『つい』鼻を噛んだってどういうことですか辺境伯様!?」〜元軍人辺境伯の不器用な慰め方〜
急使がもたらした帝都からの勅書。
封を切ったシリルが、冷たく事務的な声でその内容を読み上げていく。
「――ウィンター伯爵の死後、唯一の正統後継者であるエマ・ウィンターは、半年間にわたり行方不明となっている。これにより領地運営とその報告に支障が出ているため、令嬢が発見されるまでの間、ロビン・ブラックウッド辺境伯がウィンター領を暫定的に預かるものとする」
エマの心臓が、ドクン、と嫌な音を立てた。
シリルは書類から目を離さず、淡々と続ける。
「なお、ロビン・ブラックウッドを指名する理由として、ウィンター領からの帳簿提出が半年以上遅滞していること。法律上、再婚相手のヘラ・ウィンター及びエスター・ウィンターは、実子がいる限り相続は出来ないことを伝えておく。辺境伯は、帳簿と領地の生産内容を含めてつぶさに調査せよ……とのことです」
勅書とともに届けられたのは、どしりと重い木箱だった。
財務院が保管していたという、過去五年分のウィンター領の納税帳簿と、生産報告書の写しがぎっしりと詰められている。
木箱を見たエマは、さぁっと顔面から血の気を失った。
(どうしよう……死んだ、じゃなくて見つかっていないことになってる。それに、帳簿の提出が遅れているなんて。お父様がご存命だった頃は、一度だって遅れたことなんかなかったのに。家令たちはどうしたのかしら)
動揺で固まるエマに、シリルがスッと眼鏡を押し上げ、鋭い視線を向けてきた。
「奇遇ですねぇ。行方不明になっているウィンター領の令嬢も、あなたと同じ『エマ』という名前らしいですよ?」
心臓が止まるかと思った。
エマは引きつった笑顔を浮かべ、必死に誤魔化そうとする。
「ほ、本当に奇遇ですね! でもエマなんてどこにでもいる村娘の名前ですし、あはは……!」
シリルが目を細め、さらに一歩踏み込もうとしたときだった。
「エマなんて珍しい名前じゃないでしょ。俺の婚約者を尋問しないでくれる?」
ロビンがエマの肩を抱き寄せ、シリルとの間にすっと入った。
その声はいつも通りの気怠げなものだったが、シリルはそれ以上口を開かず「……失礼しました」と引き下がった。
助け舟を出してくれたロビンの胸元で、エマは安堵と罪悪感で押し潰されそうになる。
「も、もし……」
「ん?」
「もし、その令嬢が見つかったら……お屋敷へ連れ戻すんですか?」
恐る恐る尋ねるエマに、ロビンは木箱の中の帳簿を手に取りながら、平然と答えた。
「名前まで捨てて逃げた人間を、逃げてきた場所へ無理やり戻す趣味はないよ」
「……!!」
ドキリとした。
まるで、すべてを知っているかのような言い方だ。けれど、ロビンの横顔はいつもと変わらない飄々としたもので、エマはそれ以上追及することができなかった。
エマは身体を浮かせてリボンに掴まりながら、ロビンの肩越しに木箱の中身を覗き込んだ。
何気なく開かれた報告書の数字が、エマの目に飛び込んでくる。
父の仕事を手伝い、常に帳簿を管理していた彼女の頭の中で、数字が瞬時に計算され、パズルのように組み合わさった。
「休山届……」
「え?」
「休山届が出ているのに……どうして、その後の運搬馬車の輸送費が増えているんだろう……?」
エマの無意識の呟きに、ロビンがピタリと手を止め、静かに顔を上げた。
真っ直ぐに射抜くような青い瞳。
「……分かるの?」
「えっ!? あ、いえ! パ、パン屋でも毎日帳簿をつけていましたから! 小麦粉の仕入れとか、そういうのと似てるなーって!」
慌てて空中で手をバタバタと振るエマを見て、ロビンは「ふうん」とだけ言い、それ以上は何も聞いてこなかった。
だが、ロビンは確かに記憶した。
エマには、領地の複雑な会計を読み解く力がある。
パン屋の娘を名乗るこの少女が、広大な領地の税収と鉱山の複雑な帳簿を、一瞬で読み解く能力を持っているということを。
◇◇◇
そのとき、静まり返っていた執務室の重厚な扉が慌ただしく叩かれ、ロビンは面倒くさそうにため息をついた。
「今度は何?」
「閣下。先日の襲撃で捕らえた男が、意識を取り戻しました」
扉を開けた兵士が、緊張で強張った面持ちで告げる。
「話せそう?」
「はい。ですが……妙なことを申しております」
「妙なこと?」
「自分は、ただの強盗ではない。ウィンター家の忠臣だと」
エマの指先が、ぴくりと震えた。
無意識のうちにドレスの裾を縛るリボンを強く握り締める小さな音に、ロビンが視線だけを向ける。
「ふうん……」
相変わらずの、何気ない響きだった。
けれど、山積みの帳簿をパタンと閉じたロビンの青い瞳からは、いつもの気怠げな色がすっかり消え失せ、研ぎ澄まされた氷のような鋭さが宿っていた。
「俺が直接聞こう。エマ、君もおいで」
「わ、私もですか?」
「供述を記録する人間が必要だからね。手帳とペンを持ってきて」
反論する間も与えられなかった。
地下牢への階段にはまだ移動用のリボンが張られていないという理由で、エマは有無を言わさずロビンに抱き上げられ、薄暗い通路へと連れ出された。
◇◇◇
城の地下にある取調室は、冷たい石壁に囲まれた息の詰まるような部屋だった。
カビと土の匂いに、微かな血の鉄臭さが混ざっている。天井から吊るされた古びたランプが、じりじりと油の燃える音を立てて揺れていた。
部屋の中央では、傷だらけの男が木の椅子へ乱暴に縛りつけられていた。
両手首には錆びた鉄の枷がはめられ、背後には武装した兵士が二人、無言で立っている。男の顔は土気色で、脂汗が額にべったりと張り付いていた。
シリルが手袋越しに男の首筋へ指を当てて脈を測り、わずかに眉を寄せる。
「まだ身体がひどく衰弱しています。長時間の尋問には耐えられないでしょう」
「分かった。手短に済ませるよ」
ロビンは男の正面に置かれた椅子へ、ゆったりと腰を下ろした。
エマは少し離れた壁際の記録机へ座らされ、身体が浮かないよう、腰を幅広のリボンで椅子の背もたれへしっかりと固定された。
机の上には、捕縛した際に男から取り上げた品々が乱雑に並べられている。
刃こぼれした黒塗りの短剣。中身が空になった粗末な小瓶。
そして――冬薔薇をかたどった、銀色の徽章。
「名前は?」
ロビンが静かな声で尋ねると、男は荒い息を吐きながら、ぬらりと濁った目を上げた。
「……グレゴール・ヘイル」
「所属は?」
「ウィンター伯爵家に……長年、お仕えしておりました」
インク壺へペンを浸そうとしていたエマの手が、空中でピタリと止まる。
けれど、彼女は顔を上げることなく、ぐっと奥歯を噛み締め、聞いた言葉を手帳へ淡々と書き留めた。
「何の仕事を?」
「会計官です。先代伯爵様のもとで、……鉱山の帳簿を任されておりました」
「へえ。それはずいぶん重要な役目だね」
ロビンは長い脚を組み、面白そうに頬杖をついた。
「そんな重役の人間が、どうして辺境伯である俺を襲ったの?」
「ウィンター領を……お前のようなよそ者へ渡すわけにはいかない。王命に逆らうには、お前を消すしか……」
記録机に置かれたエマの左手が、ドレスの生地が破れそうなほど強く握られた。
この目の前にいる男をエマは全く知らなかった。
病床の父に代わり、領地の仕事を手伝っていた彼女は、伯爵邸へ出入りする会計官や文官の顔と名前を、すべて記憶している。
だが、ただ「知らない」というだけでは、この男が偽物だと断定する証拠にはならない。エマは激しい動揺を冷たい石の床へ押し殺すように、ペンを走らせ続けた。
「忠臣だという証拠は?」
「そこに……我らの徽章がある」
男が顎でしゃくるように示したのは、机の上の冬薔薇だった。
「ウィンター家に忠誠を誓った者だけが持つ、誇り高き証だ」
ロビンが銀色の徽章をつまみ上げ、ランプの光へかざした。
一輪の冬薔薇。その背後には、一本の剣が斜めに刻まれている。
「よくできてるね」
「当然だ……。紛れもない本物なのだから」
エマはペンを置き、徽章を見つめて小さく目を見開いた。
違う。
冬薔薇の背後を走る剣の切っ先が、右上を向いている。
本物のウィンター家の紋章では、剣先は必ず左上を向くよう定められているのだ。手紙などに使う印章から直接デザインを写し取ろうとすれば、当然図柄は左右反対になる。
ロビンの手元にあるものは、本物の印章を見た誰かが作らせた、粗悪で精巧な『偽物』だった。
「ウィンター家の標語は?」
ロビンが続けて尋ねる。
男は探るように目を細め、しばらく考えたあと、仰々しく誇らしげに答えた。
「――冬を越え、家に春を」
エマは、白くなるほど強く唇をかみ締めた。
また違う。正しくは、『冬を歌い、民に春を』だ。
幼い頃、父が何度もエマへ教えてくれた大切な言葉だ。
『エマ、よく聞きなさい。領主は、自分の家を富ませるためにいるのではない。その冷たい土地で懸命に生きる人々へ、誰よりも早く春を運ぶためにいるんだよ』
父の不器用で、けれど穏やかな声が、耳の奥でありありと蘇る。
こんな男に、父の志を穢されたくない。
エマは胸の奥から込み上げる怒りと痛みに耐えながら、手帳へ二つ目の矛盾を書き込んだ。
「鉱山では、どんな帳簿を扱っていた?」
「採掘量と、鉱石の売買。それから……『山納め』だ」
「山納め?」
「鉱山の莫大な収益から伯爵家へ納める金だ。採掘量に応じて、毎月厳密に計算している」
三つ目。
エマは完全に確信した。
『山納め』とは、鉱山から伯爵家へ納められる上納金のことではない。
冬の厳しい寒さのあいだ休山を余儀なくされる鉱夫たちが飢えないよう、休山前に一度だけ支給される『越冬手当』を指す、この地方の古い言葉だ。
父の代にはすでに正式な手当の名称に変わっていたものの、書庫の奥にある昔の帳簿にはその名で記録が残されている。
この男か、あるいは男の雇い主は、古い帳簿をどこかで盗み見たのだ。
だが、その言葉に込められた領主の優しさ――本当の意味までは知らなかった。
エマは手帳の新しい真っ白な頁へ、迷いのない筆致で大きく書いた。
『この人は、ウィンター家の者ではない』
その下へ、素早く三つの矛盾を並べる。
一、紋章の剣先が左右反対。(印章から偽造したため)
二、標語は『家に春を』ではなく『冬を歌い、民に春を』。
三、『山納め』は伯爵家へ納める金ではなく、休山前に鉱夫へ渡す越冬手当。
エマがそっと顔を上げると、頬杖をついたロビンと真っ直ぐに目が合った。
エマは自分の目が揺れてしまうのを止めることができなかった。
長い睫毛に縁取られた黒い瞳が、不安に揺れる。
その様を見て、ロビンはなぜだか喉の渇きを覚え、無意識に喉を鳴らした。目を先に逸らしたのはエマだった。
その瞬間、さっきまでの喉の渇きは消え失せ、今度は味わったことのない苛立ちが腹の底から湧きあがり、ロビンは面倒そうにため息をついた。
(伝えなくちゃ……)
顔を上げた、そのときだった。
男の身体が大きく痙攣した。
ガタンッ!
椅子が激しく跳ね上がり、枷につながれた両腕が不自然な方向へねじれる。
「押さえろ!」
兵士たちが慌てて男の肩を押さえつける。
ゴボリ、と口元から黒ずんだ血と泡がこぼれ、男の顔が見る間に赤紫色へと染まっていった。白目を剥き、喉の奥でヒューヒューと空気が漏れる凄惨な音が鳴る。
「シリル!」
「ええ」
シリルはすぐさま男の顎を強く持ち上げ、口の中を確認した。太い首筋へ指を沈め、素早い動作で懐から取り出した解毒薬を流し込もうとする。
しかし、男の喉はすでに痙攣を止め、何も飲み込むことはなかった。
やがて全身から糸が切れたように力が抜け、椅子の上でがくりと頭が垂れる。
ランプの油の音だけが響く取調室へ、ひんやりとした重い沈黙が落ちた。
「……死亡しました」
シリルが眼鏡を押し上げ、感情の読めない低い声で告げる。
エマの震える指から、ペンが音を立てて滑り落ちた。
「ど、毒……ですか?」
「おそらく魔術を使った遅効性の劇薬です。傷の状態に対して、身体の衰弱が激しすぎるとは思っていましたが……」
シリルは男の瞼を開き、慎重に眼球の濁りなどを確かめていく。
「捕縛されるより前、襲撃の直前にすでに体内へ入っていたのでしょう。本人が死を承知で飲んだのか、何も知らされず気付け薬だとでも言われて飲まされたのかは分かりませんが」
「どちらにしても、雇い主は最初から、この男を生かしておくつもりがなかったわけだ。使い捨ての駒ってことね」
目の前で人が血を吐いて死んだというのに、ロビンの声のトーンは、さっきまでと一ミリも変わらなかった。まるで道端の石でも見るような目で、冷たく男の死体を見下ろしている。
ロビンはゆっくりと立ち上がり、机の上に転がる偽物の徽章を見下ろした。
「ウィンター家の忠臣を名乗り、都合よく紋章を持っていて、話し始めた途端に死ぬ。……ずいぶん出来すぎてるね」
エマは膝の上で、両手を固く握り締めた。
この男を雇った者は、ウィンター家の紋章を知っている。書庫にある古い帳簿を盗み見ることもできる立場にある。そして、父に誠実に仕えていた無実の者たちへ、反逆の罪を着せようとしている。
思い当たる人物は、一人しかいなかった。
(お義母様……。)
血の気が引き、視界がぐらりと揺れる。
それでも、その名を口にすることはできない。自分が『エマ・ウィンター』本人であると明かさなければ、なぜそう考えたのか、なぜ手帳にあれだけの事実を書き込めたのか、論理的に説明できないからだ。
「エマ」
呼ばれて顔を上げると、いつの間にかロビンがすぐそばに立っていた。
エマを見下ろす瞳には、先ほどの冷酷さは微塵もない。
ただ椅子を固定していたリボンを手早くほどくと、勝手に浮き上がろうとするエマの身体をしっかりと受け止め、そのまま温かい腕の中へ抱き込む。
エマは、いつもならそっと体を預けるところが、今はどうしてもできなかった。
人が死ぬ瞬間を目の当たりにした恐怖と、言い知れぬ不安。彼女は体を強張らせ、むっと唇を前に突き出すと、目をグッと閉じた。
ロビンは、そんなエマの唇をじっと見下ろした。
城に来たときに気づいた、彼女の癖。それを見るとなぜか、胸の奥にまたあの苛立ちが走る。
その感情をどう処理していいか分からず、ロビンは面倒くささを感じていた。それに、思っていた以上の惨劇が起きてしまい、それを彼女に見せてしまったことへの後悔もある。
だから、だろうか。
ガブッ!!!
「ひゃうっ!?」
突然、エマの鼻先が噛まれたのだ。
「な、なな、なにするんですか!!!」
「あ、ごめん。つい」
「『つい』って何ですか! 頭おかしいんじゃないですか!?」
目を丸くして抗議するエマに、ロビンは「あはは」と悪びれもなく笑った。
けれど、その声にはひどく優しい響きが混じっている。
「でも、元の調子に戻ったじゃん」
「えっ……」
「ごめんね。死ぬと思ってなかったから。……女の子に見せる場面じゃなかったね」
気怠げな声に混じる、微かな後悔と不器用な気遣い。
エマの胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛んだ。
けれど――やっぱり、鼻が痛い。
「〜〜〜っ! もうっ!」
エマは涙目で、ロビンの硬い胸板をポカポカと叩き続けた。
ロビンは避けることもせず、されるがままに目を細めて笑い、エマを抱き直してゆっくりと階段を上っていった。




