12.5話「じいちゃんの届けものと、名前入りのためにゃん」
じいちゃんが、紙袋を提げて、玄関に現れたのは、よく晴れた、土曜の午前だった。
夏の暑さは、もう、すっかり引いている。玄関のドアを開けると、ひんやりした風と一緒に、商店街のほうから、夕方の総菜屋の匂いが、流れてきた。季節が、変わったらしい。
じいちゃんは、すぐ近所に住んでいる。同じすずらん団地前の、商店街の、奥のほうだ。歩いて、五分もかからない。だから、こうして、ふらりと、何かを届けに来ることが、たまに、ある。
「あおば。これ、わかばに、渡しといてくれ」
じいちゃんは、紺の作務衣に、下駄ばき。脇に、丸めた朝日新聞をはさんでいる。紙袋を、俺に押しつけると、もう、踵を返していた。
「じいちゃん、上がっていけば」
「いや、これから、碁会所で、約束があってな」
そう言って、じいちゃんは、下駄を鳴らして、さっさと帰っていった。用件だけ済ませて、長居はしない。昔から、そういう人だ。(孫にものを渡すときだけ、妙に、足が速い。照れ隠しなのは、たぶん、見え見えだった。)
受け取った紙袋は、妙に、軽かった。商店街の総菜でも入っているのかと思ったが、油の匂いは、しない。中をのぞくと、新聞紙の包みが、二つと、折りたたんだ紙が、一枚。
わかばを、呼ぶ。
「わかば。じいちゃんが、これ、置いてったぞ」
居間で、ぼーっとテレビを見ていたわかばが、その一言で、すっ、と、立ち上がった。
じいちゃん、という単語に、こいつは、めっぽう弱い。普段、家族すら金づるとしか見ていないようなやつが、じいちゃんの話になると、急に、年相応の、小学四年生の顔に、なる。
理由は、なんとなく、わかる。じいちゃんは、わかばに、見返りを求めない、数少ない人間だ。会えば、ただ、にこにこして、千円札を、ドヤ顔で握らせてくる。料金表も、手数料も、そこには、ない。一方的に、与えてくれる。そういう相手は、この子の世界に、ほとんど、存在しない。
わかばは、ちゃぶ台の前に、ぺたりと座った。折りたたんだ紙を、先に、開く。商店街の、店の名前が刷られたメモ用紙の裏に、見覚えのある、じいちゃんの字が、並んでいた。お世辞にも、達者とは言えない。線が、震えていて、漢字も、ところどころ、間違っている。その場で、立ったまま、走り書きしたような字だ。だが、その不格好な字を見ると、なぜか、胸の奥が、温かくなる。
『わかばへ
このまえ、ためにゃん、というのが、すきだと、いっていたな。
じいちゃんは、ためにゃんを、しらなかったから、まるやまの、おやじに、ききながら、えらんだ。しんせつに、おしえてくれた。
なまえも、いれてもらった。
たくさん、ためなさい。
じいちゃんより』
俺は、その手紙を読んで、少し、笑ってしまった。
このあいだ、わかばが「ためにゃんが好き」と言ったのを、じいちゃんは、覚えていたのだ。そして、ためにゃんが何かも知らないまま、商店街のおもちゃ屋まるやまで、店主に聞きながら、選んでくれた。作務衣に下駄ばきの六十八歳が、あの、虚無ガチャを置いている、いかがわしい店先で、店主に「ためにゃんは、どれだね」と尋ねる姿を想像すると、なんとも言えない、おかしさと、あたたかさが、こみ上げてくる。
わかばは、手紙を、じっと、読んでいた。
それから、新聞紙の包みを、ひとつ、開けた。
中から出てきたのは、電卓だった。
ただし、いつもの、味気ない電卓では、ない。
猫の、形を、していた。上半分が、クリーム色の、ためにゃんの顔。眠そうな半目に、白いマズル、ほっぺに、赤いチーク。下半分のボタンは、赤い布地のような質感で、数字のキーが、ぽつぽつ、並んでいる。
液晶を見ると、数字のうしろに、小さく「YEN」と、表示が出る仕様らしい。「AC」のボタンは、赤いがま口の形。横には、肉球の形をしたチャームが、ボールチェーンで、ぶら下がっている。
本物の、ためにゃんの、公式電卓だった。
わかばが、いつも使っていたのは、ただの電卓に、ためにゃんのシールを貼った、自家製のやつだ。シールは、もう、端が、めくれかけていた。それと比べると、これは、もう、別格だった。手に持つと、ずしりと、しっかりした重みがある。作りが、ちゃんと、している。(虚無ガチャの石も、妙に重かったが、これは、重みの種類が、まるでちがう。)
わかばは、その電卓を、両手で、持ったまま、固まっていた。
「……すごい」
ぽつりと、言った。
声が、いつもと、ちがった。料金を打ち込むときの、抜け目のない声では、ない。ただ、純粋に、感動している、子どもの声だった。
もうひとつの包みを、開ける。
中から出てきたのは、がま口だった。これも、ためにゃんの形をしている。クリーム色の、ふっくらした猫の本体。その口の部分が、赤い布地の、がま口になっていて、金色の口金が、ついている。頭のてっぺんにも、小さな口金の収納があって、留め具が、魚の骨の形をしていた。編み込みのストラップに、ためにゃんの顔の、根付。
電卓と、おそろいの、デザインだった。
わかばは、がま口を、ひっくり返した。底の部分に、タグが、縫いつけてある。それから、電卓も、裏返した。
電卓の、底。
そこに、彫り込むように、こう、書いてあった。
『PROPERTY OF わかば』
わかばの、名前が、入っていた。
「……なまえ」
わかばが、その三文字を、指で、そっと、なぞった。
じいちゃんは、手紙に書いていた。「なまえも、いれてもらった」と。わざわざ、名入れを、頼んだのだ。世界に、ひとつだけの、わかば専用のためにゃん。量産品では、ない。じいちゃんが、孫のために、誂えた、特別な一台だった。(名入れは、たいてい、別料金だ。じいちゃんは、その追加料金を、迷わず払ったのだろう。)
わかばは、しばらく、その三文字を、なぞり続けていた。普段、人の財布から一円でも多く取ろうとする指が、今は、自分の名前を、ただ、そっと、確かめている。
俺は、横で、その様子を、見ていた。
そして、不思議な気持ちに、なった。
このわかばは、いつも、あらゆるものに、値段をつける。麦茶にも、リモコンにも、俺の抜け毛にすら、価格を設定する、筋金入りの守銭奴だ。世の中のすべては、金に換算できる、と信じて疑わない。
だが、今、こいつの手の中にあるものには、たぶん、値段が、つけられない。
いくら、と聞かれても、わかばは、答えられないだろう。これは、虚無ガチャの石とは、ちがう。一万円積んでも出なかった、金ピカのためにゃんとも、ちがう。市場価格も、原価も、関係ない。価値の根拠が、金額では、説明できない領域にある。
じいちゃんが、孫の何気ない一言を覚えていて、いつものおもちゃ屋で、慣れない買い物をして、わざわざ名入れまで頼んで、届けに来てくれた。その手間と、時間と、気持ち。それらは、値札には、書けない。お金で買えないものが、この世にあることを、守銭奴のこいつが、今、自分の手の中で、思い知っている。
「あおちゃん」
わかばが、電卓を、大事そうに、抱えたまま、こちらを見た。
「これ、いくらだと、思う?」
「は? いや、値段なんて、わからんよ」
「うん。わたしも、わからない」
わかばは、ぼーっとした顔のまま、でも、どこか、嬉しそうに、言った。
「じいちゃんの、これは……ねだんが、つけられない」
俺は、ちょっと、驚いた。
あの、何にでも値札をつける妹が、「値段がつけられない」と、言った。それは、こいつにとって、最上級の、賛辞なのかもしれない。金額に換算できないほど、価値がある。守銭奴の語彙で、それ以上の、褒め言葉は、ない。
その日から、わかばは、その公式電卓と、がま口を、使うようになった。
自家製のシール電卓は、引き出しに、しまわれた。捨てては、いない。ちゃんと、とってある。そのあたりに、こいつの、妙なところでの、律儀さが、出ている。
「それ、もう、使わないのか」
俺が聞くと、わかばは、首を、横に振った。
「とっておく。最初の、相棒だから」
「相棒って……ただの、シールだろ」
「ちがう。いっしょに、いっぱい、あおちゃんから、取り立てた、相棒」
いい話のように言っているが、要するに、俺から金をむしり取った、共犯者への、感傷だった。涙ぐむところでは、断じて、ない。
俺は、ひとつ、気になったことを、聞いてみた。
「じいちゃんに、お礼、しなくていいのか」
「する。あとで、碁会所、行く」
「わざわざ、行くのか」
「うん。ちゃんと、顔みて、言う」
わかばは、めずらしく、少し、もじもじ、していた。お礼の言葉を、どう言えばいいか、考えているらしい。料金表は、すらすら書くくせに、感謝を伝えるのは、苦手なのだ。そういうところは、まだ、十歳の子どもだった。
夕方、わかばは、ほんとうに、商店街の碁会所まで、てくてく歩いて、じいちゃんに、会いに行った。俺も、なんとなく、後ろから、ついていった。
碁盤を囲むじいちゃんの背中に、わかばは、ぽつりと、声をかけた。
「じいちゃん。ためにゃんの、ありがとう。すごく、うれしい。だいじに、する」
たどたどしい、お礼だった。じいちゃんは、振り返らずに、片手を、ひらひら、振っただけだった。照れているのは、丸めた背中で、わかった。
普段、俺から一円でも多く搾り取ろうとする、あの妹が、じいちゃんには、ただ、まっすぐな「ありがとう」を、伝えている。値段も、手数料も、オプションも、つかない、ただの、感謝だった。
たまには、こういうのも、悪くない。
帰り道。わかばが、こちらを、見上げた。手には、もらったばかりの、公式電卓。
そして、その目の奥に、見慣れた明かりが、ぽっと、灯った。じいちゃんの前では、あれほど素直だった瞳に、いつものキラーンが、戻ってきている。
ぺた、ぺた、と、何かを、打ち込んで、液晶を、こちらに、向けた。
『500 YEN』
「……なんだ、これ」
「あおちゃんが、さっき、わたしが、じいちゃんにお礼してるの、こっそり、聞いてた。盗み聞き料」
値段の、つけられない宝物。その記念すべき初仕事が、兄からの、五百円の徴収だった。
やっぱり、こいつは、こいつだ。
第十二・五話 了




