第13話「5階のベランダと、重力ビジネス」
そいつは、ある日、ボールを抱えてうちのドアの前に立っていた。
小学四年生くらいの男の子だった。星柄の赤いTシャツ。膝には絆創膏。脇にサッカーボール。日に焼けた顔で、なぜかやたらと緊張していた。
「あの……わかば、ちゃん、いますか」
声が、上ずっていた。
俺は、こいつを知らない。だが、わかばを「わかばちゃん」と呼ぶあたり、同級生か何かだろう。それにしては、様子がおかしい。耳がほんのり赤い。視線が定まらない。指は、ボールの表面を意味もなくなでている。これは、友達を訪ねてきた挙動ではない。
玄関先でここまで緊張できる小学四年生も、なかなかいない。なにか重大な決意を固めて、この五階まで階段を上ってきたことは、容易に想像がついた。
「わかばー。タイガって子が来てるぞ」
奥に向かって、声をかける。
その瞬間、タイガと名乗った男の子が、びくっと肩を震わせた。名前を呼ばれただけで、なぜそんなに動揺するんだ。
わかばが、のそのそと出てきた。手には、もちろん、例のためにゃんの電卓。じいちゃんからもらった公式のやつだ。最近のこいつの相棒である。
「タイガ。なに?」
わかばが、ぼーっとした顔で言った。
その、なんでもない一言で、タイガの顔がぱっと明るくなった。わかりやすい。わかりやすすぎる。
「あ、あのさ! 今日、公園でサッカーしようと思って! わかばちゃんも、どうかなって!」
「いかない。めんどう」
「そっか……いや、うん、そうだよね……」
秒で、撃沈した。撃沈ぶりにも、どこか慣れがある。これまでにも何度も、同じように誘っては断られてきたのだろう。歴戦の片思いだった。
タイガは、それでもめげなかった。次の手を繰り出してくる。
「じゃ、じゃあさ! このボール、すごいんだぜ。プロも使ってるやつで……ちょっと、見てよ」
タイガはサッカーボールを必死にアピールし始めた。わかばに、何かすごいと思われたいらしい。少年の、純粋な作戦だった。
俺はその様子を、横目で見ていた。
もしかして、こいつ。
いや、まさか。よりにもよって、うちの守銭奴を選ぶ小四男子が、この世にいるとは思いたくない。(人類の未来のためにも、いてほしくない。)
だが、耳の赤さは嘘をつかない。上ずった声も、汗で湿った指も、ぜんぶ同じ方向を指している。
仮に、だ。仮にこいつが、わかばのことをなにかしら好きだとして。
問題は、わかばがその好意の存在に気づいているのかいないのか、外からはまったく判断がつかないことだった。
こいつは、お金の匂いには犬よりも敏感だ。一円の値動きも、見逃さない。だが、人の好意となると、レーダーがそもそもついているのかいないのか、わからない。(搭載されていないモジュールが入っていない車のように、ただ空白なだけかもしれない。)
「ねえ、わかばちゃん。このボール、どう?」
「べつに」
「うっ……」
会話にならない。
タイガは、それでも必死だった。話題をつなごうとしている。そして、苦しまぎれに、ベランダのほうを指さした。
「あ、あのさ! わかばちゃんちのベランダ、五階だから、見晴らし、いいよね! ちょっと、見せてもらっても……」
「いいけど」
わかばはそう言って、タイガをベランダに案内した。
タイガは、わかばと並んでベランダの手すりにもたれた。ようやく隣に立てた。そういう顔をしていた。下界を見下ろすふりをして、ちらちらと、わかばの横顔をうかがっている。
見晴らしなんて、本当はどうでもいいのだ。ただ、わかばの隣に立ちたかった。そのために、ありもしない用事をひねり出した。健気な、というより、もはや涙ぐましい努力だった。
俺は、居間からその背中を見ていた。
がんばれ。心の中で声をかけた。同じ、わかばに振り回される者として、妙な連帯感までわいてきていた。お前の戦いは、果てしなく不毛だが、その気持ちだけは本物だ。
そのとき、だった。
タイガは、抱えていたボールを、ためしに手すりの上にのせた。両手で押さえながら。たぶん無意識に、隣のわかばに見せたかったのだろう。
その瞬間、わかばがぼそっと言った。
「タイガ。手、汗くさい」
タイガが、ぐえ、と声をもらした。両手が、跳ねた。
ボールは、ぽーん、と手すりを越えた。
五階から、まっさかさまに落ちていく。下の植え込みのあたりで、ぼすっ、とにぶい音がした。
「あー!」
タイガが、悲鳴を上げた。プロも使っている、自慢のボールだ。それが、ベランダの向こうに消えていった。
「と、取ってくる!」
タイガが玄関に走ろうとした。
その肩を、わかばの声が引き止めた。
「タイガ。待って」
わかばの目の奥に、明かりが灯った。すっと細められた瞳の奥で、あのキラーンが光っている。
俺は、嫌な予感がした。この目は、恋する少年に向ける目では、断じてない。獲物を見つけた目だ。
わかばは、ためにゃんの電卓を、すっと構えた。
「いま、ボール、五階から、落ちた」
「う、うん」
「五階の高さ。けっこう、ある。取りに行くの、大変」
「だ、大丈夫! 俺が、行くから!」
「ちがう。わたしが、取ってあげる。重力ビジネス」
「じゅう……りょく?」
タイガが、きょとんとした。
わかばは、ぼーっとした顔のまま、電卓を、ぺた、ぺた、と叩いた。液晶に、数字が浮かぶ。後ろの「YEN」の表示が、誇らしげに光っていた。
「物は、上から下に、落ちる。重力のせい。落ちた物を、下から上に、運ぶのは、重力に逆らうこと。すごく、大変。だから、重力に逆らい料が、かかる」
「な、なるほど?」
「五階ぶんの、重力。一回、二百円」
俺は、口を挟みたくなった。
待て。理屈が、無茶苦茶だ。だいたい、タイガは「自分で取りに行く」と言っているんだ。わかばが取りに行く必要は、どこにもない。なのに、なぜ、二百円を払う流れになっている。
だが、タイガの反応は、俺の予想とまるでちがった。
「払う! 二百円、払う!」
即決だった。
タイガは目を輝かせて、ポケットの中を探っていた。むしろ、嬉しそうだった。
なぜだ、と思ったが、すぐにわかった。
タイガはポケットに両手を突っ込んだ。出てきたのは、百円玉が二枚。汗でぬるくなったやつを、まるで宝物のように、わかばの手のひらにのせた。
わかばは、二百円を受け取ると、のそのそと階段を下りていった。そして、植え込みからボールを拾って、また五階まで上ってきた。省エネ主義者にしては、めずらしく働いた。重力ビジネス、初契約成立、というわけだ。
「はい。ボール」
「あ、ありがとう! わかばちゃん!」
タイガはボールを受け取って、満面の笑みだった。たった今、二百円をわけのわからない理屈で巻き上げられたばかりだというのに、この世の幸せをすべて手に入れたような顔をしている。
俺は、もう何も言えなかった。
これは、搾取なのか、両者が満足している、健全な取引なのか。わからなくなってきた。わかばは、二百円を得た。タイガは、わかばと関わる時間を得た。需要と供給が、奇跡的に噛み合っている。世界一不毛で、世界一幸せな市場が、五階のベランダに成立していた。
取引は、双方が得をするから成立する。タイガは、損をしていない。本人が満足している。これを、外野が「搾取だ」と断じる権利はない。(ただ、その二百円の裏に、片思いという目に見えない原価がかかっていることは、本人しか知らない。)
タイガは、上機嫌で帰っていった。帰り際、何度も何度も振り返って、わかばに手を振っていた。わかばは、振り返さなかった。電卓で、今日の売上を集計するのに忙しかったからだ。
「なあ、わかば」
俺は、つい聞いてしまった。
「あいつ、たぶん、おまえのこと、好きだぞ」
わかばは、電卓から顔を上げて、きょとんとした。
そして、しばらく考えてから言った。
「あおちゃん。それ、知ってる」
「は? 知ってて、あの対応か」
「うん。タイガは、わたしのこと、好き。だから、いいお客さま」
知っていた。
知っていて、客として扱っていた。
俺の半信半疑は、ここで答えが出た。タイガの初恋は、本物だった。そして、それを誰よりも先に見抜いていたのは、隣に立って耳すら見ていなかった、こいつだった。
こいつの辞書では、好意も、結局お金に換算されるらしい。
「あおちゃん。タイガ、また来る。次は、もっと高い料金、考えとく」
「やめてやれよ。あいつの小遣いが、なくなるだろ」
「だいじょうぶ。タイガは、よろこんで払う」
「だいじょうぶじゃない。だいじょうぶ、っていう、おまえの根拠を、教えろ」
「好きな子のためなら、男の子は、財布のひもがゆるくなる。お父さんが、言ってた」
どこで、そんな知恵を仕入れてくるんだ。たぶん、父さんのしょうもない実体験だろう。
「いいから、足元を見るな。タイガが、かわいそうだろ」
わかばは、ためにゃんの電卓を、いちどテーブルに置いた。
「足元じゃない」
顔を上げて、ぼーっとした目で、こっちを見た。
「気持ちを、見てる」
なお、たちが悪かった。
それにしても、と思う。タイガはこれから、わかばと関わるたびに、料金を払い続けるのだろう。好きな子に会うのに、入場料がいる。世にも世知辛い、初恋だ。だが、当の本人がそれで幸せなら、俺が口を出すことではない。
俺はため息をついて、冷蔵庫からコーラを取り出した。よく冷えた、いつものやつだ。
ぷしゅ、と栓を開ける。
五階のベランダでは、今日も、重力と初恋が、二百円で取引されていた。
第十三話 了




