第16話:理論の空白(ロジック・ギャップ)
■ 凱旋の暗転
アトラの外縁、廃坑。
そこには、かつて岩塊魔獣と呼ばれた巨躯の、無残な「消失」があった。
「……あ、……アライメント、誤差0.02。……これなら、……いける。……これなら、神の理を、僕たちが書き換えられる……」
テオは、煤と排熱の蒸気で汚れた右腕の固定条軌を、震える指で愛おしそうに撫でた。深淵銀の芯を通したその兵装は、もはや単なる武器ではない。神が定めた世界の仕様書に対する、宣戦布告のペンだ。
リネルもまた、漆黒の輝きを増した剣を音もなく鞘に納め、その口元に微かな、しかし狂気を含んだ笑みを浮かべている。テオの理論が実行されるたび、彼女の認識は心地よく塗り替えられていく。
「ええ、テオ。世界が、少しだけ『薄く』なった気がするわ。私が剣を振るう場所に、神の加護なんて入り込む隙間もないほどにね」
「がはは! 見たかい、アタシの打った芯の響きを! あれこそが鉄の真実、神様が隠したがった本物の力だよ。さあ、坊や、リネル。早く戻って祝杯といこうじゃないか!」
ガネットは巨大な槌を肩に担ぎ、鼻歌を歌いながら丘を越える。
だが、四人が自由都市アトラを見下ろしたその瞬間、空気の温度が凍りついた。
目に飛び込んできたのは、凱旋を祝う光景ではない。
空を覆う灰色の雲を突き破るように立ち上る、幾条もの黒煙。そして、街を包み込む不気味なほど「白い」炎だった。
「……あ、……アトラが……焼かれてる……?」
「嘘でしょ……。ここが、神の監視が届かないはずの、自由都市……なのよ?」
リネルの声が震える。アトラの入り口、そこには翻る旗があった。白地に黄金の瞳――教皇庁直属部隊『真理の眼』の紋章。
「……そ、そんな、バカな……っ!」
ガネットが、喉を鳴らしながら駆け出した。テオたちもその後を追う。
■ 不浄なる街のデバッグ
街の中は、冷徹な「掃除」の風景に塗り替えられていた。
白装束を纏った魔導師たちが、逃げ惑う住人たちを家畜のように追い詰め、機械的に杖を振り上げている。
「神の仕様書を汚す不浄なる街よ。土へと還り、主の静寂に身を委ねるがいい」
「バグは一つ残らず消去せねばならん。それが、この世界を美しく保つための唯一の慈悲だ」
魔導師たちが紡ぐ「15音」の聖歌。
テオの目が、無残に倒れ伏す見知った住人たちを捉えた。
そして。
「……あ、……あぁぁぁ……!!」
ガネットが絶叫した。
彼女のすべてであり、テオたちが武器を鍛え上げた城――工房『鉄の揺りかご』が、聖なる炎に包まれ、轟々と音を立てて崩れ落ちていた。
「やめろ……ッ! やめろぉぉぉ!!」
ガネットの慟哭が、戦火のアトラに虚しく響く。
その叫びを聞きつけ、十数人の魔導師たちが四人を包囲した。
「ほう。逃げ遅れたバグ、いや、報告にあった『異端者』か。……安心しろ。主の名において、すぐに浄化してやる」
魔導師たちが一斉に杖を向け、複雑な魔力術式を組み上げようとした、その時。
■ 怒りの初弾
「……リ、……リネルさん。……もう、……いいですよね」
テオの瞳から温度が消えた。
彼らが紡ぐ15音の詠唱、その非効率なエネルギー循環、無駄な圧力分散の仕組み――そのすべてが、今のテオには「隙」にしか見えない。
「ええ、テオ。……彼らの言う『ノイズ』がどちらなのか、身体に刻んであげましょう」
リネルが漆黒の剣を抜くと同時に、地を蹴った。
魔導師たちが最初の数音を唱えるより先に、1音――空気を切り裂く真空の刃が、空間ごと魔導師たちを五人まとめて凪ぎ払う。深淵銀の芯が、リネルの魔力を一滴の漏れもなく「切断」の概念へと変換していた。防御魔法を張る暇さえ与えず、ただの鉄塊が「存在の消失」を叩き込んだのだ。
「『火!』」
テオが右腕を掲げる。
深淵銀の薬室の中で、一音により極限まで圧縮された魔力が物理的な爆圧へと変換される。バレルの魔法陣を纏い、超音速で射出されたのは魔法の火球ではない。物理法則を無理やり上書きして進む「死の質量」だ。
ドォォォォォン!!
凄まじい衝撃波がアトラの街路を揺らし、立ち並ぶ家屋の窓ガラスが木っ端微塵に砕け散る。
一撃。ただの一撃で、通りの魔導師たちがその装備ごと「消滅」した。深淵銀の芯による極限の伝導効率は、神が設定した既存の魔法防御を紙屑のように貫通し、対象を分子レベルで蒸発させたのだ。
「……あ、……ありえ……っ!? 詠唱が、1音……だと!? ぐぁっ!!」
生き残った魔導師が恐怖に顔を歪めるが、次の瞬間にはリネルの刃がその喉を音もなく断っていた。
■ 傲慢なる末席と、未知の振動
「……おやおや。アルベルト君、君が言っていた『不浄の音』というのは、あの子たちのことかな?」
瓦礫の山を越えて、一人の男が歩み寄ってきた。
洗練された純白の法衣、整えられた金髪、そして慈悲深い聖者のような笑みを浮かべた男――真理の眼、末席クレメント。
その隣には、憎悪の炎を宿したアルベルトが影のように寄り添っている。
「……クレメント様。あれです。あの変な右腕の少年が、……世界の理を汚した元凶です」
クレメントはアルベルトを顧みることなく、テオを見つめた。
テオは眼鏡を指で押し上げ、クレメントの魔力回路を読み取ろうとした。だが。
「……? ……魔力が、……揺れて……る?」
テオが感じたのは、クレメントの体内を巡る魔力が、ただ流れるのではなく、まるで弦楽器の弦が弾かれたあとのように、超高速で「震えて」いた。
――キィィィィィィン。
「……っ!? ……が、はっ……」
突如、テオの耳元を不快なモスキート音がかすめた。
それと同時に、衝撃。テオの左肩が、見えない巨大な杭に打たれたように弾かれた。
詠唱が、聞こえなかった。魔力の予備動作が感じられなかった。ただ現象だけが、そこにあった。
「……え、詠唱が……ない……?」
「無詠唱? ……フッ、君は根本的に勘違いしているようだね。神の15音を省略するなど、傲慢な罪人のすることだ。……私はただ、君よりも深く、神の調べに心を委ねているだけだよ」
クレメントは微笑む。
テオにはわからなかった。自分の理論では、1音が最短・最速のはず。だが、クレメントが魔法を発動する直前、世界に確実な「違和感」が生じている。あの耳障りな高音、そして魔力の異常な振動。
今のテオのロジックでは、その正体を定義できない。
「テオ! 退がって!」
リネルが割って入る。漆黒の刃で強襲するが、クレメントはただ「祈りを捧げる」ような動作だけで、リネルの速度を上回る魔法を多重展開した。
ドン! ドン! ドン! と、リネルの身体に連続して不可視の打撃が叩き込まれる。
「……くっ、……あ、……あぁぁ!」
リネルさえも圧倒される。テオの目には、クレメントの口が「微かに震えている」ようにしか見えない。
1音を出す間に、相手は15音を「奏で終えて」いる。いや、奏でていることすら、今のテオには「観測」できないのだ。
■ 屈辱の撤退
「……あ、……あぁ……! 右腕の、……ボルトが……」
深淵銀の芯と薬室は、確かに頑丈だった。クレメントの苛烈な連撃を受けても、内部構造は歪み一つない。
だが、それを支える既存のフレーム、接合部のボルトが耐えられなかった。芯が強すぎるゆえに、逃げ場のない衝撃が周辺パーツを内側から破壊していく。強靭な背骨に対して、関節が追いついていないのだ。
「テオ! 今は退くわよ!」
「おや、逃げるのかい? それもまた、迷えるバグらしい惨めな挙動だ」
クレメントが追撃の魔法を練り上げる。その瞬間、ルミナスが数本のメスを投擲した。
「フッ、私の美しい退場を邪魔しないでくれたまえ」
メスが地面に突き刺さると同時に、超高濃度の麻酔煙幕が噴出した。
「ちっ、悪あがきを……」
「こっちだ、坊やたち! アタシの工房の地下通路へ来な!!」
ガネットがテオの襟首を掴み、燃え盛るアトラの路地裏へと引きずり込む。
四人の影は、白い炎の向こう側、地下の闇へと消えていった。
■ 闇の中のログ
アトラの地下、下水混じりの湿った空洞。
テオはボロボロになった、まだ名前さえない右腕の兵装を見つめていた。
「……負けた。……なにも、……できなかった……」
「テオ……」
リネルが心配そうに覗き込むが、テオの瞳には絶望よりも深い「未知」への焦燥が宿っていた。
「……あいつの、……魔力。……震えて、いた。……あの、……モスキート音……。……何かが、……僕の、……魔法の、……前提と、……違う……」
テオは震える手で、ひしゃげたボルトを拾い上げた。
薬室で圧縮した魔力が、深淵銀の芯を通る際、あまりの圧力と熱に周辺のボルトが「 砕けたのだ。出力はある。けれど、それを使いこなすための「器」が、圧倒的に足りない。
「……ガネットさん。……深淵銀の芯は、……大丈夫です。……でも、……周りが、……全部、……負けて……壊れた……」
「わかってるよ、坊や。……深淵銀が強すぎて、ただの鉄じゃ器にならないんだ。……圧縮した魔力を一滴も外に漏らさず閉じ込め、周辺パーツへの干渉をゼロにする……そんな、『魔力慣性ゼロの遮蔽材』でもなきゃ、次は腕ごと持っていかれるよ」
テオは暗闇の中で、破損した右腕を強く握りしめた。
15音を自分の理解できない「何か」で叩き込んでくる真理の眼。
それに勝つためには、今の装備を直すだけでは足りない。
「……か、改造……です。……もっと、……材料を、……集めて。……あいつの、……音を、……上回る……『何か』を……」
アトラの地下で、異端者たちはさらなる強欲を胸に抱いた。
神の理を物理でハックするための物語は、この敗北から真の加速を始める。
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