死神辺境伯の冷酷なツッコミ『たった今、全裸で浮いた人が言っても説得力ない』
朝。 エマ・ウィンター――もとい、今はパン屋のエマは、人生最大のピンチを迎えていた。
(こ、こここ、この美しすぎる寝起き顔は何!?)
目と鼻の先に、見惚れるほど整った男の顔がある。 上半身裸のロビンが、エマを胸の中へすっぽりと抱き込み、気怠げに目を細めて見下ろしていた。
「おはよう。寝相のいいエマちゃん?」
「どっ、どどどどっ、どうしてロビンさんの腕の中にいるんですか!?」
エマは爆発しそうなほど顔を赤くして叫んだ。
すると掛け布団の中で、ロビンの長い脚がエマの腰へ絡みつく。
さらに素足の甲が、エマのふくらはぎをすり、と撫で上げた。
「ひゃあっ!」
「あはは! ごめんごめん、つい。反応が面白くて」
「ついじゃなーい!」
じたばたと逃げようとするエマを、ロビンは「暴れると、また浮くよ」と片腕で軽く押さえ込んだ。
「それ以前に、どうして一緒のベッドにいるんですか! それに、なぜ服を着ていないんですか!?」
「寝るときくらい脱ぐでしょ」
目のやり場に困ったエマは、あさっての方向へ顔を逸らして叫んだ。
「せめてシャツを着てください!」
「注文が多いなぁ。まあまあ、落ち着いて」
なおも身じろぎするエマをなだめながら、ロビンは昨夜の事情を説明した。 いわく、ロビンが湯浴みを終えて戻ってくると、天蓋の上の繭――もといエマは、掛け布団がすっかり外れ、スカートもはだけ、あられもない姿で宙吊りになって熟睡していたのだという。 驚いて包み直したものの、寝相の悪さで掛け布団がずれ、夜中に何度も天蓋へ飛び出したらしい。
「三回までは俺も頑張って包み直したんだけどさ」
「さ、三回も……?」
「夜中に三回も孵化されたらねぇ」
自分がぐっすりと眠りこけている間に、そんな大惨事が起きていようとは。
「ふ、孵化してません!」
「そういうわけで、四回目を待つのが面倒になって、帯をほどいて君ごと寝台へ下ろしたの。あとは朝まで、俺が重石になって押さえてたってわけ」
エマは説明を聞き、ますます真っ赤になって両手で顔を覆った。
昨日の今日で「私、寝相はいい方ですから!」と豪語した自分が恥ずかしすぎる。
「も、申し訳ありませんでした……」
「別に。おかげで、久しぶりによく眠れたし」
「……え?」
「何でもない。そろそろ起きようか」
ロビンは何事もなかったようにエマを抱き上げ、寝台から立ち上がった。 その口元がわずかに緩んでいたことには、顔を手で覆っていたエマは気づかなかった。
◇
朝の身支度をするため寝室を出ると、エマは目を丸くした。 廊下や私室、浴室に至るまで、壁伝いに移動用の太い絹のリボンが張られ、要所には新しい手すりが取りつけられている。
「これを、一晩で……?」
「まあ、俺の部下は優秀だからね」
ロビンは事もなげに言った。
しかし、そばに控えていたシリルが冷たい目で眼鏡を押し上げる。その目の下には、くっきりと隈ができていた。
「部下が、ですか。夜中に全員を叩き起こし、『彼女の手が届かなければやり直し』『一本ずつ強度を確認しろ』と命令したのは、どなたでしたっけ」
「安全確認は領主の仕事だから」
「御自分でリボンを引っ張り、結び目を一つずつ確かめて回るところまでが領主の仕事だとは知りませんでした」
「シリル。朝からよく喋るね」
ロビンは気怠そうに軍帽を被り直した。
「ありがとうございます、ロビンさん」
「俺は何もしてないよ」
エマが嬉しくなって顔を覗き込んでも、彼は何でもないように視線を逸らす。
「では、優秀な部下の皆様にお礼を言っておきますね」
「それでいいんじゃない?」
そう答えたロビンの耳が、ほんの少しだけ赤くなっていた。
◇
その後、エマは用意された浴室へ入った。 年配の侍女から介助を申し出られたものの、昨夜から恥ずかしい目に遭い続けているエマは、断固として首を横へ振った。
「一人で入れますから!」
浴室には手すりもリボンもある。これなら大丈夫だと思っていた。 必死で手すりを掴んで湯船に浸かる。浮力を抑えるのは大変だが、入れないこともなかった。 ――ところが、湯船から上がろうとしたとき、悲劇は起きた。 お湯で濡れた手が、手すりの上でつるりと滑ったのだ。
「えっ」
次の瞬間、浮力に逆らえなくなった一糸まとわぬ身体が、勢いよく宙へ持ち上がった。
「きゃあああっ!」
「エマ!」
バァン!
もの凄い勢いで扉が開き、黒の詰襟軍服を着たロビンが飛び込んできた。 湯気の立ち込める浴室の中、濡れた長い髪を身体へまとわせたまま、エマはくるくると宙を回っていた。
奇妙な光景のはずなのに、波打つ蜂蜜色の髪の隙間から覗く白い肌と柔らかな曲線があまりに艶めかしく、ロビンは一瞬、息を呑んで目を奪われた。
「きゃあああっ! 目を閉じてください!」
悲鳴で我に返ったロビンは、慌てて両目を閉じ、手探りで腕を伸ばした。
「どこにいる?」
「み、右です! あっ、今左に流れてます!」
「…それは、君から見て?」
「そんな冷静な確認をしている場合ですか!? きゃー! どこを触っているんですか!」
乾いた大きな手が素肌をかすめる感覚に、エマは思わず悲鳴を上げた。
「ぷっふふ、足首だよ」
「い、今、絶対に笑いましたね!?」
「笑ってない、笑ってない」
どう聞いても笑いを含んだ声だった。 ロビンはエマの足首をつかむと、その身体をぐいっと引き寄せた。 目を閉じたまま、棚にあった大判のバスタオルを手に取り、エマの身体へ手早く巻きつける。 すっぽりとタオルに包まれ、ロビンのたくましい腕の中へ収まったエマは、まるで水に濡れた子猫のようになっていた。
「もう目を開けてもいい?」
「……タオルから、何も出ていません?」
「さぁ? 何せ目を閉じてるからねぇ」
至極もっともな答えに、エマは真っ赤になって憤慨した。
「目を閉じたまま確認してください!」
「無茶を言うねぇ」
ロビンはゆっくりと目を開けた。 エマの身体がタオルできちんと隠れていることを確かめると、雫の垂れる蜂蜜色の髪を、別のタオルで優しく包み込む。
「……というか、どうしてすぐに飛び込んで来られたんですか?」
「たまたま通りかかっただけだよ」
ロビンはふいっと目を逸らした。 すると、開け放たれた扉の向こうから、年配の侍女が呆れた声を上げた。
「閣下は、エマ様が入られてから、ずっと扉の前に立っておられましたよ」
「…………」
「ロービーンーさーん?」
エマがジト目で睨みあげる。
「警備だよ、警備。昨日の今日なんだから当然でしょ」
「本当に、それだけですか?」
「それ以外に何があるの?」
ロビンは素知らぬ顔でエマを抱き直すと、侍女へ振り返った。
「次からは、何を言われても付き添ってあげて」
「承知いたしました」
「ちょっと待ってください! これは私の入浴ですよ!?」
「だから心配なんだよ」
「一人で入れます!」
エマがフンスと鼻息荒く怒るが、ロビンは飄々とかわしていく。
「たった今、全裸で浮いてた人が言っても説得力ないけどねぇ」
「うううう……!」
反論できなくなったエマは、ロビンの腕の中でむっと唇を尖らせた。 しかし、当のロビンも、先ほど一瞬だけ目にしてしまった「思った以上に大人びた白い肌」が脳裏に焼き付いていたらしい。
「…………」
急に真顔で虚空の一点を見つめたかと思うと、「保護対象、保護対象……」と謎の言葉をブツブツ呟きながらフルフルと頭を振っている。
その奇妙な様子に、エマは不思議そうに首を傾げるばかりだった。
◇
ロビンが執務へ向かったあと、エマは昨夜の宣言通り、彼の居住区画を片づけることにした。
「まず、窓を開けて空気を入れ替えましょう。お二人は衣類を洗濯室へ。床の本は分野ごとに分けて、壁際へ積んでください」
天井近くのリボンにつかまりながら、手伝いに来てくれた数人の使用人へ次々と的確な指示を出していく。 エマ自身は、一番の難所であるロビンの執務机へ向かった。 机の上には、今にも雪崩を起こしそうな書類の山がそびえ立っている。
「こちらは至急。こちらは署名待ち。青い封蝋は軍務、緑は領内からの陳情ですね」
「エマ様、中を読まなくても分かるのですか?」
「日付と差出部署を見れば、大体は。赤い封蝋のものは機密文書でしょうから、開かずに別箱へお願いします」
空箱を使って分類用のトレイを作り、書類を期限と重要度ごとに仕分けていく。 エマの手は、途中で一度も止まらなかった。
「驚きました……閣下の副官が一日かけても、ここまでは片づきませんでしたよ」
「最初にルールを決めてしまえば、あとは簡単です。どれほどお仕事が多くても、必要な書類を探すたびに時間を使っていたら、ロビンさんが余計に疲れてしまいますから」
ふと見ると、部屋の隅で旧式のタイプライターが埃をかぶっていた。 エマは目を輝かせ、それを丁寧に拭き上げる。
「よかった、まだ使えそうです!」
久しぶりに触れる鍵盤の感触に、かつて実家で父から贈られたタイプライターを思い出す。 一瞬だけ胸がチクリと痛んだが、エマはすぐに背筋を伸ばした。 父が教えてくれた知識と技術は、今もこうして自分の中に息づいている。
エマは軽やかにキーを叩き、「至急」「署名待ち」「保管」と印字された見出しラベルを作った。さらに、どの書類をどこへ収めたのか、ひと目で分かる管理表まで完成させる。 仕上げに、浮力を活かして高い本棚の上までスイスイと浮かび、溜まった埃を綺麗に拭き取ることも忘れなかった。
「エマ様は、本当にパン屋の売り子でいらしたのですか?」
「失礼ですね。パン屋の売り子は、暗算も在庫管理もできないと務まりませんよ!」
エマが冗談めかして胸を張ると、使用人たちは顔を見合わせ、楽しそうに笑った。 すると、書類をまとめていた年配の侍女が、ふと感慨深げな目でエマを見上げた。
「……でも、本当にようございました。お兄君が亡くなられてこの城へ来られてから、閣下はずっと憑き物が落ちたような険しいお顔ばかりでしたのに……今朝、久しぶりに笑顔のロビン様を見ましたから」 「え……? ロビンさんが、ですか?」
エマはぱちくりと目を瞬かせた。 あの人は昨日から自分をからかって、いつも余裕たっぷりに笑っていたけれど――あれは、この城の人たちから見れば「久しぶりの笑顔」だったのだろうか。
そして、その日のうちに――。
『閣下は、呪いを受けたエマという婚約者をたいそう過保護に可愛がっている』
『しかもそのお嬢様は、閣下に笑顔を取り戻させたとびきり聡明な方らしい』
……という噂が、好意的な熱量をもって城中を駆け巡ったのだった。
◇
夕刻。 執務を終えたロビンが、シリルや部下たちを数名引き連れて居住区画へ戻ってきた。
「おかえりなさい、ロビンさん!」
明るい声が頭上から降ってくる。 蜂蜜色の髪を高い位置で一つに結い、清楚な水色のドレスをまとったエマが、私室へ続く階段上のリボンにつかまりながら微笑んでいた。
そのドレスは、昨夜エマが口走った「好きな色」を覚えていたロビンが、今朝一番に城付きの針子へ命じて用意させたものだ。 もっとも本人は、「たまたま余っていた布を使わせただけ」と後で主張していたが。
エマはリボンをたぐり、膝を揃えたまま、ふわふわと階段を降りてくる。 ところが、空中で身体が前へ傾いたことで、四角く開いたドレスの胸元が無防備になり、普段は隠れている柔らかな谷間が覗いてしまっていた。
ロビンが、扉の前でぴたりと固まる。
「うわぁ、閣下。いつの間に妖精なんて飼い始めたんですか?」
「呪いで飛んでるっていう噂、本当だったんですね!」
背後にいた部下たちが間の抜けた声を上げ、真っ白な肌に蜂蜜色の髪を揺らして漂うエマを、しげしげと眺めた。 次の瞬間。ロビンは絶対零度の視線で部下たちを射抜いた。
「……妖精じゃない。婚約者だ、俺の。……見るな」
「「ひっ、はいっ!!」」
不穏な空気を知ってか知らずか、エマはトンッと軽く壁を蹴った。
「お仕事、お疲れさまでした!」
空中を滑るように飛び込んできたエマの手首を、ロビンは難なくつかんだ。そのままひょいと引き寄せ、自分の腕の中へ横抱きに収める。 エマもすっかり慣れたのか、怖がることもなくロビンの首へ自然と両腕を回した。
その瞬間。お風呂上がりの石鹸の香りに混じって、エマの柔らかな肌から立ち上るような、甘く温かい香りがロビンの鼻腔をくすぐった。
(……まただ。この子の肌から匂っているのか?)
ロビンは思わず眉根を寄せ、小さく息を止めた。
「あー、やっと地上に戻れます~……って、うわっ!?」
バサァッ!
突然、ロビンが自分の肩から軍用外套を外し、エマの頭から胸元までをすっぽりと覆い隠してしまったのだ。
「お前ら。今日はもういい、解散だ。とっとと戻れ」
「……はいはい、はいはいはーい。お邪魔虫は退散しますよーだ」
シリルが呆れたように両手を上げ、目を白黒させている部下たちを廊下へ追い立てて、私室の扉を閉めた。
二人きりの静寂が戻った部屋で、マントの下からひょっこりと顔を出したエマは、誇らしげにロビンの執務机を指差した。
「見てください、ロビンさん! 綺麗になったでしょ!?」
ロビンは、見違えるほど整然と片づいた部屋へ目を向けた。 机の上には「至急」「署名待ち」「保管」と印字された三つのトレイ。その横には、書類の所在がひと目で分かる美しい管理表まで添えられている。 床もソファも磨かれ、脱ぎ散らかしていた軍服や本も、すべてあるべき場所へ収められていた。
ただ泥のように眠るためだけに戻っていた殺風景な部屋に、今は、誰かが自分の帰りを待っていてくれた温かい気配が満ちている。
「あ、それとロビンさん。机の引き出しにあった先月分の『備品購入費』の領収書ですが、羽ペンのインク代が市場価格の三倍で計上されていました。無駄遣いは領地財政の敵です! 納入業者を見直した方がいいですよ」
「……え?」
ただの掃除にとどまらない、あまりにも鋭く的確すぎる指摘。
「ロビンさん?」
黙り込んだロビンの顔を、エマが不安そうに覗き込んだ。
「あの……勝手に書類に触ったから、怒りました……?」
「……いや」
ロビンは、腕の中の小さな身体を、少しだけ強く抱き直した。
「……ただいま、エマ」
エマは一瞬きょとんとした。 やがて、その言葉の意味を理解すると、ぱあっと花が咲くような、今日一番の笑顔を浮かべた。
「はい! おかえりなさい、ロビンさん!」
あまりに眩しい笑顔に、ロビンは射抜かれたように顔を背けた。 銀灰色の髪に隠れた耳の端が、微かに赤い。
「……ありがとう」
「どういたしまして!」
ロビンは、ふう、と熱を逃がすように息を吐き、再び腕の中のエマを見つめた。 夕暮れの柔らかな光が差し込む部屋で、いつの間にか、甘く温かな空気が二人を包み込んでいた。
(……? ロビンさん、どうしたんだろう。さっきから、じっと見つめてくるけど)
不思議に思ったエマが、きょとんと首を傾げる。 その拍子に、ロビンの青い瞳が、エマの瞳から――つ、と下がって、桜色の小さな唇へと吸い寄せられた。
まるで熱に浮かされたように、ロビンの視線がエマの瞳と唇の間をゆっくりと行き来する。 そのまま、影が落ちるようにロビンの整った顔が傾き、吐息が触れ合うほどの距離まで近づいてきて――。
(!? な、なに!? ち、近くないですか!?)
エマの心臓が、早鐘のように跳ね上がる。 甘い香りに誘われるように、ロビンの薄い唇がわずかに開きかけた――まさに、その瞬間だった。
コンコンコンッ!!
無遠慮に扉が激しく叩かれた。 ロビンは弾かれたように顔を離すと、自分の口元を片手でガバッと覆い隠した。
「……っ、な、なんだ……!」
ロビンの耳から首筋までが真っ赤に染まっている。
エマから視線を逸らし、「疲れてるんだ、そうだ、そうに決まってる……」と自分に言い聞かせるように小さく呟いていたが、扉の向こうから響いたシリルの緊迫した声に、その表情が一瞬で引き締まった。
「閣下! 帝都より急使です!」
ロビンが鋭く眉をひそめる。
「森の向こうの『ウィンター伯爵領』の件で、陛下より勅書が届きました!」
――ウィンター。 その名を聞いた瞬間、エマの顔から、すうっと血の気が引いた。
震える小さな手が、無意識のうちにドレスの胸元へ隠したロケットを強く握り締める。 白くなるほど力を込めたその指先と、怯えるように揺れるエマの瞳を――ロビンは、静かな青い瞳で黙って見下ろしていた。
誤字脱字訂正しました!




