第18話 「祖母の入れ知恵と、屁理屈研修」
俺はどこにでもいる高校一年生だ。特技もない。取り柄もない。最近、家の十歳児がじいちゃんから囲碁を月謝なしで教わる約束を取りつけた、その家の兄である。
わかばは先週、祖父の千円札を断った。代わりに「囲碁、教えて」と言った。
たぶんあれを聞いたとき、じいちゃんは一週間ずっとふわふわしていたのだろう。日曜の朝、9時きっかりに電話がかかってきた。
「わかばー、いつでも、来てええぞー」
わかばはためにゃんの電卓を片手に、淡々と答えた。
「うん。これから行く」
「お、おう」
じいちゃんは電話の向こうで、たぶん腰を浮かせていた。月1回しか孫に会えなかった人が、いきなり翌週に呼びつけられた。本人にとっては事件だった。
俺たちは支度をして電車に乗った。じいちゃんとばあちゃんの家は、2駅向こうの古い住宅街にある。父は「お父さん、留守番で大丈夫だから」とソファに沈んだまま手を振っていた。母さんは商店街で働いている。今日もきっと木べらを握っている。
わかばは電車の中で、ためにゃんの電卓を膝に置いていた。
「あおちゃん」
「ん」
「今日、ばあちゃん、いる?」
「いるんじゃないか。ばあちゃんはたいてい家にいる」
わかばは、すっ、と目を細めた。
獲物を見つけたとき、わかばがするあの目だった。
……またなにか、観察対象が増えたらしかった。
2駅で降りて、住宅街を歩いた。じいちゃんの家は瓦屋根の古い平屋だ。庭に小さな椿が咲いていた。
玄関を開けると、じいちゃんが下駄をつっかけて出てきた。三和土の隅には、じいちゃんの囲碁の本が背表紙を揃えて積み上げられていた。長年、動かしていない積み方だった。
「おう、来た来た。わかばー、ばあちゃんもおるぞ」
「うん。ありがとう、おじいちゃん」
奥の居間から声がした。
「あらまあ、わかばちゃん。久しぶりじゃないの」
祖母だった。
薄水色に結い上げた髪。紫の着物の上に、白い割烹着。手にはお盆。お茶と、駄菓子屋で売っている薄い煎餅。これは「孫が来るときの、ばあちゃん用の標準装備」だった。たぶん祖父の千円札と同じくらい、年単位で同じパターンを繰り返している。
「ことえばあちゃん、おひさしぶり」
わかばが頭を下げた。
祖母は「ふふっ」と笑って、お盆をテーブルに置いた。手の動きが、やけにきれいだった。たぶんこれも長年の習慣なのだろう。
床の間の脇で、古い柱時計がぼーん、と鳴った。何時かは数えてくれなかった。
祖父はさっそく囲碁盤を広げた。9路盤。わかばの隣に座って嬉しそうに「ほーれ、始めるか」と石を取り出した。
俺は煎餅をかじりながら、その様子を見ていた。
祖母は台所に戻って洗い物をしていた。割烹着の背中が、しゃ、しゃ、と動いていた。
1局目が始まった。祖父は本気では打たない。わかばが考える時間を、ずっと長く取っていた。「ここはな、こう囲むんじゃ」と低い声で教える。わかばが頷く。指が、いったん止まる。それから別の場所に置く。祖父が「うむ」と頷く。先週と同じやりとりだ。
その時間が、祖父にとっては千円札100枚ぶんくらいの価値があるらしかった。
1局目が終わった。わかばが負けた。祖父が「うむ、うむ」とご機嫌に頷いていた。
わかばが立ち上がった。
「ばあちゃん。お手伝いする」
「あらまあ、いいのよ。座っとき」
「ううん。お手伝いする」
わかばはためにゃんの電卓を持ったまま、台所に入っていった。
俺はその背中を見送った。
……電卓持参で台所入り。わかばのなかで、ばあちゃんもすでに観察対象に登録済みらしかった。
祖父が「あおば、お前も打つか?」と聞いてきた。
「いや、じいちゃん。俺は煎餅で十分」
「そうかそうか」
じいちゃんはわかばが戻ってくるのを楽しみに待っていた。子供のような顔だった。
俺は煎餅を齧りながら、台所の方をちらりと見た。
わかばは祖母の隣に立って、布巾を持っていた。祖母が洗ったお椀を、わかばが拭く。流れるような連携だった。たぶん祖母も、これを月1回の儀式としてずっとやってきたのだ。
祖母が低い声で言った。
「わかばちゃん」
「うん」
「商売、しとるんやってね」
わかばが手を止めた。
「だれから聞いた?」
「お父さんから。先月、月の純利益が2300円になったって」
……父さん、ぜんぶしゃべってるな。
「ことえばあちゃん、商売、知ってる?」
「ちょっとだけ。お婆ちゃん若い頃、商店街の和菓子屋で働いとってね」
「うん」
「そこで、いちばん大事なんが屁理屈やった」
わかばの目が、すっ、と細くなった。獲物の目だ。
「屁理屈?」
「そう。お客さまがちょっと迷ってるときにね、お婆ちゃんがちょっとした屁理屈をつけたげるの。そしたら、買って帰ってくれるの」
「たとえば?」
「『これは今日、雨やから湿気でいつもより味が深いの』とか」
「……それ、屁理屈?」
「屁理屈やね。でも、お客さまが、ふふっと笑って買って帰ってくれた」
わかばは布巾を持ったまま、ちょっと考えていた。
「ことえばあちゃん。それ、わたしに教えて」
「ええよ。屁理屈研修や」
祖母は「ふふっ」と笑った。台所の窓から差し込む光の中で、薄水色の結い髪がすこし揺れた。
俺は煎餅を齧る手が止まった。
……今日、なにか世代継承のようなものが台所でこっそり起きていた。
「わかばちゃん。屁理屈は、3つの型があるの」
「3つ」
「1つ目。『天気のせい』。雨やから、晴れやから、湿気やから、で、なんでも理屈がつく」
「うん」
「2つ目。『お客さま自慢』。『お客さまだから特別に』『お客さまみたいな目利きには』、で、相手の自尊心をくすぐる」
「うん」
「3つ目。『お婆ちゃんの一存』。『お婆ちゃんの気分やから』『お婆ちゃんが、お気に入りやから』、で、相手は断れんようになる」
わかばは布巾を握ったまま、ちゃんと台帳に記録していた。
「ことえばあちゃん、すごい」
「ふふっ。お婆ちゃんはね、若い頃これで家を建てたんよ」
「家?」
「いまの、この家」
俺は煎餅を喉に詰まらせそうになった。
……この古い平屋、屁理屈で建ったのか。
「お婆ちゃん」
「うん?」
「3つ目の『お婆ちゃんの一存』。あれは、なんでいちばん効くの?」
祖母は洗い物の手を止めた。
しばらく考えてから、ふふっ、と笑った。
「あれはね。本当は、屁理屈やないの」
「ちがうの?」
「お婆ちゃんが本当に好きやから、勧めとるの。それが、ぜんぶ伝わってまうの」
わかばは布巾を握ったまま、ぼーっとした顔で祖母を見ていた。
「ことえばあちゃん」
「うん?」
「いま、わたしに屁理屈、つけてる?」
「……つけとらん」
「じゃあ、本当に好きなものを見せて」
祖母の手が、いったん止まった。
台所の流しの上の戸棚の方を、ちらり、と見た。わかばもその目線を追った。
俺も追った。
戸棚の中に、薄いピンク色の背表紙の本が何冊か並んでいた。横から見て、漫画雑誌の単行本らしかった。古いやつだ。表紙の端に星のマークが見えた。
「『ときめき★恋』?」
わかばがぼそっと読んだ。
祖母はしばらく、何も言わなかった。
それから、ふふっ、といつもより小さい声で笑った。
「お婆ちゃんはね、これがね、ずっと好きでね」
「うん」
「お爺ちゃんには、言うとらんの。漫画なんか、と笑われるから」
「うん」
「お友達も、もうこんなん読まんから」
「うん」
「だから、誰にも、話したことがないのよ」
わかばはためにゃんの電卓を、ぺた、と置いた。
獲物の目では、もうなかった。
祖母の隣に、もう一歩近づいた。
「ことえばあちゃん」
「うん」
「来週、わたしが聞く」
「ん?」
「『ときめき★恋』の話。来週、わたしが聞きに来る」
祖母は目をしばたたかせた。
「ええの?」
「うん。月、500円で」
「お、お金、取るの?」
「取らないとお婆ちゃんが申し訳ないって思う。だから、取る」
祖母はしばらく、わかばの顔を見ていた。
それから、ふふっ、と今日いちばんやわらかい声で笑った。
「わかばちゃん、賢いね」
「うん」
「お婆ちゃんの屁理屈、もう要らんかもしれんね。あんた、もう本物や」
わかばはまた布巾を持ち直して、お椀を拭き始めた。
俺は居間から、その2人の背中を見ていた。
祖父はまだ囲碁盤の前で、わかばを待っていた。隣の畳に座って、9路盤の上に小さな石をひとつぽつん、と置いていた。誰も打っていない手だった。たぶん、ただ並べて見ていたかっただけだ。
祖母は台所で、戸棚の『ときめき★恋』の背表紙をもう一度、すっ、となでた。指の動きが、やけに小さかった。
帰り道、わかばはためにゃんの電卓をぺた、と1回だけ叩いた。「YEN」が光った。だが、いつもの誇らしげな光り方ではなかった。
「あおちゃん」
「ん」
「お婆ちゃんは屁理屈の名人」
「うん」
「でも、いちばん効く屁理屈は、本当に好きなものの話」
「うん」
「だから、お婆ちゃんの『ときめき★恋』の話は、わたしがいちばん高く買う」
……刺された。今月もまた。
帰りの電車の中で、わかばはためにゃんの石フィギュアをポケットから取り出して座席の膝に乗せていた。商売モードオフの合図だった。たぶん祖母の話を、来週本気で聞きに行くつもりらしかった。
夕方の駅に着いた。改札を出ると、商店街の方角から5時のチャイムが聞こえた。
祖母の入れ知恵と、孫の屁理屈研修料が、月500円のレートで取引されていた。
第十八話 了




