正体-4
「着きましたよ」
御者のその声で、わたしはぱちりと目を開ける。
小窓から外を覗くと、もう屋敷の門が見えていた。
……どうやら随分と長い間、眠ってしまっていたようね。おかげで、全身が気だるく重い。重力に負けそうになるのをぐっと堪えて、わたしは立ち上がった。
そして、馬車から降りると、見慣れた黒い髪が目に入る。あれは……
「──レイン!」
「おかえりなさいませ、アナスタシア様」
出迎えてくれた彼の元へと駆け寄ろうとして、足がもつれた。危ない、転ぶ──そう思った瞬間、倒れ込みそうになる身体を、力強い手が支える。
「大丈夫ですか?」
「あ、ありがとう……!」
顔を上げると、真っ赤な瞳と目が合った。
その瞬間、彼の動きが一瞬だけ止まる。
「…………アナスタシア?」
「え、なに?」
名前を呼ばれて、わたしは瞬きをした。しかし、彼はわたしの腕を掴んだまま、それ以上なにも言わない。
「レイン?」
問いかけるが、返事はない。
「えーっと、その……腕、離してくれる……?」
「……ああ、失礼しました」
そこでようやく手が離される。だけど、彼はどこか落ち着かない様子だ。
「ごめんね、履き慣れない靴だったから……」
「……履き慣れない?」
「うん。あと、馬車でずっと眠ちゃってて……ほら、寝起きの身体ってだるくて重いでしょ? それで、ついバランスを崩しちゃった」
「……ああ」
「え? 何か変だった?」
「いや……なんでもないですよ」
そう言うが、納得している様子ではなかった。視線がずっと、わたしのどこかを確かめるように彷徨っている。
一体、何が気になるというのだろう。
長く眠っていたせいで身体は重いし、この靴も初めて履くものだ。
わたしは何ひとつ、嘘なんてついていないのに。
「変なレイン」
くすりと笑って、わたしは彼の腕を掴んだ。
「ほら、はやく行きましょう」
「行くってどこへ、ですか?」
「もう忘れたの? 無事に帰ってきたら、お茶を淹れてくれるって約束でしょ」
途中、危ない瞬間もあったけど……わたしはちゃんと無事に帰ってきている。なのに、レインはわずかに目を見開いた。
「なに、その顔。ほら、怪我ひとつしてないでしょ?」
だから早く、と。
わたしは彼の手を引き、屋敷の中へと歩き出した。
「んー、いい匂い!」
湯気を立てる紅茶をひと口飲むと、思わず声が漏れた。
「やっぱり、レインが淹れてくれるお茶は美味しいねぇ」
カップを置いて、向かいを見る。
いつもなら隣に座っている彼は、今日はそこから動こうとしない。
「ねえ、レインってば……聞いてる?」
「……ああ、うん」
「絶対に聞いてないでしょ。……もう、レインってばどうしちゃったの? 帰ってきたときから、ずっと怖い顔してるし……まさか、わたしがいない間に誰かに虐められた?」
冗談混じりにそう言うが、彼は否定も肯定もしない。ただ、何かを確かめるようにわたしを見ているだけだ。
もしかして……体調でも悪い?
心配になって、彼の元へと向かう。見たところ熱はなさそうだが、それでも念のためにと、彼の額へ手を伸ばした。
──その瞬間だった。
伸ばした手首を、強い力で掴まれる。
「レイン……?」
驚いて目を見開くわたしを、彼は逃がさないように見つめていた。
やがて、その真っ赤な瞳が細く鋭くなる。
「……やっぱり、違う」
「え?」
「君は俺がよく知るアナスタシアじゃない」
突然のことで、声も出ない。だけど、彼は構わず言葉を続けた。
「その姿も声も、全部が同じに見えるけど、まったくの別人だ。君はアナスタシアじゃない」
「な、何を言ってるの……?」
わたしが、アナスタシアじゃない?
そんなことあるわけない。だって、もしそうなら、わたしは一体誰だというのか。
「わ、たし……私は、アナスタシアだよ?」
「……」
「ねえ、レイン……どうしちゃったの……?」
その瞬間、手首を掴んでいる力が強くなる。痛みに顔を顰めるが、彼はわたしの手を離さない。
「っ、」
いつもはまるで宝物に触れるかのような優しい手つきのくせに……まったく、跡でも残ったらどうするつもりなのかしら。
「おまえは誰だ。……アナスタシアを、彼女をどこへやった」
あの子にはしないであろう乱暴で低く冷たい言葉に、敵意がむき出しの視線。
それらすべてを見て、私は悟った。
──これ以上、彼を出すのは無理だ、と。
まったく、察しがいいというのも厄介なものね。
「……つまらないの」
小さく呟くと同時に、勢いよく彼の胸を押した。バランスを崩した男は、その場に倒れ込む。
そのまま男の上に跨ると、面白いぐらいに見開いた目が、私を見つめていた。
ふふふ、間抜けな顔。彼女にだって、押し倒されたことぐらいあるでしょうに。
私はゆっくりと、彼の首元へと指先を滑らせる。わずかに身じろぎをしたのを感じて、低く告げた。
「大人しくしてくれないと、貴方の大切な彼女が傷ついちゃうかも」
その言葉で、抵抗がぴたりと止まる。
「あはははっ、本当にあの子が大切なのねぇ」
されるがままの身体を見下ろしながら、私は息を吐く。
「たしかに私は、貴方のよく知るアナスタシアじゃない」
「……っ」
「でもね」
指先で、彼の顎に触れる。
「私が誰かなんて、おかしな話だと思わない?」
「……なに、いって」
「私こそが、アナスタシア・リヴィエールだというのに」
そう。この名前も、この身体も全部。私のものだった。それを突然に現れて、奪っていったのは、あの子の方だ。
そしていま、私は奪われていたものを取り返した。ただ、それだけのこと。
「だから、貴方はもうあの子には会えない」
「……は、」
唖然と私を見上げる男。
きっと、こんな日が来るなんて思いもしなかったのだろう。いつまでもあの日々が続くと、そう思っていたに違いない。……なんて愚かで滑稽なのかしら。
「だって、あの子はもうすぐ消えてなくなるのだから」
そう言って、あの子が天使のようだと褒めてくれた笑みを浮かべてみせる。
ああ、可哀想で可愛い私の従僕。
これからは、あの子の分も、私がたくさん壊してあげよう。
そして、あの子が、もっともっと深い絶望の闇へと堕ちていけるように、と。
私は彼の頬に手を寄せて、ぐっと顔を近づけた。
「なに、して……」
「その目、気に入らないわ」
「……は?」
「私、赤色って大嫌いなの」
赤色が大嫌い、昔から。だから、忌々しいぐらいに真っ赤なその瞳を見ていると、嫌な気分になる。
「それに顔も女の子みたいだし……」
「……っ」
「本当、趣味が悪くて嫌になっちゃう」
小馬鹿にするように言うと、目の前の顔がわずかに歪む。きっと、大好きなあの子のことを悪く言われて、腹が立っているのだろう。
だけど、彼は賢い。私の機嫌を損ねるとどうなるか分かっているからこそ、黙って大人しくしている。
まあ、そんな姿を見せられると、もっとひどいことをしたくなってしまうのだけど。
「……いい」
そんなことを考えていると、彼が静かに私の手に触れた。
「この目が、気に入らないなら潰せばいい。顔が気に入らないなら変えればいい。他にも全部、俺のことは好きにして構わないから」
「まあ」
「だから、彼女には……彼女だけには何もしないでくれ」
懇願するように、瞳が揺れている。
あの子を通して見ていた彼は、いつも余裕たっぷりだったのに。
今は弱々しく、ただ私に縋っている。
「……ふふ」
私は小さく笑った。
「素敵ね」
そんなにあの子が大切だなんて、少し妬けちゃうかも。……なんて、決して口には出さないけど。
「いいわ。貴方のその健気さに免じて、あの子には手を出さないであげる」
どのみち私が手を出さなくとも、あの子の魂は闇の中に堕ちたままでしょうし。
「だけど、口でいうのは簡単なこと。行動で示してもらわないと」
試すように言うと、彼はわずかに息を呑む。そして、自身の胸ポケットからナイフを取り出した。
「あら、随分と物騒なものを持ち歩いているのね」
内心では呆れながらも、これから先の展開に胸が高鳴る。そんな私を、彼は鋭く睨みつけていた。
「……約束、守れよ」
「ええ、もちろん」
そう言って、にっこりと微笑む。
すると、次の瞬間。
彼は自身の右目に向かって、何の躊躇いもなくナイフを振り下ろした。




