第12話「3階の常識人と、コンプライアンス顧問料」
わかばに、友達がいたという事実が、まず、意外だった。
その子は、つむぎ、といった。同じすずらん団地の、三階に住んでいる、わかばの同級生だ。三つ編みに、赤いリボン。丸い眼鏡。いかにも、しっかり者、という見た目で、実際、しっかり者だった。むしろ、しっかりしすぎていた。(同じ小学四年生でも、わが家の妹とは、育ちの真面目さが、根本からちがう。)
その日、つむぎは、ピアノ教室の帰りに、うちへ寄ったらしい。手提げから、楽譜の角が、のぞいている。わかばと、宿題か何かを、するつもりだったのだろう。
わかばに、こんな真面目そうな友達がいたことに、俺は、軽く、驚いていた。てっきり、こいつの交友関係は、電卓と、ためにゃんで、完結しているものと思っていた。
だが、玄関を上がって、居間のちゃぶ台を見た瞬間、つむぎの動きが、止まった。
ちゃぶ台の上には、わかばの「料金表」が、何枚も、広げてあった。麦茶サブスク。窓際特等席。リモコン・レンタル料。この夏、こいつが俺から巻き上げるために作った、数々の品書きだ。
つむぎは、丸眼鏡の奥の目を、見開いた。
「……わかばちゃん。これ、なに」
「お仕事の、料金表」
「お仕事?」
「うん。あおちゃんから、お金を、もらうための」
つむぎは、一枚ずつ、料金表を、手に取って読んでいった。読むほどに、その眉が、吊り上がっていく。麦茶一杯八十円。窓際に座るだけで八十円。文句を言えば五十円。一枚めくるごとに、丸眼鏡の奥の良心が、悲鳴を上げているのが、見ていてわかった。
やがて、つむぎは、料金表をちゃぶ台に置くと、きっと、わかばを見据えた。
「わかばちゃん。これ、ぜんぶ、だめだよ」
おお、と、俺は、心の中で、声を上げた。
まともな子だ。ようやく、この家に、まともな感覚の人間が、現れた。料金表を見て「だめ」と言える、健全な良心。俺がこの夏、ずっと言いたくても、力及ばず言えなかったことを、この小さな常識人が、はっきりと、口にしてくれた。
思えば、俺は、いつも、わかばに言い負かされてきた。理屈で攻めても、屁理屈で返され、最後は財布を開かされる。だが、つむぎは、ちがう。同じ小学四年生として、対等に、真正面から「だめ」と言える。同世代の良心。これは、もしかすると、我が家にとって、革命のはじまりかもしれない。
「お兄さんから、お金を取るなんて、おかしいよ。家族でしょ。それに、この『反論オプション五十円』とか、ぜったい、よくないやつだよ。こういうの、コンプライアンス違反、っていうの」
「こんぷらいあんす?」
「うちのお父さんが、よく言ってる。会社で、ずるいことしちゃいけない、っていう、ルール。わかばちゃんのこれ、ぜんぶ、ずるい」
俺は、感動していた。
つむぎという子は、正しい。正しすぎる。小学四年生で、コンプライアンスという言葉を、正しい文脈で使える。しかも、それを、たじろぐことなく、わかば本人に、突きつけている。この子がいれば、我が家の異常な経済は、是正されるかもしれない。救世主が、三階から、やってきた。
わかばは、ぼーっとした顔のまま、つむぎの話を、最後まで、聞いていた。
そして、ぽつりと、言った。
「つむぎちゃん。くわしいね」
「うん。お父さんが、会社で、その係だから」
「じゃあ」
わかばの目の奥に、明かりが、灯った。お金の匂い――いや、今回は、もっと上等な獲物の匂いを、嗅ぎつけた目だ。あのキラーンが、すっ、と細めた目の奥で、静かに光っている。
その瞬間、俺は、ぞっとした。
この目を、俺は、知っている。獲物を、見定める目だ。だが、今、ちゃぶ台の向こうにいるのは、俺ではない。料金表を「だめ」と断じた、正義の側のはずの、つむぎだった。
「つむぎちゃんを、顧問に、やといます」
「……え?」
「コンプライアンス顧問。わたしの料金表が、ちゃんとしてるか、チェックする、お仕事」
つむぎは、丸眼鏡の奥で、目を、ぱちぱち、させた。
「で、でも、わたしは、こういうの、よくないって……」
「だから。よくないところを、つむぎちゃんが、見つけて、教えてくれる。そしたら、わたしは、直せる。お仕事として、お願い、したい」
俺は、口を、挟みたくなった。
待て。それは、おかしい。つむぎは、おまえの商売そのものを「だめだ」と言っているんだ。一部を直す、という話じゃない。全部、やめろ、と言っているんだ。顧問にやとうとか、そういう次元の話じゃない――。
だが、つむぎは、わかばの提案に、わずかに、揺らいだ。
「お、お仕事……ちゃんと、直してくれるなら……」
「うん。顧問料、払います」
顧問料、という言葉に、つむぎの眉が、ぴくり、と動いた。
「顧問料?」
「うん。つむぎちゃんに、お給料。チェック一回につき、五十円」
俺は、頭を抱えた。
こいつは、自分の商売を批判する人間を、黙らせるのではなく、雇った。批判を、仕事に、変えてしまった。つむぎは、これからお金をもらって、わかばの料金表を、チェックする。お金をもらう以上、つむぎは、もう、わかばの「側」の人間だ。
正義は、買収された。五十円で。
「五十円……」
つむぎが、ごくり、と、唾を飲んだ。ピアノ教室の帰りの、小学四年生だ。五十円は、決して、小さな額ではない。駄菓子なら、いくつか買える。その誘惑と、正義感とが、丸眼鏡の奥で、火花を散らしている。
「ま、待って。お給料、もらっちゃったら、わたし……」
つむぎは、自分の立場が、じわじわと、変わっていくのに、気づき始めていた。さっきまで、料金表を「だめ」と言える、外側の人間だった。だが、顧問料を受け取った瞬間、自分も、この経済圏の、一員になる。
「つむぎちゃん。最初の、お仕事」
わかばは、一枚の料金表を、すっと、差し出した。
「この『反論オプション五十円』。これ、コンプライアンス的に、どう?」
つむぎは、その紙を、こわごわ、受け取った。丸眼鏡の奥の目が、必死に、考えている。雇われた手前、何か、それらしい意見を、言わなければならない。常識人としての矜持と、五十円の顧問料が、小さな胸の中で、せめぎ合っていた。
本当は、こう言いたいはずだ。「こんなもの、ぜんぶ、なくせばいい」と。それが、唯一の、正しい答えだ。だが、その正解を口にした瞬間、顧問の仕事は、消える。五十円も、消える。正しさを貫けば、無職。妥協すれば、五十円。大人でも、悩む選択を、小学四年生が、ちゃぶ台の前で、迫られていた。
「……えっと。これは……『反論』だと、強引、だから……『ご意見うけたまわり料』に、すれば……やわらかい、印象に……」
「なるほど。さすが、顧問」
わかばは、感心したように、うなずいた。そして、料金表の「反論オプション」の文字を、消して、「ご意見うけたまわり料」と、書き直した。
値段は、五十円のまま、だった。
「おい、待て」
さすがに、俺は、口を挟んだ。
「あおちゃん、なに?」
「名前を変えただけで、中身は同じだろうが。客が文句を言ったら金を取る。その本質は、何も変わってない」
「でも、印象は、やわらかくなった。顧問の、おかげ」
「印象の問題じゃない!」
俺の抗議は、例によって、宙に消えた。(この家で、俺の正論が通った試しは、一度もない。)
俺は、天を仰いだ。
何も、変わっていない。やっていることは、まったく同じだ。客が文句を言うと、五十円取られる。その本質は、一ミリも、是正されていない。ただ、名前が、やわらかくなっただけだ。つむぎの「改善案」は、わかばの搾取に、上品な言葉の衣を、着せただけだった。
これが、コンプライアンスか。
世の中の、コンプライアンスというものが、もし、これと同じなら――いや、考えるのを、やめよう。夢が、なくなる。(世のニュースで聞く「再発防止に努めます」も、こういう仕組みなのかもしれない、と思うと、夜も眠れなくなる。)
つむぎは、五十円玉を、握りしめていた。生まれて初めての、お給料だ。その顔には、罪悪感と、ほんの少しの、達成感が、混じっていた。自分の意見が、採用された。プロとして、認められた。たとえ、それが、搾取の片棒だとしても。
「つむぎちゃん。これからも、よろしく」
「……う、うん。よろしく、おねがいします」
常識人が、一人、堕ちた瞬間だった。
三階から救世主がやってくる、という俺の希望は、わずか五十円で、買い取られた。つむぎは、もう、わかばの顧問だ。次にこの子が口を開くとき、その言葉には、五十円の値札が、ぶら下がっている。
考えてみれば、これは、恐ろしく頭のいい一手だった。批判する者を、力で黙らせれば、恨みが残る。だが、雇ってしまえば、批判は「業務」になり、相手は「身内」になる。もっとも手強い反対者を、もっとも忠実な協力者に、変えてしまう。わかばは、それを、本能で、やってのけた。小学四年生が、組織防衛の極意を、知っている。
帰り際、つむぎは、玄関で、俺に、ぺこりと、頭を下げた。
「お兄さん。あの、わたし……ちゃんと、わかばちゃんのこと、見張りますから」
いい子だ。まだ、良心は、残っている。見張る、という言葉に、せめてもの、抵抗が、にじんでいた。
だが、わかばが、その背中に、追い打ちを、かけた。
「つむぎちゃん。見張るのも、お仕事だから。一日、五十円ね」
つむぎの良心にすら、日当が、つけられた。
俺は、もう、何も言わなかった。代わりに、冷蔵庫から、コーラを取り出した。よく冷えた、いつものやつだ。せめて、これくらいは、自由に飲ませてほしい。
ぷしゅ、と、栓を開ける。冷えた炭酸が、しゅわりと、喉を刺した。
我が家の経済圏は、また一人、住人を増やした。三階の常識人を、丸ごと、飲み込んで。
第十二話 了




