第17話 「祖父の白髪と、千円のレート」
俺はどこにでもいる高校一年生だ。特技もない。取り柄もない。最近、家の十歳児が母から家計簿の外注を月500円で受注した、その家に住んでいる、その程度の男だ。
うちの十歳児が家庭内事業を多角化していくスピードに、兄業16年の俺は、もうついていけない。
その日は日曜だった。
わかばはためにゃんの電卓を、ぺた、ぺた、叩きながら、新しく預かった家計簿のページをめくっていた。父はソファで野球を見ながら、缶ビールではなく缶コーヒーを飲んでいた。母さんに「日曜の昼間からビールは、ペリカ的にマイナス」と言われたのが効いている。母さんがいなくても、家計簿は家の中で生きていた。
チャイムが鳴った。
わかばが電卓から顔を上げた。
すっ、と目が細くなった。
「あおちゃん。じいちゃん、来た」
「は? なんでわかるんだ」
「日曜の3時。月1回。雨の日は来ない」
「お前、家計簿だけじゃなくて、来訪者のスケジュールも把握してるのか」
「お客さま情報はいちばん大事」
わかばの中で、もう祖父も顧客台帳に登録済みらしい。十歳児の営業の底が、今月も見えなかった。
げんかんを開けると、たしかに祖父が立っていた。
紺の作務衣。足元は下駄。脇には朝日新聞。ぴしっとオールバックに撫でつけた髪は、もう8割が白くなっていた。たぶん俺が中学に上がった年からまた一段、白さが進んでいた。
「おう、あおば。元気か」
「じいちゃん、いらっしゃい」
「わかばは?」
「奥にいるよ」
「ほーれ、わかばー」
祖父はだらしなく笑いながら上がりこんできた。下駄を玄関にきれいに揃えて、靴下のまま居間に進む。
居間で待っていたわかばが、ためにゃんの電卓をテーブルに置いた。今日のこいつは、電卓を持たずに祖父を迎えていた。観察対象の前では、商売道具は引っ込めるらしい。
「おう、わかば。久しぶりじゃないか」
「おじいちゃん、おひさしぶり」
「ほーれ、これ」
祖父は作務衣の懐から、千円札を1枚取り出した。きれいに折り目のついた真新しいやつだった。たぶん今朝、銀行で下ろしてきた。
それを、わかばの手のひらに、ぴしり、と置いた。
顔は最高に得意げだった。
俺はこの祖父のドヤ顔を、これまで数えきれないほど見てきた。千円札を孫に渡すときだけ、祖父は他のどんな瞬間よりも生き生きとしていた。たぶん人生で何かを誰かに渡す行為のうち、これがいちばん好きなのだろう。
「ありがとう、おじいちゃん」
わかばは素直に受け取った。
祖父は、ほっほっ、と笑った。
わかばはそれをたたんでポケットにしまった。電卓は叩かなかった。叩く前にまず受け取る。それが祖父用の手順らしかった。
「あおばも、ほれ」
祖父は俺にも千円札を渡してきた。同じ折り目、同じドヤ顔。
「ありがとう、じいちゃん」
「いいって、いいって。じいちゃん、わしのほうが嬉しいんだ」
俺はこの千円札を、たぶんあとで普通に使う。コーラ代と、文月堂チャージの軍資金になる。だがわかばのほうは、ちがうらしかった。
祖父はそう言って、ソファの父の隣にどっかりと座った。父が「親父、今日も元気だなあ」と半分眠そうに笑っていた。
わかばは祖父の動作をずっと観察していた。電卓は触らない。だが目だけは、すっ、と細められていた。獲物を見つけたとき、わかばがするあの目だった。
俺は気になって、わかばの隣に座った。
「わかば」
「ん?」
「お前、なんで電卓叩かないんだ」
「じいちゃんはちがう」
「ちがう?」
「タイガと違う。お父さんと違う。お母さんともちがう」
「どうちがうんだ」
「じいちゃんは、千円を渡したくて来てる」
俺は息を呑んだ。
わかばはぼーっとした顔のまま続けた。
「千円が目的じゃない。渡す瞬間が、目的」
……たぶんこの瞬間、うちの十歳児は祖父という1人の人間をいちばん深いところで観測していた。
俺は祖父のほうを見た。祖父はソファに座って父と野球の話をしていた。野球の話自体はどうでもよくて、ただ「孫の家のソファに座って孫の父と野球の話をしている自分」を味わっているような顔だった。あれはたぶん、千円札を渡したあとの祖父の儀式の続きなのだ。
「わかば」
「ん」
「じゃあお前、その千円どうするんだ」
「ためる」
「貯金?」
「ちがう。タンスにためる。じいちゃんがくれた千円札は、つかわない」
「な、なんで」
「じいちゃんは、わたしがその千円札をつかうのを見たくない」
わかばは電卓をまだ触らなかった。代わりに、ためにゃんの石フィギュアをひとつポケットから取り出してテーブルに置いた。十歳児なりの、商売モードオフの合図らしかった。
「あおちゃん」
「うん」
「じいちゃんが千円札を渡す回数。月1回。1年で12回。10年で120回」
「お、おう」
「これはお金じゃない。レート」
「レート?」
「じいちゃんがわたしと繋がっていられる回数のレート。1回、千円」
俺はぽかんとした。
わかばの目の中で、いつもの「YEN」とは違う何かがゆっくりと光っていた。お金で測れない何かを、それでもお金の言葉でしかこいつは理解できないらしい。だから「レート」と呼んだ。
「おーい、わかば。じいちゃんと囲碁、打つか?」
祖父が呼んだ。
「うん。打つ」
わかばは立ち上がって祖父の前に座った。
祖父は嬉しそうに、いつも持ち歩いている小さな碁盤を座卓に広げた。9路盤。子供用の入門の盤だ。たぶんわかばに合わせて買ったのだろう。
「ほれ、わかば。今日は勝ったら、もう千円な」
「だいじょうぶ。負ける」
「お、おう?」
「じいちゃんに勝てない。だから、教えて」
祖父はちょっと目をしばたたかせた。
俺はその瞬間を見た。祖父のドヤ顔がいったん引っ込んで、もっと柔らかい顔になった。それは千円札を渡すときの「得意げな顔」ではなく、内側からゆっくり立ち上がってくる笑顔だった。
「そうかそうか。じゃあ教えるか」
「うん」
「ここはこう打って。相手の石を囲むんだ」
「ふむ」
わかばは祖父の指の動きをじっと見ていた。
祖父がひと手打つ。わかばがひと手打つ。祖父が「そこは、危ないぞ」と低い声で言った。わかばが指をいったん止めた。それから別の場所に置いた。祖父が、うむ、と頷いた。
祖父がまた打つ。わかばが考える。考えている間、祖父はそれをずっと見ていた。たぶん盤面ではなく、わかばの考えている横顔のほうを見ていた。
1局終わった。わかばは負けた。
「うん。負けた」
「次いくか?」
「いく」
2局目。3局目。わかばは3局とも負けた。祖父はそのたびに嬉しそうに、ほっほっ、と笑っていた。
俺はその様子を、台所からコーラを開けながら見ていた。祖父が今日いちばん幸せそうだった瞬間は、千円札を渡したときではなかった。わかばが「教えて」と言った、あの瞬間だった。
夕方になった。
祖父が「そろそろ帰るかな」と腰を上げた。下駄を履いて、玄関でわかばのほうを振り返った。
「わかば」
「ん?」
「次、来週来ようか?」
祖父はそう言いながら、もう作務衣の懐に手を入れていた。たぶん来週ぶんの千円札を、もう用意してきていたのだ。月1回のはずなのに、今日2回目を渡そうとしていた。
わかばは首を横に振った。
「おじいちゃん」
「ん?」
「千円はもういい」
「お、おう?」
「来週は千円じゃなくて、囲碁、教えて」
祖父の手が止まった。
懐から半分だけ出ていた千円札が、ゆっくりと元の場所に戻っていった。
「……ふむ」
祖父はそれだけ言った。
それから、わかばの頭をいちどなでた。
白い髪が、夕方の光の中ですこし揺れた。たぶん俺が中学に上がった年からまた一段白くなったその髪が、わかばの黒い頭の上でふわり、と動いていた。
「じゃあな、わかば」
「うん。じゃあね、おじいちゃん」
祖父は下駄を鳴らして帰っていった。げんかんの外でもう一度ふり向いて、ほっほっ、と笑った。今日いちばんの笑顔だった。
ドアが閉まった。
俺はわかばのほうを見た。
「わかば」
「ん」
「お前、千円を断ったぞ」
「うん」
「商売、なくなるぞ」
「ちがう」
わかばはぼーっとした顔のまま、ためにゃんの石フィギュアをポケットに戻した。
「あおちゃん。じいちゃんの本当に欲しいもの、千円じゃない」
「うん」
「来週、わたしが教えて、って言うその言葉」
「……」
「それ、千円よりずっと高い」
俺はソファに沈んだ。
……刺された。今月もまた。
祖父の千円札は、テーブルの上にまだ折り目のついたまま置いてあった。わかばはそれをタンスにしまいに行った。引き出しを開ける音が、襖の向こうから聞こえた。たぶんそこには、すでに何十枚もの千円札が同じ折り目のついたまま重なっている。使うためじゃなく、ありがとうと言うためのレートとして。
祖父の白髪と、孫のありがとうが、千円のレートで取引されていた。
第十七話 了




