ただのエマ
半年前の冬。
「あのあのあのっ! 世間では、それを虐待と言ってですね?!」
「あぁら。私はただ、無能な使用人を躾けているだけよ!」
父が病床に伏せって以来、継母ヘラは我が物顔で屋敷を取り仕切っていた。
母が死んでからやってきた継母ヘラと義妹のエスター。来た当初の優しい顔は何処へやら。
その日も五十年以上前の帳簿を出せと騒ぎ、幼い頃からエマの世話をしてきたマーサを問い詰めている。
「本当に存じ上げません! お許しください!」
「鉱山の帳簿はどこ? 知らないなら、屋敷中を探しなさい!」
ヘラがマーサへ手を上げようとしたため、エマは慌てて二人の間へ飛び込んだ。
「お、おやめください、お母様! これは躾ではなく、い、いいい…… いじめです!」
スパーン!!!
直後、頬に鋭い痛みが走り、目の前に星が散った。
義妹のエスターに平手打ちされたのだ。
「お姉様、お母様にお説教とはいい度胸ね。役立たずのくせに」
「そうだっエマ。あなたにお話があったのでしたわ〜」
ヘラが優雅に笑いながら、エマの顔を覗き込んだ。
「あなたの父親は、もう長くないわ。だから、お母様が結婚相手を決めてあげたの。隣領のカエサル・ヴェイン男爵。帝国海軍のご立派な士官よ」
「なな! なんなんですか急に! 私は、その方とお話ししたこともありません!」
カエサルは、港ごとに愛人がいると噂される男だった。
「お父様が元気になれば、そんな結婚は絶対にお許しになりません!」
「まだ、そんな夢を見ているの?」
「馬鹿な子!!」
ヘラとエスターはエマの反論を馬鹿にしたようにあしらって去っていった。
マーサは赤く腫れたエマの頬を冷たい布で冷やしてくれたが、頬はジンジンと痛み続けた。
「ごめんね、マーサ。私が何もできないばかりに……」
「エマ様は、何もできない方ではございません。読み書きも計算も、誰よりお得意ではありませんか」
「それで、お母様たちを追い払える?」
「そ・・・れは出来ないでしょうけども、いつかこの家を出ても生きていけます」
その言葉に、エマは涙を拭った。エマの胸元には母の形見である金のロケットペンダントが輝いている。エマはそっと握ると、にっこり笑った。
「そうよね。勉強して、仕事を見つけて、一人でもガンガン生きていけばいいのよね」
「その意気です」
その夜、エマは父の寝室へ向かった。
「お父様……私を一人にしないで」
幼い頃、父の部屋にはいつだって紙とインクの匂いがしていた。
けれど今は違う。
ヘラが用意した薬のせいだろうか。薬草の匂いに混じって、何かを焦がしたような、鼻の奥に残る強い臭いが漂っている。
「……変な匂い」
エマは思わず顔を顰めながら、骨と皮ばかりになった父の手を握った。
――その手が、ひどく冷たいことに気づいた。
エマが父の顔を覗きこむ。目は開いているが、そこに光がないことに気づいたエマは、はっ……と震えた。
そしてマーサを見た。
マーサはこくりと頷くと、そっと父の瞳に手を当てて瞼を下げてやった。
「十二時半ちょうどですね」
懐中時計を確認しながら、マーサが淡々と告げる。
その事務的な声が、残酷な現実をエマの耳へ叩き込んだ。エマはあふれそうな涙を必死に堪え、震える手を自分の胸に当てた。
マーサが父の瞼の上にあった手をゆっくりと上へ持ち上げて、退けた瞬間。
――ギョロリ。
瞳孔が完全にエマをとらえた。
「「ぎゃあああああああ!!!!!」」
悲しみに暮れていたエマと、冷静だったはずのマーサの絶叫が同時に部屋へ響き渡る。
閉じさせたはずの瞳が、完全にカッ!と開いていて、エマを見つめていたのだ。
「……うるさいぞ。勝手に殺すな」
「おおお、お父様!?」
「お前が来ると……安心する」
「わ、私はびっくりしたわお父様!」
冷たくなった指が、エマの手を微かに握り返した。
「冗談はそこまでにして……生きろ、エマ」
「そんなことを言わないでください。お父様も一緒に……」
「生きていれば……道は、必ず見つかる」
「お父様……っ」
エマの目から、ついに堪えきれなくなった大粒の涙がこぼれ落ちた。父の温かい言葉に胸が詰まり、嗚咽を漏らしかけた、その時だった。
「……ところで、今月の帳簿はどうなった。小麦の仕入れ値の計算は、しっかり付けているか? これからは小麦が高騰するぞ。しっかり仕入れて、ガンガン売るんだ……」
「…………お父様」
エマは信じられないものを見る目で、ベッドの上の父を見つめた。死の淵にあってもなお、領地の帳簿と商いを気にする父親に、エマは涙を引っ込めて抗議の声を上げた。
「もうっ! 今そんな話をしている場合ですか!? 家令たちと相談して、もうすでに小麦は売り切りました!」
「……ははっ。そうだったな素晴らしい。お前は素晴らしい自慢の娘だ。お前にはしっかりと会計のイロハと商いを仕込んだからな……」
「お父様……」
「いいか、エマ。もしこの先、お前の身に危険が迫るようなことがあれば……迷わずこの家から逃げなさい」
「え……?」
「お前が自分のやりたいことを見つけて、ここを出て行くと言うなら、私は決して反対しない。どこへ行っても、お前なら自分の力で生きていける……」
「お父様……っ」
「……エマ……私の……可愛い娘……お前をずっと、見守っている」
ふっ、と。
父の口元に満足げな、悪戯っぽい笑みが浮かんだかと思うと、繋いでいた手から完全に力が抜け、ゆっくりとベッドへ落ちた。
「お父様!?」
今度こそ、本当に。父は静かに、息を引き取った。
エマは冷たくなった父の手にすがりつき、声の限りに泣きじゃくった。
(マーサは今度は、目を閉じさせようとはしなかった。)
♦︎♦︎♦︎
葬儀を終えた夜、エマは屋根裏にある自分の部屋で、ペンダントを握りしめ静かに冥福を祈っていた。が、静かな時間は続かなかった。血相を変えたマーサがエマの部屋へ駆け込んできたのだ。
「お逃げください! ヴェイン男爵があなたを迎えに来ます!」
マーサは部屋に入るなり、シーツを繋ぎ合わせ、窓から垂らした。
「エマ様、急いで! ……って、何を鞄に詰めているんですか!?」
「待って、マーサ! これだけは……!」
マーサが目を剥いた。
エマが小さな革鞄へ押し込もうとしていたのは、真鍮張りの大きなタイプライターだった。
「お父様が買ってくださったのよ! 私、これで自立して生きていくの!」
「その鉄の塊の重さでシーツが切れます! 落下して死んでしまいます!」
「でも、私の武器が……!」
「お嬢様の武器は、その脳みそです!」
「同情と涙じゃパンは買えないけど、正確な帳簿と計算スキルがあればどこでも生きていけるのに!」
「しつこい!」
「あぁっ!?」
エマの叫び虚しく、タイプライターは、無情にもベッドの上へ放り出された。
◇
ヒュおおおお……。
「ま、マーサ? 見て? すっごく高いけど!?」
エマは窓から下を見て、青ざめた。
「ほかに安全な出口はございません」
「一応聞いただけよ! それより、マーサはどうするの!?」
「私もこのあと、南にいる親戚のもとへ逃げます。ですから早く!」
エマはマーサを見つめた。小さい頃から一緒だったマーサ。最近では白髪も増えたマーサを見て、エマは涙ぐんだ。
「本当ね? 絶対に逃げてね!?」
「しつこい! さあ、お急ぎください!」
ろくに別れを惜しむこともできず、エマは窓から屋敷を抜け出したのだった。
★
肺の奥まで凍りつくような冬の夜。エマは暗い森の中を、スカートの裾を握り締めて走った。
ザクッ、ザクッ、と薄く積もった雪を踏み抜く音が、やけに大きく耳へ響く。
「あっちだ! 探せ!」
背後から猟犬の遠吠えと馬のいななきが聞こえた。木々の隙間を縫うように、追っ手が掲げる松明の炎も迫っている。
エマは太い立ち枯れの木の陰へ転がり込み、白く濁る荒い息を両手で押さえた。
そっと振り返る。
木立の向こうには、生まれてからずっと暮らしてきた屋敷が見えた。
薔薇の家紋が刻まれた門の脇には、冷たい石造りの墓所がある。そこには母と、埋葬されたばかりの父が眠っている…。
「お父様……。逃げるが勝ちって言葉がありますが、間違いなく、今がその時かなって」
震える唇で軽口を叩いてみるが、大粒の涙がぼろぼろとこぼれた。唯一持ってこれた形見、ロケットペンダントにそっと触れた。家紋であるバラの紋章が刻まれている金のロケット。その中に、母と父の小さな肖像画、その横に<愛するかわいい娘へ>と刻まれた文字が光る。
「決して、領民を置いて逃げるわけではないんです。これは、その……今後の人生を前向きに検討した結果です」
誰に弁解しているのだろう。
だが、そうでも言っていなければ、足が動かなくなりそうだった。
「あの役立たずが逃げたわ! 早く捕まえなさい! 足を折ってでも、ヴェイン男爵のもとへ連れ戻すのよ!」
「ひっ……!」
継母ヘラの金切り声が遠くに聞こえ、エマは弾かれたように走り出した。
森を抜け、人気のない街道へ転がり出たところで、一台の幌馬車が現れた。
「ま、待ってください! お願いします!」
エマが泥と雪にまみれた両手を振ると、驚いた御者が手綱を引いた。
「危ないじゃないか!どうしたんだ、こんな夜更けに!」
「き、北へ向かっているんですよね? お願いです。私も乗せていただけませんか!」
震える手で金貨を差し出すと、御者は怪訝そうにエマを見たものの、黙って荷台を指した。
木箱の隙間へ転がり込むと、馬車が動き出した。
◇
幌馬車が大きく揺れ、エマは目を開けた。
馬車は北部の深い森へ差しかかっていた。追っ手を恐れたエマは、村へ入る前に降ろしてもらうことにした。
「本当にここでいいのか? この森は、出るぞ」
「ゆ、幽霊が?」
「魔獣だよ、ま・じゅ・う!」
まさかそんな森に潜伏するとは思わないだろうから、いい隠れ蓑になるだろう。
そう考えたエマは森に入ることにした。
「この道をまっすぐに行くと、炭焼き小屋があったはずだが…本当に大丈夫かい?」
御者は心配そうに見つめ、固いパンと毛布、それにランプをひとつエマにくれたのだった。
エマは小さなランプを頼りに森を歩いた。朽ちた炭焼き小屋を見つけて、身を縮めていると、暗闇の中に赤い目が浮かんだ。低い唸り声が近づいてくる。
「……!」
エマが毛布を頭からかぶった瞬間、乾いた銃声が森へ響いた。
魔獣が悲鳴を上げ、赤い目が闇の向こうへ逃げていく。
恐る恐る外を覗いてみたが、人影は見当たらなかった。
二日目。
幼い頃に森番から教わった知識を頼りに、雪をかき分けて木の実や食べられるキノコを探した。
だが、真冬の森で見つかる食料など、ほんのわずかだ。
三日目の朝には、持っていた固いパンも、いよいよなくなりそうになっていた。
それなのに、一匹のリスが少し離れた場所からエマを見つめている。
「あなたも、お腹が空いているの?」
エマはパンを半分に割った。自分の分を一口だけかじり、残りをリスの前へ差し出す。
「私は働けるけど、あなたは仕事を探せないものね」
「――やれやれ」
明らかに男の声が聞こえ、エマは飛び上がった。
慌てて木の陰へ隠れたが、頭上から低い声が降ってくる。
「そこにいるのは分かってるよ」
(ですよねー!)
エマは、そっと木から顔を出した。
黒馬に跨っていたのは、濃紺の軍用外套をまとった長身の軍人だった。
「何もしない。怯えなくていい」
「…」
エマは、その軍人を上から下まで凝視した。フードと、鼻先まで届く軍装下衣の立ち襟に遮られ、見えるのは冬の空のような青い瞳だけだった。腰には軍刀と拳銃を下げている。
「…疑り深いねぇ」
「し、知らない男性を簡単に信用するほど、世間知らずではありませんっ」
つい三日前まで、屋敷からほとんど出たことのない令嬢だった。エマは、その事実からそっと目をそらした。
男もエマを上から下まで確認すると、フードの奥で小さく舌打ちをした。
「北へ向かう馬車に怪しい女が乗っていたと聞いて来てみれば……ただの行き倒れ寸前の迷子じゃないか」
「え……?」
「いや、なんでも。 それで?こんな森で何してるの?」
エマはビクビクしながらも、懸命に答えた。
「あの……北部で暮らそうと思っていて。住み込みで働ける場所を探しているのですが……」
「森の中で?」
「み、道に迷ったんです!」
男は面倒そうに息を吐き、森を抜ける道を指した。
「ここを北へ進めば、小さな村がある。赤い屋根のパン屋が、住み込みの売り子を探してるよ」
「パン屋さんが?」
「読み書きと計算ができれば、雇ってもらえるんじゃない?」
「できます。それはもう、タイプライターまで使えます!」
「タイプライター? 王都でも滅多に買えない高級品じゃないか」
(しまった)
「……! す、少しだけ、触ったことがある、的な?」
エマが肩を縮めても、男は追及しなかった。
「あの……どうして、見ず知らずの私にそこまで?」
「管轄内で行き倒れが出ると、後始末の仕事が増える。それだけだよ」
あまりにもそっけない。
けれど男は立ち去ろうとせず、エマが歩き出すのを待っている。
エマは胸元を押さえた。
生きていれば、道は必ず見つかる。もしかすると、これが父の言っていた道なのかもしれない。
「……行ってみます」
「なるべく早くしてくれるとありがたいね」
エマは深々と頭を下げ、教えられた道へ歩き出した。
そのとき、母のロケットペンダントが、コートのポケットから音もなく滑り落ちた。
雪の上で、金色のロケットがきらりと光る。
「落としたよ」
男は馬から降り、黒い革手袋に包まれた手でロケットを拾い上げた。
表面に刻まれているのは、一輪の薔薇。
ウィンター家の紋章だ。
青い瞳が、ほんの一瞬だけ鋭くなる。
「あっ……!」
エマは慌てて駆け戻り、差し出されたロケットを両手で受け取った。
「ありがとうございます!」
「…別に」
男はそれ以上何も聞かず、再び馬へ跨った。
エマはロケットを大切にポケットへ戻し、今度こそパン屋へ向かって歩き出す。途中で振り返ると、男はまだこちらを見ていた。
目が合うと、早く行けと言うようにシッシっと片手を振る。
エマは頭を下げ、森を抜ける道へ進んだ。
◇
森を抜けると、赤い屋根のパン屋が見つかった。
エマが扉を開けると、カラン、と乾いた鐘が鳴る。中には、老夫婦が暖炉の前でくつろいで座っていた。
「あの……こちらで、住み込みの売り子を探していると聞いて……」
「まあ! ひどい格好じゃないか。早く火のそばへ!」
老婦人は泥まみれのエマを暖炉の前へ座らせ、温かいスープと焼きたてのパンを差し出した。
「誰に聞いたんだい?」
「黒い軍服を着た、青い目の方です」
老夫婦は一瞬だけ顔を見合わせた。
「そうかい。それじゃあ、詳しい話は食べてからにしよう」
温かいスープが喉を通った。
凍りついていた身体が内側から溶け、自分がまだ生きていることを、エマはようやく実感した。
「名前は?」
「エマです」
「姓は?」
エマは、母のロケットを握り締めた。
「……ありません。ただの、エマです」
「そうかい」
老婦人は何も追及せず、新しいパンをエマの前へ置いた。
「それなら今日から、うちのエマだね」
焼きたてのパンから立ち上る湯気が、冷えきった頬を優しく包んだ。
エマは涙を浮かべながら、胸元のロケットへ語りかけた。
(生きていれば、なんとかなるよね)
エマはグッと力を入れて口角を上げた。
(そうだよね、お父様)
「さぁお食べ、温かいうちに」
エマはパンにかぶりついた。両頬がまるでリスのように膨らむまで口に含み続け、そして堪えきれずに涙が溢れた。悟られたくなくて下を向くが止まらず、老婦人は困ったようにエマを撫で続けたのだった。
「怖かっただろう。もう大丈夫。ゆっくりお食べ」
その手は、まるでマーサのように温かった。
リアクションやブックマーク、ありがとうございます!少しだけ改稿してます。お父さんの部屋から変な匂いがする点を追加しました!




