第16話 「母の特売日と、マイナス10万ペリカ」
俺はどこにでもいる高校一年生だ。特技もない。取り柄もない。最近、家の十歳児に、月300円ずつ合法的に巻き上げられている、その程度の男だ。
ただ、ひとつだけ付け加えると、うちは父子家庭ではない。
母さんは、いる。商店街の総菜屋で、朝5時から夜9時まで働いていて、家にはほとんど帰ってこない。日曜の朝に、台所をちょっと横切る人だ。だから、感覚としては父子家庭に限りなく近い。だが、月に一度、こいつが地上に降りてくる日がある。
月末。
商店街の特売日。
その日は、母さんが家計簿を開く日でもあった。
その日、俺は卵とねぎとちくわを頼まれて、商店街に向かっていた。父からのメモには、汚い字で「ちくわは磯辺揚げ用に太いやつ。わかばがよろこぶ」と書いてあった。父は、こういうところで、たまにまっとうな父親をやる。
商店街は、特売日の轟音だった。「大根、100円!」「お肉、半額!」「卵、10個、150円!」と、客と店主が入り乱れて叫んでいる。商店街の特売日というのは、地球の表面を何枚か重ねて煮詰めたような、密度がある。
俺は、人の波をかき分けて進んだ。
その波のいちばん奥に、母さんがいた。
薄紫のブラウスの上に、商店街の共通エプロン。手には木べら。なぜか手には、必ず木べらを握っている。家でも商店街でも、母さんは木べらを離さない。たぶん、生まれたときから握っていた。
「あ、あおば」
母さんが、俺を見た。
ふつうに見えるが、これは、近隣の地震計がいっせいに振り切れる目だ。家の中の空気の流れが変わるときの、目だった。
「ちょうど、いいわ。家計簿、持ってきてる?」
「家、にあるけど」
「取りに、戻って」
「は、はい」
俺は即答した。
商店街の店主たちが、いっせいに手を止めた。野次馬の目つきだった。あの母さんが、家計簿を開く。それは、商店街の月末の定例イベントらしい。みんな、ニコニコしていた。他人の家計が燃えるのを見るほど楽しいことは、ないらしい。
俺は、五階まで走って戻った。
帰宅すると、わかばが、ためにゃんの電卓を、ぺた、ぺた、叩いていた。父は、まだ寝ていた。週末の午前中の父は、たいてい半分、亡くなっている。
「わかば。お母さん、家計簿、見るって」
わかばが、電卓から顔を上げた。
すっ、と目が細くなった。
ためにゃん電卓の後ろの「YEN」が、いつもよりちょっと、不安そうに光った気がした。
「あおちゃん。お父さん、起こして」
「無理だろ」
「叩いて、いい」
「お前が、いちばんこわい」
俺たちは父を起こして、家計簿のファイルをわかばが抱えて、四人で商店街に向かった。父は、缶コーヒー片手にぽっこり腹を揺らしながら歩いていた。被告人として、最高に決まらない歩き方だった。
商店街の総菜屋の軒先で、母さんが待っていた。
近くの店主たちは、なぜか椅子を出して座っていた。手には、お茶。完全に、見物だった。
母さんは、家計簿を受け取って開いた。
手元の木べらを、いったんエプロンのポケットにしまった。本気のときに、しまうらしい。
「お父さん」
「は、はい」
「今月、文月堂チャージ、月300円、あおばから徴収」
「は、はい」
「お疲れさまパック、500円、お父さんから徴収。週1回」
「は、はい」
「合計、月2300円。わかばの純利益」
「は、はい」
父は、両手を膝についていた。なぜか姿勢だけは、こういうとき、誰よりも正しかった。
母さんは、家計簿の別のページを開いた。
「対して、お父さんの、おでん屋通い、月4200円」
「は、はい」
「商店街の缶ビール、月3800円」
「は、はい」
「あおばの文月堂、月900円(古本代)」
「は、はい」
「わたしの、商店街の生活費、月8万円」
「は、はい」
母さんは、電卓を、ぴ、ぴ、と叩いた。家庭の家計簿に、わが家のためにゃん電卓と、よく似た音が響いた。
「家計全体、マイナス10万ペリカ」
言い切ったあと、母さんは、家計簿のはしを、ぱらり、とめくった。付箋が、10枚以上ついていた。一枚ずつ、自分で書いたのだ。誰も見ない付箋を。
「ペリカ……?」
俺は、聞いてしまった。
「カイジのペリカ。1ペリカ、1円。家計簿には、ペリカで書くって決めてるの」
「お、おう」
「家計が燃えるとき、円って書くとつらいから、ペリカにする」
母さん独自の自己防衛だった。だが、ペリカに換算しても、燃えていることに変わりはない。
わかばが、家計簿の横顔を、じっと見ていた。すっと細められた目で、ぺた、ぺた、と、ためにゃんの電卓を叩いている。たぶん、母さんの家計簿の数字を、リアルタイムで自分の台帳に転記していた。
「わかば」
母さんが、わかばを見た。
「は、はい」
「あんたの商売、停止する?」
わかばの「YEN」が、いっせいに消えた気がした。
商店街の店主たちが、お茶を飲む手を止めた。
わかばは、しばらく母さんを見ていた。それから、ぼーっとした顔で言った。
「お母さん」
「うん」
「わたしの商売、止めると、家計、どうなる?」
母さんが、電卓を叩いた。
「マイナス12万3000ペリカ」
「もっと、燃える」
「うん」
わかばは頷いた。それから、ぼそっと言った。
「お母さん。わたしの商売は、家計の止血剤」
商店街の店主たちが、ぶっと噴いた。誰かが「うまいこと言うわ」とつぶやいた。
母さんは、電卓を置いた。家計簿を閉じた。
ふっ、と笑った。
たぶん、本気で笑ったのは、今月はじめてだった。木べらをポケットから取り出して、いつもの握り方に戻した。
「あんた、誰に教わったの」
「だれにも」
「血、だね」
母さんは、それだけ言った。
俺は、ぽかんとしていた。母さんとわかばが、ほんの一瞬、目を合わせた。たぶん、同じ目をしていた。獲物を見つけたとき、わかばがする、あの目だ。母さんも、同じ目をできる人だった、ということだ。
わかばは、ぼーっとした顔のまま、ためにゃんの電卓を、もう一度、ぺた、と叩いた。「YEN」が、誇らしげに戻ってきた。
「お母さん」
「うん?」
「家計簿、つける作業、わたしに外注しませんか」
「外注?」
「月500円で受けます」
俺は、頭を抱えた。商売の上位者を、自分のお客さまにしようとしている。十歳児の営業の底が、見えなかった。
母さんは、しばらく考えた。家計簿の表紙を、いったん撫でた。それから、新しいファイルを、ぽい、と、わかばに渡した。
「……いいわ」
受けやがった。
「ただし、月末、家計簿をわたしに提出。エラーが見つかったら、減額」
「だいじょうぶ。エラー、出さない」
「自信、あるのね」
「お母さんの家計簿、見たから、もう覚えた」
わかばは、にっこり、と笑った。今月いちばん無垢な笑顔だった。
商店街の店主たちが、本気で拍手していた。お茶のお代わりを注ぐ手が、忙しくなっていた。
帰り道、父が、ぽつり、と言った。
「あおば」
「なに?」
「お父さん、これで、おでん屋、行ってもいい?」
「だめに決まってるだろ」
「だな」
父は、缶コーヒーを、ぐっ、と飲んだ。
わかばは、母さんから預かった新しい家計簿のファイルを抱えて歩いていた。重そうだったが、嬉しそうだった。
「わかば」
俺は、聞いた。
「お母さん、いつもよりちょっと、機嫌、よかったか?」
「うん」
「特売日は、商店街が儲かる日だから、母さんも機嫌いいんだろうな」
わかばは、ぼーっとした顔で、首を横に振った。
「ちがう」
「ちがうのか」
「お母さん、家計簿、見られて、ほっとしてた」
俺は、足を止めた。
わかばは、続けた。
「ひとりでぜんぶ見てるの、つらい。だから、わたしが見るって言ったら、ほっとする」
……刺された。
商店街の、5時のチャイムが鳴った。父は、ふー、と息をついた。わかばは、ためにゃんの電卓を、もう一度、ぴかり、と光らせた。
商店街の特売日と、わが家の家計が、マイナス10万ペリカで、相殺されていた。
第十六話 了




