第15話 「父の帰宅と、お疲れさまパック」
俺はどこにでもいる高校一年生だ。特技もない。取り柄もない。最近、文月堂に行くたびに、家の十歳児に、診断料という名目で、合法的にお金を巻き上げられている、それくらいの男だ。
月300円。診断、込み。
わかばは、それを「上限」と呼んでいる。たぶん、これより上に設定すると、俺が息を止めるからだ。こいつは客の体力を、絶妙に読んでいる。死なせない範囲で、絞る。漁業のサステナビリティ精神に近い。(むしろ、十歳児がそれを理解している、ということが、いちばんこわい。)
その日、俺は居間で宿題をひらいていた。
わかばは、ためにゃんの電卓を、ぺた、ぺた、叩きながら、ちらちらと時計を見ていた。
夜8時15分。
わかばが、すっ、と立ち上がった。
「あおちゃん。お父さん、もうすぐ帰ってくる」
「な、なんで、わかる」
「金曜は8時半。火曜は9時。月曜は9時半。雨の日は、10分遅い」
「なんで、お前、把握してる」
「お父さんは、いいお客さま」
……あ。
俺はシャープペンを置いた。これは、聞き捨てならない単語だった。「いいお客さま」は、こいつの辞書で、好意と財布を同時に持っている人間を指す。先週は、タイガ。先々週から、俺。
今度は、父か。
なぜか、家族がぜんぶ、こいつの顧客台帳に載っている気がして、急に不安になってきた。
「お父さんも、お客さまなのか」
「うん。常連」
「常連!?」
「いちばん、リピート率、高い」
ためにゃん電卓の後ろの「YEN」が、ぴかり、と光った。今日は、特に誇らしげだった。
わかばは台所に行って、冷蔵庫から缶ビールを2本、取り出した。テーブルに置く。リモコンを、ソファのいちばん見やすい場所に配置する。エアコンの設定温度を、26度に合わせる。さらに、なぜかお風呂のスイッチを押した。「ピッ」と、湯沸かしがはじまる音が、廊下の向こうから聞こえた。
淀みのない流れだった。
わかばが、はじめて省エネを捨てている。こいつが、こんなにてきぱき動く姿を、俺は兄を16年やってきて、見たことがなかった。たぶん、宿題をぜんぶいっしょにやったとしても、ここまで速くは動かない。
(……たぶん、これは、稼げるときには、こいつはちゃんと稼ぐ、ということだ。)
げんかんのドアが開いた。
「ただいまー……」
父だった。
白いTシャツ。ストライプのパジャマパンツ……は、まだ着替えてないが、家を出るときからそれだった気もする。とにかく、缶ビール片手にぽっこり腹を揺らしながら、廊下を歩いてきた。顔は、なんというか、五階分の階段を肩でせおって上ってきた、ような顔だった。
「おかえり、お父さん」
「ただいまー、わかばー……」
父が、ソファに、ぼふ、と沈んだ。
その瞬間、わかばが動いた。
まず、缶ビールを、すちっ、と開けて、父の手に握らせた。父が「あー……」と、聞いたことのある、人間が出す音じゃない音を出した。たぶん、サウナで整った直後のおじさんが出す音と、同じだ。
すぐ、リモコンを握らせた。父がテレビをつける。野球が映る。
次に、わかばは父の肩の後ろに回って、両手で、ぐ、ぐ、と押し始めた。父の肩を揉み始めた。
「あー……わかばちゃん、今日も、神だな……」
「神じゃない」
「神だよ、神」
「神は、お金、取らない」
「あ?」
「わたしは、取る」
父の目が、ぴかっ、と覚めた。
わかばは、肩を揉む手を止めずに、ぼーっとした顔のまま言った。
「お父さん。お疲れさまパック」
「……お、なんだ?」
「ビール、開ける。リモコン、渡す。エアコン、設定。お風呂、準備。肩、揉む。ぜんぶ、込み」
「ほう?」
「ぜんぶ込み、500円」
俺は、宿題の手を止めた。
待て。これは、酷くないか。父は今、たぶん人生でいちばん無防備な瞬間にある。そこに、わが家の十歳児が、料金プランを突きつけている。これは、もう抜け出せない組み立てだった。
ところが、父は断らなかった。
「500円か……」
ぐっ、と、ビールを飲んだ。
「やすいな」
「は!?」
俺は声が出た。
父は缶を置いて、ふー、と息をついた。
「あおば。お父さん、いまな。一日終わって、家に帰ってきた瞬間が、いちばんつらいんだ。誰もなにもしてくれなかったら、自分でぜんぶやらなきゃいけない。ビールを開けて、リモコンを探して……それを考えるだけで、もう無理だ」
「は、はあ」
「それを、誰かがぜんぶ先回りしてやってくれる。それも、家の中で。これは、500円じゃ安すぎる」
父はしみじみと言った。本気の目だった。
わかばは、肩を揉む手を止めずに聞いていた。
「お父さん。じゃあ、1000円?」
「いや、500円でいい」
なぜ、自分で相場を戻したんだ。
「ありがとう、わかばちゃん。今日も、頼むわ」
「うん。お疲れさま」
父は財布から500円玉を取り出して、わかばの手のひらにのせた。わかばは、それを受け取ると、ためにゃんの電卓を、ぴ、ぴ、と叩いた。液晶に数字が増えた。後ろの「YEN」が、いちばん光っていた瞬間だった。
俺は、頭を抱えた。
これは、もう家族の姿じゃない。十歳児のサービス業に、父が世界一忠実な課金ユーザーとして、ぶら下がっている姿だった。
「父さん」
俺は、耐え切れずに聞いた。
「父さん、それ、わかばがお金、取ってるの、ちゃんとわかってる?」
「わかってるよ。むしろ、ありがたい」
「ありがたい!?」
「あおば。聞け。世の中には、ふたつ、お金の使い方がある。ひとつは、ものを買うための金。もうひとつは、誰かが自分のために動いてくれた、ということに払う金だ」
「お、おう」
「お父さんは、二つ目のほうが好きだ。家に帰ってきて、自分のために誰かが動いてくれている、っていうのは、500円じゃ絶対に買えない。だから、500円がいい。安いからありがたいんじゃない。安いのに、それを買えている、ということが、ありがたいんだ」
「父さん、いま、お父さんがふだんで、いちばん頭良かったよ」
「だろ」
「だが、それを十歳児に教え込んだのが、お父さんだ、っていう自覚は、ある?」
「……あ」
父は口を、ぽかんと開けた。たぶん、自分で自分の経済学の輸出先を確認して、いまさら後悔した顔だった。
わかばは、肩を揉む手を止めなかった。聞いていないように見えて、たぶんぜんぶ、メモを取っていた。今後の価格設定のためだ。
「あおちゃん」
わかばが、ぼそっと言った。
「な、なんだ」
「お父さんは、いいお客さま。だから、月にいちど、サービスデーやる」
「サービスデー?」
「お疲れさまパックを、480円にする」
「20円しか、引かないのか」
「だいじょうぶ。お父さん、20円でもよろこぶ」
父が、缶ビールを片手に、しみじみと頷いていた。「お、ありがたいな……」と、本気で言っていた。たぶん、480円で、サウナで整ったあとの「あー……」が、もう一段深く出るのだろう。父の人生の深さが、わからない。
俺は、ソファの隣に沈んだ。
「父さん。あいつな。ちゃんと相手の体力を見て、価格を決めてるんだぞ」
「うん。さすが、わかばだ」
「ほめてどうする」
「あおばに、月300円なのも、たぶん、お前を生かすためなんだろう?」
「……気づいてたのか」
「父さんは、こう見えて、家計簿はつけてる」
はじめて聞いた。
ためにゃん電卓の後ろの「YEN」が、テレビの野球の照明を受けて、誇らしげに光っていた。父はビールを2口飲んで、半分、目を閉じていた。わかばは肩を揉みながら、もう次のお客さま(おそらく、俺)への料金プランを計算しているように見えた。
俺は、ため息をついた。
わかばにとって、家は家族の場所、ではない。お得意さまが何人か暮らしている、店だ。店主は、本人も気づかないうちに、お得意さまを生かす方向に、ぜんぶの計算を寄せている。商売を続けるとは、たぶん、そういうことだ。
「お疲れさま、お父さん」
わかばが、ぼーっとした顔で言った。
「ああ。今日も、ありがとうな」
父は、目を閉じたまま笑っていた。
わかばが、父の肩の上で、もう一度、ぼそっと言った。
「お父さん」
「うん?」
「今日、いつもよりちょっと、つらかったでしょ」
「……ばれてる、か」
「だから、サービスデー」
父は、目を閉じたまま、ふっ、と笑った。
金曜の夜、8時32分。父の疲労と、わかばのサービスが、500円で取引されていた。
第十五話 了




