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すずらん団地五号棟 〜わかばとお小遣いと、時々ちくわ〜  作者: 夕凪 鏡介


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第14話 「古本屋の笑顔と、文月堂チャージ」


 俺はどこにでもいる高校一年生だ。特技もない。取り柄もない。深夜ラジオのハガキ職人をしていることだけは、誰にも言っていない。


 その日、俺がすずらん団地前商店街のはずれに向かっていたのは、ラジオ用のネタ帳の補充に古い本がほしかったからだ。


 商店街の、いちばん端。シャッターの隣に、看板がある。


「文月堂」


 古本屋だ。木枠のガラス戸。中をのぞくと、本の山と、本の山と、本の山。たまに、人が座っている。


 店主のじいさんは、いつもレジの奥で新聞を読んでいる。客が来ても、顔を上げない。会計のときだけ、無言で手を差し出す。そういう店だ。


 俺は、戸を引いた。


 からり、と、古いベルが鳴った。


 本のにおいが、した。紙と、ほこりと、木の棚と、季節を十回くらい越えたインクのにおい。少し、しめっぽい。だが、嫌いじゃない。


 奥の棚をひやかしていたら、視界のすみに、深緑色が見えた。


 ロングスカート、だった。


 顔を、上げた。


 文庫の棚の前に、女の人が立っていた。ベージュのカーディガン。ハーフアップ。耳の横の髪が、すこしはねている。


 手には、革装の、古い本。


 彼女はそれを、両手でささえるように開いていた。指先が、ページのはしをなでている。光が、棚と棚のあいだに斜めに差していて、その光の中に、彼女がいた。


(埃すら、こいつの演出に見える。)


 文月堂の空気が、彼女の周りだけ、止まっていた。


 俺は、息をするのを忘れていた。


 隣のクラスの、彼女だった。


 ずっと前から、知っている。廊下で、すれちがう。図書室で、同じ棚の前で、立ち止まることがある。一度も、声をかけたことはない。あちらも、たぶん、俺のことは知らない。


 いつも、本にすこし顔を寄せすぎる人だな、と思っていた。


 だが、こんなふうに、本に向けて笑う人だとは、知らなかった。


 彼女は、革装の本の、ある一行に目を止めた。


 ふっ、と。


 笑った。


 声は、出さない。口のふちが、ほんの少し上がっただけだ。だが、本に向けて、ひっそりと笑った。たぶん、その一行にしか向けられていない、笑顔だった。


 俺は、見てしまった。


 たぶん、見てしまった、というのが、いちばん正しい。盗み見、というのも、ちょっとちがう。ただ、たまたまそこにいて、彼女の顔がほどけた瞬間が、視界に入った。それだけだ。


 それだけ、なのに。


 心臓が、いきなり、走り出した。


(おい、待て、文月堂の空気が、いま、変わったぞ。)


 俺は棚の本を、慌てて一冊抜いた。タイトルも見ていない。それを買って、足早に店を出た。じいさんは無言で千円札を受け取り、無言でお釣りを出した。いつもどおりの、文月堂だった。


 俺だけが、いつもどおりじゃなかった。


 階段を五階まで上るあいだ、ずっと、あの革装の本のふちをなでていた指先のことを、考えていた。


 考えながら上ったので、ぜんぜん息切れしなかった。階段の五階ぶんが、二階ぶんに感じた。物理法則は、片思いを優遇するらしい。


 げんかんを、開けた。


「ただいま」


 声が、上ずっていた。


 しまった、と思った。


 居間で、ためにゃんの電卓を、ぺた、ぺた、叩いていたわかばが、ぼーっとした顔を上げた。


 すっ、と、目が細くなった。


「あおちゃん」


「な、なに」


「目、いつもより、ちょっと、開いてる」


 ためにゃん電卓の後ろの「YEN」が、こちらを向いた。誇らしげに光っているように見えた。


 俺は、無視を決め込んだ。


「気のせいだろ」


「気のせいじゃない。鼻も、ちょっと、ひろがってる」


「広がってない」


「広がってる。あと、本、買った」


 わかばは、俺が小脇に抱えていた紙袋を、指さした。文月堂の、茶色い紙袋。商店街の、誰が見ても、文月堂だと分かる、あれだ。


 わかばは、電卓をテーブルに置いた。


 いちど、置いた。


「あおちゃん。それ、片思い」


 俺は、息を止めた。


「は?」


「タイガと、同じ顔、してる」


 タイガの名前が出てきた瞬間、俺の中で、なにかが終わった。


(先週の、あの、星柄シャツの、汗くさい指の少年と、いま、俺が、同列に並べられた。)


 わかばは、ぼーっとした目で、こちらを見ていた。


「あおちゃんも、いいお客さま」


 知っていた。こいつの、この目を知っていた。先週、タイガを見たときと、まったく同じ目だ。獲物を見つけた目だ。


「待て、ちがう。これは、ただの、本だ」


「ちがう。文月堂の紙袋を、こんなに大事に持ってきた。ふつう、レジ袋の中で、もっと雑にする」


「お前は、本を雑にしすぎなんだ」


「あおちゃん、ふだん、文月堂で本、買わない」


「……買うとき、ある」


「年に、二、三回」


 なんで把握してるんだ。家計簿でも、つけてるのか。


(しかも、年に二、三回、というのは、去年までのペースだ。今月は、これで三回目だ、ということは、こいつには絶対に言えない。彼女が文月堂に来る、というのを、知ってしまったあとからのペースだ、ということは、もっと言えない。)


 わかばは、ためにゃんの電卓を、ぺた、ぺた、叩いた。「YEN」が、また光った。


「あおちゃん。これからは、文月堂に行くたびに、わたしに、五十円ね」


「は!?」


「文月堂チャージ」


「いま、お前が、その用語を発明したな」


「むかしから、ある。チャージ料。喫茶店で、コーヒー以外に取られる、座る代」


「座ってないだろ、俺は」


「立ってた。三十分くらい」


「見てたのか」


「商店街の、防犯カメラ。みどりおばちゃんの、八百屋の」


 商店街のおばちゃんたちは、わかばを孫みたいにかわいがる。お小遣いの匂いがする方角に、こいつは、誰にでも、しっぽをふる。


「待て、文月堂チャージ、というのは、なんの料金だ」


「分析料」


「分析」


「あおちゃんが、片思いを、こじらせていないか、毎週、わたしが診断する。診断、五十円」


「いらない、そんな診断」


「あおちゃん、自分で診断できる?」


「……できない」


「だから、外注。安いほう」


 ぐうの音も、出なかった。


 たしかに、こいつに診断されるほうが、自分で悶々と判断するより、安いし、早い。問題は、診断結果が、こいつの、お小遣いに、なる、ということだけだ。(つまり、医者と、薬局と、保険組合が、ぜんぶ、十歳児のためにゃん電卓に入っている、ということだ。)


「五十円は、高い」


「四十円?」


「いや、待て、値下げ交渉じゃ、なくて」


「あおちゃん。これは、未来への先行投資」


「お前が、その言葉を、覚えてきた経路を、教えろ」


「テレビ。お父さんが、見てた、おじさん」


 またしても、父が、家庭内に、知識を汚染していた。父は平日の夜の経済番組を、缶ビール片手に見るのが好きだ。その内容を、わかばが、おやつ感覚で吸収していく。


 そのとき、げんかんのドアが開いた。


「ただいまー」


 父が、帰ってきた。白いTシャツ、ストライプのパジャマパンツ、缶ビール。今日の装備も、完璧だ。


「お、なんの相談だ」


「あおちゃんの、文月堂チャージプラン」


「ぶんづきどう……?」


「兄が、古本屋の女の子に、恋した話」


「待て、待て、待て」


 俺は慌てたが、もう、遅かった。父はビールを置いて、両手を膝についた。それは、それは、嬉しそうに笑った。


「あおば! やったな!」


「何が!」


「お父さんも、お前くらいの歳に、商店街の、おでん屋の、お姉さんが……」


「いらない、その情報!」


「ちくわが、いつもより、一本、多かった日が、あってな……」


「ちくわは、関係ない!」


 わかばが、父の話に、ぴくりと反応した。ちくわ、と聞いた瞬間、目が、ほんの少し、キラーン、と光った。耳が、いい。


「お父さん。その、おでん屋のお姉さんに、お父さん、いくら使った?」


「お、おう? たぶん、月、三千円くらい、かな……」


「月、三千円」


 わかばは、電卓を叩いた。すっ、と、目が細くなった。


 俺は、覚悟した。月、三千円。文月堂チャージ、月額三千円。お小遣いが、消し飛ぶ。


「あおちゃん。文月堂チャージ、見直す」


「やめてくれ」


「お父さんは、月、三千円。あおちゃんは、高校生。三千円は、取れない」


「は?」


 わかばは、ためにゃんの電卓を、ぺた、ぺた、叩いた。


「あおちゃんから、三千円、取ったら、あおちゃんが、止まる。お小遣いが、ゼロになる。文月堂、行けなくなる。診断、できなくなる。わたしも、こまる」


 ……ん?


 俺は、わかばを見た。わかばは、電卓を見ていた。


 こいつは、金にしか興味がない。だが、金を止めるほどの阿呆ではない。お客さまが、息をしているあいだだけ、料金は発生する。死んだお客さまから、お金は出ない。


 こいつは、それを、知識ではなく、本能で理解している。お小遣いを生かす拝金主義者の、天然の良心、というやつだ。


「だから、文月堂チャージは、月、三百円。診断、込み」


「……」


「これが、上限。それ以上、取ったら、あおちゃんが、息、止める」


「お前、自分の名前で『慈善事業』って、書いて、額に飾れ」


「やだ。額、お金、かかる」


 なに一つ、大丈夫じゃない。だいぶ、大丈夫だが、なに一つ、大丈夫じゃない。


 わかばは、電卓から顔を上げた。ぼーっとした目で、こっちを見た。


「あおちゃん」


「なんだよ」


「また、行きたいでしょ」


 ……刺された。


 俺は、コーラを冷蔵庫から出して、ぷしゅ、と開けた。冷えた、いつものやつだ。父は、笑い続けていた。わかばは、ためにゃんの電卓に、視線を戻した。「YEN」が、誇らしげに光っていた。


 俺は、ソファに沈んだ。


 あの、文月堂の、革装本の、指先を思い出した。光のなかの横顔も、思い出した。隣のクラスの、ずっと前から知っているはずの人。だが、本に笑いかけていた、あの一秒だけは、俺の知らない人だった。


 その記憶は、まだ、俺の中に、無料で置いてある。


 ただ、これから、その記憶を思い出すたびに、家の中の十歳児が、月額三百円で、関税をかけてくる。それだけが、世界の新しいルールに、なった。


 古本屋の笑顔は、無料だった。文月堂のチャージは、月、三百円から、はじまるらしい。


             第十四話 了

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