第21話 「新学期と、わかばの確定申告」
俺はどこにでもいる高校2年生だ。
特技もない。取り柄もない。
去年までは1年生だった。
だが、4月が来て勝手に2年生になった。
中身はなにも変わっていない。
家の10歳児も、勝手に小学5年生になった。
だがこっちの中身は、去年よりたちが悪くなっていた。
日曜の朝、居間に行くと、わかばが座卓の上に大量の書類を広げていた。
古い台帳。レシート。ためにゃんの電卓。
そして電卓の横に、なぜか湯呑みでいれたしぶいお茶。
借金取りでも待っているような絵だった。
「わかば。なにしてる」
「確定申告」
「は?」
「去年の商売の確定申告」
わかばはためにゃんの電卓を、ぺたぺたと叩いていた。
「YEN」の表示が朝の光を受けて、誇らしげに光っていた。
「なんで小学生が確定申告するんだ」
「お母さんに査察された」
「……ああ」
去年の大晦日。
母さんがわかばの一年をぜんぶ査察した。
あれがよほどこたえたらしい。
「だから今年からは自分で申告する。査察される前にぜんぶ出す」
「先手を打つな。小学5年生が」
わかばはしぶいお茶をひとくちすすった。
10歳が緑茶をすする姿は、なかなか堂に入っていた。
たぶん、確定申告には緑茶がいるとどこかで聞いたのだろう。
父さんのしょうもない実体験かもしれない。
「わかば。確定申告って3月まででは」
「知ってる。位置づけは3月はまだ小4だった。決算が年度でずれる」
「決算期が進級でずれる小学生がいるか」
「あおちゃん。経費教えて」
「経費?」
「去年わたしが商売で使ったお金。あれは引ける」
「お前、なにに使ったんだ」
「ためにゃんの石フィギュア。虚無ガチャ。1回100円。去年ぜんぶで3000円」
俺は頭を抱えた。
わが家の守銭奴が、唯一ためらわず金を払う対象。
それが商店街の虚無ガチャから出る、ほぼ石のフィギュアだった。
それを経費で落としようとしている。
「待て。あれはお前の趣味だろ」
「ちがう。あれは設備投資。石フィギュアを見るとやる気が出る。やる気は商売にいる」
「税務署に怒られるぞ」
「すずらん団地に税務署はない」
ぐうの音も出なかった。
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。
「つむぎちゃん」
わかばが書類から顔も上げずに言った。
「なんでわかるんだ」
「日曜の10時。つむぎちゃんはピアノの帰りに寄る」
また来訪者のスケジュールを把握していた。
10歳児の顧客台帳は今年も健在らしい。
玄関を開けると、つむぎちゃんが立っていた。
三つ編みを2本、赤いリボンで結んで丸メガネ。
手にはピアノのレッスンバッグ。
新学期で、わかばと同じ小学5年生。
同じクラスになったと前に聞いた。
「あ、あおばさん、こんにちは。わかばちゃん、います?」
「いるよ。確定申告してる」
「……かくてい、しんこく?」
つむぎちゃんがぽかんとした。
居間に通すと、つむぎちゃんは座卓の上の書類の山を見て、メガネの奥で目をまんまるにした。
「わかばちゃん。なに、これ」
「確定申告。去年の商売の総決算」
「小学生が確定申告……?」
「お母さんに査察された。先手を打つ」
つむぎちゃんはレッスンバッグをぎゅっと抱えた。
常識人の防御姿勢だった。
つむぎちゃんは、わかばの商売の数少ないブレーキ役だ。
去年、わかばに「コンプライアンス顧問料」を請求されたとき、逆にわかばのコンプラ顧問になったという、よく分からない経緯がある。
「わかばちゃん。これ、たぶんコンプライアンス的にまずいよ」
「どこが」
「石フィギュアを経費で落とそうとしてる」
「設備投資」
「趣味だよ」
「やる気が出る」
「みんな趣味でやる気が出るの」
つむぎちゃんのツッコミは正しかった。
学級委員長は伊達じゃない。
だがわかばは、ぼーっとした顔のまま引かなかった。
「つむぎちゃん。今年の新しいクラス。市場はどう?」
「し、市場?」
「新しいクラスメイト。新しいお客さま」
つむぎちゃんのメガネがずれた。
「わかばちゃん。学校で商売はだめだよ。先生に怒られる」
「新しい先生、お金の話きらい?」
「うん。すごくうるさい。お金は持ってくるな、貸し借りするなって」
わかばの目がすっと細くなった。
だがすぐにもとに戻った。
「……まだ会ってない」
「え?」
「あの先生がお金がきらいなのか。お金でこわい目にあった人なのか。会ってから決める」
つむぎちゃんが黙った。
俺も黙った。
去年のこいつなら、会う前にもう値札をつけていた。
今年はちがかった。
外の人間にはいったん保留をかけるらしい。
わかばの観察対象が家の中から外へはみ出そうとしていた。
だがその手つきは去年よりすこし慎重になっていた。
つむぎちゃんはしばらく考えてから言った。
「……わかばちゃんはときどきこわい」
「ごめん」
「ううん。すごいと思う」
つむぎちゃんはレッスンバッグからハノンの教本を出して、座卓のすみに置いた。
それからわかばの確定申告を隣で手伝い始めた。
常識人は結局面倒見がいい。
俺は台所からその二人を見ていた。
ふと気になって聞いた。
「わかば」
「ん」
「つむぎちゃんから顧問料、いくら取ってるんだ」
わかばは書類から顔を上げた。
それからぼーっとした顔で言った。
「つむぎちゃんはお客さまじゃない」
「は? コンプラ顧問だろ」
「ちがう。お客さまはお金を払う人。つむぎちゃんはお金を払わない。でも毎週来る」
「……」
「お金を払わないのに毎週来る人。それはお客さまじゃない。友達」
俺はコーラを開ける手が止まった。
……刺された。今年最初の。
わかばの確定申告のいちばん後ろのページに、新しい欄ができていた。
「お客さま」でも、「とらなかったお金」でもない。
「友達」という欄だった。
そこにはつむぎちゃんの名前が1つだけ書いてあった。
金額の欄は空白だった。
0円ですらなかった。ただ、空白だった。
去年までこいつにとって、人はぜんぶ財布だった。
あおちゃんも、タイガも、お父さんも、金額のついたいいお客さまだった。
その妹がはじめて、金額のつかない人間を1人だけ見つけていた。
兄としてそれはちょっとうれしかった。
ほんのちょっとだけ、だが。
つむぎちゃんはそれに気づいていなかった。
ただハノンの隣で、わかばの石フィギュアの経費を必死に止めようとしていた。
「わかばちゃん。やっぱり石は経費じゃないよ」
「設備投資」
「趣味!」
常識人と守銭奴の不毛なラリーが、新学期の日曜の居間で続いていた。
俺はベランダに出て、コーラをぷしゅと開けた。
よく晴れた4月だった。
下の桜がもう半分散っていた。
今年もわが家の10歳児は、家じゅうを、いやたぶん今年は家の外まで、商売の市場に変えていくのだろう。
だがその台帳のいちばん後ろには、お金のつかない欄が1つだけ増えていた。
新学期とわかばの確定申告が、0円からはじまろうとしていた。




