。
母さんは老眼鏡をかけた。
母さんもかけるのか、と思った。
じいちゃんと同じかけ方だった。
ページをめくる。
「4月。麦茶のサブスク料。レンくんから月300円」
「うん」
「5月。コンプライアンス顧問料。つむぎちゃんに請求した。でも、逆に顧問になられた。0円」
「うん」
「6月。重力ビジネス。タイガくんから二百円」
「うん」
「9月。文月堂チャージ。あおばから月300円」
俺は雑巾を落とした。
「ちょ、それ読むな」
「あおちゃんが、古本屋の女の子に……」
「読むな!」
母さんがちらりと俺を見た。
何も言わなかった。
だが、ぜんぶ知っている目だった。
父さんも家計簿はつけると言っていた。
この家は、家計簿でぜんぶ筒抜けらしい。
「十月。家計簿外注。お母さんから月500円」
母さんの手が止まった。
自分の名前を読んでしまったらしい。
……この家で、わかばにお金を払った大人がもう1人いた。
母さんだ。
家族の仕事に値段はつけるなと言った人が、自分の家計簿にだけは値段をつけて、わかばに渡していた。
「十一月。屁理屈研修。ことえばあちゃんから月500円」
「うん」
母さんはぜんぶ読み終えた。
それから電卓をぴぴっと叩いた。
「年間、純利益。8640円」
わが家の守銭奴の、一年の稼ぎだった。
10歳にしてはたいしたものだ。たぶん。
だが、母さんは台帳を閉じなかった。
いちばん後ろのページまでめくった。
まるで、そこに何かあるのを知っているみたいだった。
最後のページに、もう一つ表があった。
「とらなかったお金」と書いてあった。
俺は知らなかった。
だが母さんは知っていた。
たぶん、母さんも同じ表をつけているからだ。
母さんはそれを読んだ。
「じいちゃんの囲碁。付き添い料、本当は取れた。でも、取らなかった。0円」
「うん」
「お父さんのお疲れさまパック。本当は1000円取れた。でも、500円にした。差額、毎週500円」
こたつからもぞっと声がした。
「……知っとったよ。だから、ありがたいんだ」
父さんは目も開けずにそれだけ言って、また寝た。
「うん」
「タイガくんの重力ビジネス。本当はもっと取れた。でも、200円で止めた」
「うん」
「あおばの文月堂チャージ。本当は3000円取れた。でも、300円にした」
俺は黙った。
300円で止めてくれていたのか。
「佐久間さんの年賀状。100円。これは取った」
「うん。それは取った」
「なんで」
「いちばんむずかしい仕事だったから」
母さんは「とらなかったお金」をぜんぶ足した。
電卓がぴぴぴっと鳴った。
「とらなかったお金。一年で、ぜんぶで19000円」
わが家の守銭奴は、稼ぎだしたお金より、取らなかったお金のほうがずっと多かった。
母さんはしばらく台帳を見ていた。
それから、ふっと笑った。
特売日にわかばに家計簿を渡したときと同じ笑い方だった。
「わかば」
「は、はい」
母さんはためにゃんの電卓をわかばに返した。
「あんたの商売は、いちばん儲かる値段じゃつけてない」
「……」
「いちばん長く続く値段でつけてる」
「……」
「それは商売じゃない。家計簿とおなじ」
わかばは何も言わなかった。
いつもなら、ここでこいつが誰かを刺す番だった。
この一年、ずっとそうだった。
タイガを、お父さんを、じいちゃんを、ばあちゃんを、こいつは見抜いてきた。
だが、今日はちがった。
わかばはためにゃんの石フィギュアをポケットから出して、こたつの上にそっと置いた。
商売モードオフの合図だった。
一年ずっと刺す側だったこいつが、はじめて刺された顔をしていた。
……今年、最後に刺されたのは俺じゃなかった。
わかばのほうだった。
母さんは立ち上がった。
それからわかばの頭に手をのせた。
木べらでも、雑巾でもない、母さんの手だった。
年に1度しか家にいない人の手が、わかばの黒い頭の上ですこし止まっていた。
じいちゃんがわかばの頭をなでたときと同じ手だった。
やっぱり血だ、と思った。
父さんがこたつでもぞもぞと目を覚ました。
「お、もう年越しか」
「ぜんぜん掃除してないだろ」
「お父さんはこたつ担当だ」
わが家のだめな大黒柱だった。
だが今日は、家族がぜんぶそろっていた。
じいちゃんからは、わかばが宛名を書いた年賀状がもう届いていた。
佐久間さんの分だけは、まだどこかへ向かっているはずだった。
夜がふけた。
どこか遠くで除夜の鐘が鳴りはじめた。
商店街の5時のチャイムより、ずっと低くて長い音だった。
一年が終わる音だった。
わかばはこたつの上の石フィギュアをじっと見ていた。
「YEN」の電卓は、もう光っていなかった。
今年の商売はぜんぶ終わったらしい。
わかばの一年と取らなかったお金が、大晦日の夜に相殺されていた。




