空飛ぶ令嬢のお世話と、不器用な辺境伯の夜〜「や、優しくお願いします……!」
「この、変態辺境伯ーーっ!!」
バッチィィィン!!
渾身の力を込めた平手打ちが決まる。 ……はずだったが、元・特務部隊の隊長であるロビンは、片腕でエマを抱え込んだまま、首をわずかに傾けてその一撃をヒョイッと避けた。
「あっぶな。当たるかと思った」
「避けるなァァァッ!!」
「君ねぇ、何か勘違いしてない? これは介護だよ、介護。はいはい、エマさーん! お手洗いへ行きますよ~?」」
「そういう問題じゃありません!」
――結局、浮いてしまう身体では、一人でお手洗いへ行くことすら命がけだった。 最終的に、シリルが手配してくれた『足腰の弱い来客用の手すり付き化粧室』へ連行され、手すりに腰の帯を縛りつけて身体を固定し、扉のすぐ外でロビンに待機してもらいながら、文字通り必死の形相で用を足したのだった。
「まあ、明日になれば、城内に移動用のリボンが設置されるでしょ。それまでは俺が運ぶよ」
「ううう……も、申し訳ありません」
「今さら一つ仕事が増えても、あまり変わらないから」
「でもっ面倒って顔してます!」
「まぁ面倒ではあるね」
エマがむっと唇を尖らせる。 するとロビンは歩きながら、その顔を間近から覗き込んだ。
「でも、嫌とは言ってないよ」
不意に綺麗な顔が近づき、そんなことを言われたものだから、エマの頬がまた赤くなった。 やがてロビンは、城の奥にある大きな扉の前で足を止めた。
「しばらくは、俺の居住区画を使って」
「分かりました」
ロビンが扉を開ける。
「まぁちょ〜〜〜っと散らかってるけど」
その先に広がっていた光景を見て、エマは言葉を失った。
執務机には、今にも雪崩を起こしそうな書類の山。
ソファの背には軍服や外套が無造作に掛けられ、飲みかけのカップがいくつも放置されている。
床には本と新聞が積み上げられ、窓辺には何日前のものか分からない固いパンまで転がっていた。
大きな天蓋付き寝台の上にも、服が山積みになっている。
完璧な軍人に見えたロビンの私生活は、見るも無残に崩壊していた。
「……散らかりすぎですよね?」
「だよね!」
「威張って言うことではありません!」
エマが腕の中で唇を尖らせると、ロビンは面白そうにその横顔を眺めた。
「あー、とにかく今夜、君を寝かせられそうな部屋がほかにあったかな」
「わ、私は普通の客室で結構です」
「客室は天井が高いんだよ。大窓もあるし。寝てる間に流れていきそうで、君を一人にするには危険すぎる」
ロビンはエマを抱いたまま部屋の奥へ進み、壁際にある扉を開けた。
「確か、隣にも寝室が――」
言いかけた声が、不意に止まる。
扉の向こうには、先ほどの部屋とはまるで違う空間が広がっていた。
淡い薔薇色の壁紙。花の刺繍が施された天蓋。磨き上げられた白い化粧台の上には、銀の手鏡と香水瓶が並んでいる。
窓辺の小卓には読みかけの本が伏せられ、その隣には、細い指に似合いそうな女性用の手袋が置かれていた。
明らかに、女性の部屋だった。
「あの……」
「あー、ここは駄目だね」
ロビンはすぐに扉を閉じようとした。
「あのあの、今のお部屋……女性のお部屋、ですよね?」
「そうだね」
エマは、見てはいけないものに踏み込んでしまったような気がした。
「以前、ここに住んでいた方が?」
「いたよ」
「ロビンさんの、その……大切な方ですか?」
ロビンはすぐには答えなかった。
閉まりかけた扉の向こうへ、青い瞳を向ける。その目から、いつもの気怠い笑みがすっと消えていた。
「……うーん。大切な人っていうか……まあ、そうだね。でも、出て行っちゃったんだよね」
「あ……」
(自分の部屋はあんなに散らかっているのに、あのお部屋だけは、まるで昨日まで誰かがいたみたいに綺麗だった……)
いつでもその人が帰ってこられるように、そのままにしているのだろうか。
さっきまで散々自分をからかって、余裕たっぷりに笑っていた男の横顔が、今はひどく遠く、寂しげに見えた。
(そんな大切な人がいるのに、私なんかが押しかけて『婚約者のフリ』なんてさせてしまって、本当によかったのかな……)
お邪魔虫になってしまったような気まずさと、彼の寂しそうな瞳が胸に引っかかって、エマは思わず俯いた。
「……まあ、君には関係のない話だ」
「っ、分かっています!」
急に突き放すような言い方をされて、思ったより強い声が出てしまった。
エマはむっと唇を尖らせ、ロビンの胸元から顔を背ける。好きで首を突っ込んだわけでもないのに、そんな冷たい声を出さなくてもいいじゃないか。
「どうして君が怒るの?」
「怒っていません! ただ……なんだか申し訳ないなって思っただけです!」
ロビンはきょとんと目を瞬かせたが、それ以上は追及せず、女性の部屋へ続く扉を静かに閉めた。
(ロビンさんは領主様だし、私よりもうんと年上の大人の男性だもの。そういう女性がいて当然よ。でも、あんな顔をされたら、なんだかこっちまで胸がモヤモヤしちゃうじゃない……!)
エマは自分の落ち着かない気持ちを振り払うように、しきりに頭を振った。
その様子を見たロビンは、別の意味に受け取ったらしい。
「やっぱり、ここは嫌だよね」
「え?」
「今夜すぐに使えそうなのは、俺の部屋しかないな」
「ここって……ロビンさんのお部屋ですよね?」
「そう。さっと片づけるから大丈夫だよ」
ロビンは片腕でエマを抱えたまま寝台へ近づいた。
そして空いている手で、山積みになっていた服を、まとめて床へ払い落とす。
(片づけたというか、床へ落としただけですよね……!?)
エマは心の中で突っ込んだ。
ベッドを用意してもらっている間、自分の力で空中を泳ごうとしてみたが、まったく前へ進めない。
仕方なくソファや寝台、箪笥を順番につかみ、不器用ながらもふわふわと部屋の中を移動した。
やがて箪笥の上に、何枚もの家族写真が並べられているのを見つける。
(わあ……ロビンさんに似ている男の人がいっぱい。背景も少しずつ違うわ)
「似てるでしょ」
突然、耳元へ低い声が落ちてきた。
「ひゃっ!」
エマは分かりやすく肩を跳ねさせた。
いつの間にか背後へ来ていたロビンが、逃げていかないようエマの腰を片腕で支える。
「ご、ごめんなさい! 勝手に見てしまって!」
「別にいいよ。置いていたのは俺だし」
「に、似ていますね。ご兄弟、皆さん」
「でしょ? よくスペアだと言われたよ」
「……スペア?」
あまりにも寂しい言葉に、エマは眉を顰めた。
「貴族の世界では、よくある話」
ロビンは一枚の写真を指差した。
「これが兄。半年ほど前に戦死したんだ。父はもうとっくに他界していたから、俺が兄の爵位と領地を引き継いだ。見事にスペアが機能したってわけ」
話している口元には、いつもの軽い笑みが浮かんでいる。
「少し前まで、帝都で気楽に暮らしてたんだけどねぇ……急にこんな辺境暮らしさ」
そう言う青い瞳は、少しも笑っていなかった。
「あとは、従兄弟や甥っ子、姪っ子たちとその親たちだね」
エマは胸が詰まり、何も言えなかった。
自分の命や存在を『保険』や『予備』だと笑うこの人は、どれほど悲しい目をしているのだろう。
ロビンは写真を元の位置へ戻すと、寝台から分厚い掛け布団を引き抜いた。
「着替えと湯浴みは、明日にしよう。信用できる侍女を選んで、浴室にも手すりと輪をつけさせる。今夜はこれで我慢して」
「これで、とは?」
「こうするってこと」
ロビンは掛け布団を広げ、エマの身体へぐるぐると巻きつけ始めた。
「ちょ、ちょっと待ってください! これではミノムシです!」
「天井に頭をぶつけるよりいいでしょ」
「せめて、繭に包まれた蝶と言ってください!」
「中身は同じじゃない?」
「全然違います!」
ロビンはエマの反論を聞き流しながらもグルグルと巻いていった。
「ぷっ、顔だけ出てるのおもろいね」
「笑わないでください!」
顔だけを出したエマの身体へ、掛け布団の外側から幅の広い絹帯を二本巻く。
さらに帯の端を、天蓋を支える太い柱へ結びつけた。
「これでよし。身体を直接縛っていないから、痛くないでしょ?」
「はい。それは大丈夫ですけど……」
「手を離すよ」
「えっ、ちょっと待って、まだ心の準備が――きゃあ!」
ロビンが腕を離すと、エマの身体は掛け布団ごとふわふわと浮き上がった。
大きな繭のような姿でぷかぷかと浮き、やがて寝台の真上にある天蓋の内側へ、ぽすんと柔らかく受け止められる。
絹帯の長さは、エマが天蓋より先へ流されないよう緻密に調節されていた。
「これなら朝まで大丈夫そうだね。万が一何があっても俺がいるし」
「だ、大丈夫です。私、寝相はいい方ですから!」
「その言葉、覚えておくよ」
ロビンはそれを見届けると、ふう、と小さく息を吐いた。
軍服の前ボタンを全て外し、ソファへどさりと腰を下ろす。そして黒の革手袋をとると投げ捨てて、そのまま長い脚を窮屈そうに投げ出した。
その気怠げな姿は、大通りで強盗をなぎ倒した凄腕の軍人とも、この地を治める辺境伯とも結びつかない。
ましてや、先ほどまで意地悪く笑っていた変態とも。
エマは天蓋から顔だけを出し、その横顔をじっと見つめた。
そして一瞬、隣の部屋の方をみた。
(どなたか分かりませんが隣のお方! 私に対する態度って本当に介護です! 決して決してそのようなことはございませんのでご安心ください!!!)
エマは、心の中で誓うと部屋の方角にむかってコクコクと頭を動かした。
そうして自分を納得させた途端、ロビンのことが気になり出した。
謎の女性の部屋を見つめていた寂しそうな横顔も、兄の死を『機能した』と笑ったときの、あの何ともいえない顔も。
この無防備な寝そべり姿を見ていると、なぜだか目が離せなくなってしまう。
「……ふ。何? さっきから」
ロビンは一人で頷いて納得顔をしているエマを、面白そうに見つめていた。
「俺の顔に何かついてる?」
「いえ……。今日だけで、ロビンさんのいろいろなお顔を見たなって、思っていたんです」
怒った顔。
初めて見せてくれた素顔。
出て行った女性の部屋を見つめていたときの、寂しそうな顔。
そして、自分をスペアだと言ったときの、何ともいえない顔。
「はは。思っていたより、いい男だったでしょ?」
いつもの冗談めかした口調だった。
普段なら「何を言っているんですか!」と口答えするところだ。
けれど今は、不思議と言い返す気にはなれなかった。
「~~~っ。……はい!」
「……ん?」
ロビンが少し驚いたように目を丸くする。
「そこは否定しないんだ」
「だって、本当ですから! でも思っていたキャラとは違いすぎました!」
「はは、何も喋らないように気をつけていたからねぇ」
真っ赤になって叫んだエマと、ソファへ寝そべったロビンの間に、なぜか居心地の悪いような、くすぐったいような沈黙が落ちた。
耐えきれなくなったエマは、照れ隠しに散らかり放題の部屋を見回した。
「明日、私もお部屋を片づけます!」
「君がすることじゃないよ」
「私がしたいんです! 浮いているからこそ、高い棚の上まで掃除しやすいですし!」
掛け布団に包まれているせいで指差すこともできず、エマは天蓋の中からロビンをまっすぐ見つめた。
「だからロビンさんは、安心してお仕事を頑張ってきてください。帰ってきたら、ピカピカにしたお部屋でお迎えしてあげますから!」
その言葉に、ロビンは目を瞬かせた。
「ロビンさん?」
「……いや?」
ロビンは口元を片手で覆い、僅かに顔を逸らした。
耳の端が少しだけ赤く見えたのは、気のせいだろうか。
やがて彼は、いつもの気怠げな笑みを浮かべ、天蓋の中のエマを見上げた。
「期待してるよ、エマ」
「それと……」
「何?」
エマは掛け布団の中で、ぎゅっと両手を握りしめた。
言わなければ後悔すると思った。この人が、自分をあんな言葉で括ってしまうのが、どうしても耐えられなかった。
「ロビンさんは、スペアなんかじゃありません!」
ロビンの青い瞳が、大きく見開かれた。
「他の皆さんもそうです! 従兄弟の方も、姪っ子さんも甥っ子さんも……誰かの代わりなんかじゃありません!」
「…………」
「おやすみなさい!」
言い逃げするように叫び、エマはそのまま掛け布団の中へ頭まで引っ込んで、目を固く閉じた。
(く、くさい! 臭すぎるセリフ! ひいたかな!)
恥ずかしくて、もうロビンの顔など見られなかった。
やがて天蓋の中から、トントンと規則正しい鼓動のような揺れとともに、小さな寝息が聞こえ始めた。
ロビンは何も答えなかった。
誰かの代わりではない。
生まれてから一度だって、そんな言葉を投げかけられたことはなかった。
エマが眠りについたあとも、ロビンの青い瞳は、長いあいだ天蓋の中でゆらゆらと揺れる大きな繭を見つめていた。
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