まさかの紫。(ぱんつの話)
カラン、カラン。
「いらっしゃいませー!」
あれから六か月。
森にほど近い小さな村のパン屋〈麦穂亭〉は、朝から大勢の客で賑わっていた。
焼きたてのパンと木苺パイの甘い香りに包まれた店内を、エマがくるくると動き回っている。
豊かな蜂蜜色の髪は、目立たないよう大きな布で覆っていた。質素な服に白いエプロンという姿だが、黒目がちな大きな瞳と透き通るような白い肌までは隠せない。
長い睫毛に縁取られた瞳は、感情が動くたびにきらきらと輝く。褒められればすぐに頬が赤くなり、困れば唇を尖らせ、笑えば店の中まで明るくなったように見えた。
本人はただ一生懸命に働いているつもりなのだが、最近ではパンを買いに来ているのか、エマの笑顔を見に来ているのか分からない男性客も増えている。
「おばあちゃん!お買い物帳の印が十個たまっています! 今日はスープをおまけですっ」
「まあ。いつもありがとうねえ」
「明日も元気に来てくださいね!」
エマが満面の笑みでパンとスープを手渡すと、老婦人まで少女のような顔で笑った。
その笑顔を見送るエマの胸の奥が、ふと、チクリと痛んだ。
(……ウィンター領のみんなは、今頃どうしているかしら。お義母様たちのことだから、きっと家令たち丸投げね。お父様が育てた優秀な家令たちならきっと……あぁ、でも気になるな……)
逃げてきてしまった自分の無力さと罪悪感。それを振り払うように、エマはキュッとエプロンの紐を握りしめた。
「おはよう、エマちゃん!」
「今日も朝から可愛すぎない?」
次に並んでいた学生二人が、山盛りのパンを載せたトレイを差し出してきた。
二人は山の向こうにある学園の生徒で、どちらも裕福な商家の息子らしい。店の外には、いつも立派な馬車を待たせている。
「はいはい。お世辞は結構ですっお買い物帳を出してください」
「お世辞じゃないって。ねえ、今度の休日、一緒にロウルの街へ行こうよ」
「美味しいものをご馳走するからさ」
「まあ! それは魅力的なお誘いですね」
エマの瞳がきらりと輝いた。
「じゃあ、今日のおすすめをもう三つずつ買ってください」
「俺たちに商売してる!?」
「しかも、デートの返事は!?」
「さて、何のことでしょう?」
エマがにっこり笑って首をかしげる。
「その顔はずるいって!」
「本当に可愛いなあ」
「ありがとうございます! あ、籠に入れたその木苺のジャム瓶、金貨一枚になります! 毎度あり!」
「えっ、いつの間に籠に…しかも高くない!?」
「ゼロ円はスマイルだけです!」
ゴホン。
低く重みのある咳払いが響いた。
学生二人が揃って肩を跳ねさせ、恐る恐る振り返る。
列の最後尾に、濃紺の軍装と黒い軍用外套を身につけた長身の男が立っていた。
軍帽を深く被り、鼻先まで届く立ち襟で口元を隠している。見えるのは冬の海を思わせる青い瞳だけだ。
その目が今、凍てつくような冷たさで学生二人を見下ろしていた。
「……急いでるんだが?」
「す、すみません!」
「今すぐ帰ります!」
二人は大慌てで代金を置き、パンの包みを抱えて店を飛び出していった。
「エマちゃん、今度こそ遊びに行こうな!」
「お返事、待ってるからね!」
「はいはい。馬車に遅れないようにしてくださいねー!」
エマは二人へ手を振り、最後の客に向き直った。
「お待たせしました、ロビンさん」
「……ずいぶん楽しそうだったね」
「あはは、お二人とも、悪い方ではないんです」
「へぇ?」
ロビンの返事は、妙にそっけなかった。
半年前、森で行き倒れかけていたエマに、この店を教えてくれた軍人だ。数日後、同じ声と青い目をした男が〈麦穂亭〉へ現れ、「ロビン」とだけ名乗った。それ以来、彼はほとんど毎朝ここへ通っている。
「今日もカスクートでよろしいですか?」
「うん。いつものを頼むよ」
エマは細長いパンへナイフを入れ、燻製肉とチーズ、野菜を手際よく挟んでいく。
「ロビンさんって、本当にこれがお好きですよね」
「まあね」
エマは完成したカスクートを紙で包み、両手で差し出した。
「はい、お待たせしました! 今日はお肉を少し多めにしておきましたよ。お仕事、頑張ってくださいね!」
黒目がちな大きな瞳を細め、頬を薄桃色に染めて笑う。
今日一番の、特大の笑顔にロビンは眉を顰めた。
「あー……エマ」
「はい?」
「あの二人と――」
そこまで言いかけて、ロビンは口を閉ざした。
(遊びにいくの?)
そう聞こうとした自分に気づき、軍帽のつばを指で押し下げる。
(? 俺は何を気にして……)
「? 何ですか?」
「いや……」
カラン。
扉の鐘が鳴り、深くフードを被った男が店へ入ってきた。
薄汚れた外套をまとい、顔の半分を隠している。この村では見かけない男だった。
「いらっしゃいませ!」
エマが声をかけた途端、男の足が止まった。フードの奥の目が、大きく見開かれる。
男は懐から折り畳んだ紙を取り出すと、そこに描かれた何かをじっと見た。
それに気づいたのは、ロビンだけだった。
先ほどまで気怠そうだった青い瞳が、鋭く細められる。
男はロビンの視線に気づくと、何も買わずに店を飛び出した。
「……悪い。釣りはいらない」
ロビンはカウンターへ金貨を置き、カスクートの包みをつかんだ。
「また今度」
「えええ??」
ロビンは答えず、黒い外套を翻して店を出ていった。
店先につないでいた黒馬へ飛び乗り、フードの男が消えた方角へ駆けていく。
「もう……。相変わらず、何を考えているのか分からない人」
エマは小さく唇を尖らせた。
◇
一刻後。
朝の仕事を終えたエマは、焼き菓子とケーキを積んだ荷馬車でロウルの街へ来ていた。
煉瓦造りの商店が並ぶ大通りは、人と馬車で溢れている。
最後の届け先である茶房に木苺パイを渡し、空になった籠を抱えて外へ出た。
その時だった。
パァン!
乾いた銃声が鳴り響いた。
パァン! と乾いた銃声が響き、大通りが悲鳴に包まれた。
「きゃあああ!」
「強盗だ! 逃げろ!」
大通りの先から、粗末な布で顔を隠した男たちが雪崩れ込んでくる。
六人ほどだろうか。拳銃や短剣を振り回し、通行人を追い散らしながら、商店の窓を次々と叩き割っていた。
「金目のものを全部出せ!」
「逆らう奴は撃つぞ!」
暴れ馬が荷車を引いたまま突進し、露店を吹き飛ばす。果物や商品が石畳へ散らばり、人々が悲鳴を上げながら逃げ惑った。
「こ、こういうときこそ、逃げるが勝ちです!」
エマは立ち上がり、混乱から離れようとスカートの裾をつかんだ。
――その時だった。
ぞくり、と背筋に悪寒が走る。
視線を感じて振り返ると、逃げ惑う群衆のすぐ向こうに、異質な男が立っていた。
商店を荒らす乱暴な強盗たちとは、明らかに雰囲気が違う。
頭からつま先まで深い黒ずくめの装束に身を包んだその男は、周囲の金品には目もくれず、フードの奥の濁った瞳で――まっすぐにエマだけを見据えていた。
「っ……!?」
次の瞬間、黒ずくめの男が弾かれたようにエマへ向かって駆け出した。
獲物を捕らえようとする異様な気迫に、エマは息を呑んで踵を返す。
「な、なんで私が追われてるんですかぁっ!?」
エマは悲鳴を上げて夢中で走り出した。
だが、男の足は圧倒的に速い。あっという間に背後へ迫られ、細い腕を乱暴につかまれた。
「きゃっ!」
「……見つけたぞ。大人しく来い!」
「いやです! 離してください!」
エマは必死に腕を振り回し、男の脛を思い切り蹴り上げた。
「いってえ! この女……っ!」
激昂した男が、懐から抜いた短剣を振り上げる。
その瞬間。
パァン!
二発目の銃声が鳴り響き、男の手から短剣が弾き飛ばされた。
続いて、力強い蹄の音が大通りを揺らす。
漆黒の馬が、逃げ惑う人々の間を縫うように駆けてきた。
馬上にいるのは、黒い軍用外套を翻した一人の軍人。
冬の海のような青い瞳が、黒ずくめの男を冷たく見据えている。
「ロビンさん!?」
「朝から余計な仕事を増やしてくれるねえ」
ロビンは気怠そうに呟き、走る馬から軽やかに飛び降りた。
黒ずくめの男が舌打ちし、エマを盾にしようとその身体を乱暴に引き寄せる。
「動くな! この女の首が――がはっ!?」
脅し文句が終わるより早く、ロビンの姿がブレた。
瞬きする間もない踏み込み。男が反応すらできない速度で、次の瞬間にはその脇腹にロビンの軍靴が深く、容赦なく突き刺さっていた。肋骨が嫌な音を立てて砕ける。
「ぐあっ!」
吹き飛ばされた男が、露店の木箱へ突っ込む。
ロビンは倒れかけたエマの腰へ片腕を回し、そのまま軽々と抱き寄せた。
「怪我は?」
「だ、大丈夫です!」
「そう。じゃあ、あの荷馬車の陰に隠れてて」
「ロビンさんは!?」
「見れば分かるでしょ。仕事中」
そう言って、ロビンは拳銃を腰の革帯へ戻し、軍刀を抜いた。
襲いかかってきた男の剣を最小限の動きで受け流し、柄で顎を打ち上げる。
背後から棍棒を振り下ろした男には振り返ることすらせず、身体をずらして避け、その腕をつかんで関節を躊躇なくへし折りながら石畳へ投げ飛ばした。
悲鳴を上げる間も与えない。
ただの喧嘩ではない、圧倒的で冷酷な制圧劇だった。
銀灰色の髪をなびかせ、返り血一つ浴びずに悪漢を無力化していくその後ろ姿は、恐ろしいほど美しかった。
「つ、強い……」
あの可愛い名前の、でも無愛想な常連客が、これほど凄まじい軍人だったとは知らなかった。
エマが呆然と見つめている間にも、ロビンは残った男たちを追い詰めていく。
「くそっ!」
建物の陰から、もう一人の男が姿を現した。
パン屋へ来た、あのフードの男だ。
その手には、銀色の液体が揺れる小さな硝子瓶が握られている。
男はロビンの背後へ回り込み、瓶を大きく振りかぶった。
「ロビンさん、危ない!」
エマは考えるより先に飛び出していた。
ロビンの背中へしがみつき、その身体を庇うように腕を広げる。
投げられた瓶が、エマの肩へ当たった。
パリン!
硝子が砕け、冷たい液体がエマの肩と背中へ降り注いだ。
「エマ!?」
ロビンがエマを抱き留める。
気怠さを消した青い瞳に、初めて強い焦りが浮かんでいた。
「何をしてるんだ、君は!」
「だって、ロビンさんに当たりそうだったから……!」
エマは普段とは違う怒気のこもった声に驚き、一瞬言葉を失ったが、次にきたこの言葉で我に帰った。
「しかも俺は避けられた!」
「それを先に言ってください!」
言い返したところで、エマは妙な感覚に襲われた。
足元が、ひどく頼りない。
「……あ、れ?」
身体がふわりと軽くなる。
ロビンに支えられていたはずの足が、石畳から離れていく。
「ロビンさん。私、何だか……」
片方の靴が足から抜け、ぽとりと石畳へ落ちた。
その靴を追いかけるように下を見る。
頭上にあるはずだったロビンの瞳が目の前にきたかと思えば、徐々にそれを追い越して、すーっと上へ流れていく。
(あ、綺麗な青色……って、それどころじゃない! 私、なんで……!)
地面が、ゆっくりと遠ざかっていた。
「……う、浮いてる!? ろ、ロビンさん! 私、浮いてます!」
「っ!」
瞬間、制御不能な浮力に身体が持っていかれ、エマの足がロビンの目の前を勢いよく通り過ぎていく。
咄嗟に、ロビンが宙へ逃げていくエマの両手首をガッチリと掴んだ。
「きゃー――――っ!?」
掴まれた両手を支点にして、今度は足だけがどんどん空へと引っ張り上げられていく。
天地がひっくり返った拍子に、パン屋の仕事用にきっちり巻きつけていたターバンが、スポッと抜け落ちた。
ふわり、と。
今まで布の下に隠されていた長い蜂蜜色の髪がほどけ、朝の光を浴びて黄金のヴェールのように美しく空へ舞い広がる。
その幻想的なきらめきに、見上げていたロビンの青い瞳が、わずかに見開かれ――。
――と、物語のヒロインのような美しい光景は、ほんの一瞬だけだった。
呪いで浮いているのはエマの「身体」だけ。
つまり、身につけている「布」は、無情にも本来の重力に従うわけで。
バサァッ!!
完全に逆立ち状態になったエマのスカートが、盛大に反転し――美しい髪に見惚れかけていたロビンの視界を、見事に覆い尽くした。
「いやぁダメダメきゃぁわぁ――――っ!?」
色気もへったくれもない絶叫を上げながら、エマは火事場の馬鹿力でロビンの肩にしがみつき、空中大車輪の要領で無理やり足を下へ向け、必死にスカートの裾を太ももで挟み込んだ。
ゼェ、ゼェと息を整え、羞恥でゆでダコのように真っ赤になった顔で、エマは眼下のロビンをキッと睨みつけた。
「み、み、み、みみみ……っ!?」
エマの必死の圧を受け止め、いかなる戦場でも眉一つ動かさないと噂の軍人が、この時ばかりは何度か目を瞬かせ――鼻先まである立ち襟の奥で、ぼそりと呟いた。
「……まさかの、紫」
「ラベンダー色と言ってくださいっっ!!!」
ちょっとだけ修正しました!




