「知ってるよ。俺の婚約者でしょ?」――義母の襲来と、不器用な辺境伯の優しすぎる答え
その頃。
ウィンター領の伯爵邸では、前伯爵夫人ヘラの怒声が響き渡っていた。
「どういうことなのぉおおぉぉぉ!!!!???」
ヘラは王都から届いた暗号電報を、床へ叩きつけ、息切れしながらも睨みつける。
視線の先は、机の上の二通の知らせ。
1通は、王都の協力者から届いたものだった。
――ロビン・ブラックウッド辺境伯が、ウィンター領を暫定的に預かることになったことが、ブラックウッド家にも届いた。
――提出が遅れている帳簿と、生産状況について、徹底的な調査がせよと指令がくだった。
もう1通は、襲撃現場から逃げ延びた見張り役の報告書だ。
――エマ・ウィンターの連れ戻しは失敗。
――ブラックウッド辺境伯へ呪薬を使用するも、エマが身代わりとなって浴びた。
――実行役は数名拘束。エマはブラックウッド城へ運び込まれた。
「勅書が届く前に、あの男を消すはずだったのに……! あれほど高価な呪薬まで使って、何をしているのよ!」
ヘラが手近にあった花瓶を払い落とす。
甲高い音を立てて陶器が砕け、怯えた使用人たちが部屋の隅で悲鳴を上げた。
「お母様、どうしましょう……!」
義妹のエスターが、ドレスの裾を握り締めて青ざめる。
「もし、あの小娘がブラックウッド辺境伯に余計なことを吹き込んだら……」
「もう、あの娘は辺境伯の手の中にいるのね……」
ヘラは爪を噛み、ギリッと歯ぎしりをした。
「一刻も早く、あの二人を引き離さなくては」
「でも、よりによって、どうしてブラックウッド辺境伯なの……?」
ロビン・ブラックウッドは、ただの若き辺境伯ではない。
かつては国王直属の特務部隊に所属し、戦時中には敵地への潜入や破壊工作をいくつも成功させたという、血生臭い噂の絶えない男だ。
国王との繋がりも深く、ひとたび不正の疑いを持てば、相手が誰であろうと容赦しないと聞いている。
あの娘が何かを喋り、帳簿だけでなく、あの方の死にまで疑いを持たれたら――。
そこから国王の耳へ入れば、自分たちは完全に終わりだ。
「馬車を用意なさい。すぐにブラックウッド城へ向かうわよ」
「で、でも……どうやって言い訳をするの?」
ヘラは怯えるエスターの両肩を、強くつかんだ。
「ふ。泣けばいいのよ。エマは父親を亡くした悲しみで錯乱し、突然屋敷から姿を消したことにするの。あの娘が何を言っても、心を病んだせいで事実とは異なる妄想を口にしていると押し通せばいいわ」
エスターの顔が強張った。
だが、ヘラは構わず、その顎をつかんで持ち上げる。
「それとエスター。あなたがブラックウッド辺境伯と結婚するの」
「わ、私が?」
「そうよ。あの男をその美貌で誑かし、こちら側へ取り込んでしまいなさい。エマは当初の約束どおりヴェイン男爵へ引き渡す。そうすれば、私たちはこの領地も、鉱山も、莫大な富も、何一つ手放さずに済むわ」
追い詰められた獣のような光が、ヘラの瞳に宿っていた。
「ヴェイン男爵にも至急電報を打ちなさい」
ヘラは砕けた花瓶を踏みつけ、冷たい笑みを浮かべた。
「『あなたの花嫁が見つかった』と伝えるのよ」
◇◇◇
翌日。
エマはソワソワしながら、壁を蹴っては左右へ移動してみたり、天井を押しては戻され、悶々としながら過ごしていた。
ポケットの中には昨日したためたメモが入っている。あの地下牢の出来事のあと、ソワソワしてろくに眠れない夜を過ごし、結局浮きながら朝を迎えた。目にはくまができ、疲労感が漂っている。
(い、言わなきゃ……そして、呪いが治ったらすぐにここを出なきゃ。これ以上巻き込むわけには行かない……!)
「ハァッ! 鬱陶しい! なんなんですかさっきから!」
執務室でペンを走らせていたシリルが、耐えかねて叫んだ。
「ご、ごめんなさい! あ、ああのあのですね! 私の解呪薬っていつ頃…」
シリルは、あからさまにハァ!?と顔を顰めると、「見てくださいよこの有様を!?」と叫んだ。
そこには、帝都から届けられたウィンター領地の帳簿が山積みになっていて、シリルはその確認に追われていた。
「しかもウィンター領へ視察に行かないといけないですし!その合間に試作を進めるんですから、それなりにお時間かかりますからね! いやなら少しでも手伝ってくれてもかまいませんけど!?」
「ごごごごめんなさい! 手伝います!!」
エマは慌てて、天井を蹴った。
ゴン!!
「いた!! 何するんですか!」
リボンを掴んで着地……しようとしてシリルの額に頭を直撃したのだ。
「ごごごご!?」
「…何してるんだ。こっちへ来い」
ロビンが苛立ったように立ち上がってエマを回収すると、自分の膝の上に座らせて書類を見始めた。
「あああああああの、あのですね! 実はあのあの」
「んー?」
ロビンが書類から目を離さず生返事をした時だった。
コンコン!扉をノックして侍従が顔を出した。
「閣下! ヘラ・ウィンター様と、ご令嬢エスター様がお見えです」
バサバサばさッ!
エマの手から、書類が滑り落ち、床に散らばった。
…ヘラが来た。お義母様が。
頭の中が真っ白になる。ロビンの力強い腕がエマの腰を抱き留めた。
「部屋にいろ。いいな?」
耳元で囁かれたその声には、普段の気怠さも、冗談めかした甘さも欠片もなかった。
大通りで強盗を制圧したときと同じ、絶対的な強者としての低く冷たい声。
ロビンの青い瞳が、エマを真っ直ぐに見据えている。
(……気づいてる)
エマは悟った。
どこまで知っているのかは分からない。けれど、目の前のこの人は、何も知らない他人の顔などしていなかった。
言わなくちゃ……何もかも……!!!
ウィンターの家紋が出たあの日に、どうして本当のことを言わなかったのかと、怒られるだろうか。厄介ごとに巻き込んだと、愛想を尽かされるだろうか。
『出て行け』と……
……見捨てられるだろうか。
そこまで考えてエマの瞳に涙が浮かび始めた。
怖い。逃げたい。天井の奥深くへ隠れてしまいたい。けれどエマは、震える手でロビンの黒い軍服をぎゅっと握りしめ、踏みとどまった。
(あの二人の口からデタラメを吹き込まれて、ロビンさんに誤解されるくらいなら……!
それに、これ以上、黙ったまま彼を深い陰謀と危険に巻き込むわけにはいかない!)
エマはロビンの腕の中で、静かに、けれど強く決意を固めたのだった。
「……ロビンさん」
「何?」
軍服を握る手に、ぎゅっと力を込める。
「私、ずっと黙っていたことがあります」
「……」
「今まで騙していて、ごめんなさい。私の本当の名前は――」
そこまで言いかけて、エマはぎゅっと目を閉じた。
言わなきゃだめよ、エマ。そして心から謝るの。
エマがもう一度瞳を開けると、涙が一筋こぼれ落ちた。
「私は、エマ・ウィンターです」
告白の言葉は、静かな執務室に吸い込まれていった。
ロビンは少しの間だけ沈黙し、やがて、いつものようなふんわりとした、けれどどこか優しい笑みを浮かべた。
「知ってるよ」
「……え?」
「エマ・ウィンター。俺の婚約者でしょ?」
そう言って、涙を親指で拭ってやるその手はどこまでも優しかった。




