プロローグ:特務部隊の死神と、呪われた空飛ぶ令嬢の契約結婚
「――この婚約は、あくまで契約だ」
重厚な調度品に囲まれた豪華な執務室。
革張りのソファに気だるげに腰を下ろした漆黒の軍服の男が、私を膝の上に乗せたまま、そんなことをサラリと言った。
その両手は私の腰に絡みつき、顔は息が触れ合うほどに近い。
(!?)
今、契約婚約って……言った?
契約ってことは…
そこに愛もなければ、夫婦関係もない……。
そう言いながらも彼の顔は私のすぐ横にあり、たくましい腕はガッチリと私の腰を抱え込んで離さない。
なんでこんなに近いの!?
てゆーか……契約であったとしても、婚約するなんて一言も言ってないんですが!?
私は、彼をキッと睨みあげた。
「た、ただの契約なら、まずはこの手を離してください! ち、近いんですってば!!」
軍帽を目深にかぶり、鼻先まで届く立ち襟で口元を隠した無骨な男。見えるのは、冬の海のように澄んだ青い瞳だけ。
その青い瞳が、私の抗議を受けてわずかに細められた。
「……あ、そう? じゃ、お望み通りに?」
「え?」
ひょい、と私の腰から男の腕が離れた。
その瞬間――。
「……待って待って。ちょっと待って!?」
部屋の壁に飾られた大きな姿見に、一人の少女が映る。
長い蜂蜜色の髪が、まるで水中にいるかのように重力を失ってふわりと波打っていた。黒めがちな大きな瞳が、限界まで見開かれてパニックを起こしている。
うん。
浮いてる。
あれは、どう見たって、私。
あの浮いてる人は、私。
私。
浮いてるぅぅぅぅ!!!!?
「え、嘘でしょ!? 」
空中で細い手足をバタバタと泳がせた、その時。
私の足から、初任給で買ったお気に入りのぺたんこ靴がスポッと抜け落ちた。
ポトゥン……。
静寂に包まれた執務室に、なんとも間抜けな音が響く。
そして、重しを失った私の身体は、容赦なく上空――もとい、天井へと吸い寄せられていき……。
ゴンッ!!!
間の抜けた鈍い音が、静かな執務室に虚しく響き渡った。
「……いったぁっ!!」
そのまま、私の後頭部は無情にも天井へと押しつけられた。
両手をばたつかせても、身体はびくともしない。それどころか、じわじわと天井へ吸い寄せられていく。
「だから言ったでしょ。暴れると、そうなるって」
はるか下――一人掛けのソファから、気だるげな男の声がした。
男は面倒くさそうに片手を伸ばすと、宙に浮いた私の足首を、ひょいとつかんだ。
「ほら、降りておいで」
「きゃっ……!」
ぐいっと引き戻され、私はふたたび男の膝の上へ、すとんと落とされた。
見下ろせば、先ほど抜け落ちた靴が、床にぽつんと転がっている。
足の甲の小さなリボンが、やけに遠い。
――そう。つまり今、私の身体は、ひとりでに宙へ浮いてしまうのだ。
私が眉を限界まで真ん中に寄せ、呆然としていると、向かいの長椅子から冷ややかな声が飛んだ。
白衣を着た神経質そうな若い魔法使い――シリル・グレイが、カリカリと走らせていた羽ペンを止め、眼鏡を押し上げる。
「全く。だからさっきから申し上げてるじゃないですか。あなたは今、彼の重しなしでは空に浮いてしまう。だから、ここで暮らせと言ってるのです。」
「ちょ、え? ちょっとすみません……てか全然話についていけていないんですけど、今って私のお話をしています?」
「そうですよ。何を言っているんですか。あなたが『未婚の男女が同じ屋敷で暮らしたら、恋人だと勘違いされるから帰る』って、駄々をこねたんでしょう?」
シリルは呆れたようにため息をついた。
「呪いを解く薬が完成するまでには、時間がかかります。だから、いっそ二人を婚約者ということにして、同じ屋敷で暮らせばいい。そういう話になったんです。今度こそ、ご理解いただけました?」
「ごめんなさい、ごめんなさい……そうでしたよね。うん……でも、それでも嘘の婚約だなんてやっぱり無理です! とりあえず一旦、帰って――」
「あなた、馬鹿なんですか? そんな状態で、帰れるわけがないでしょう」
ぴしゃりと言われて、私は言葉に詰まった。
……確かに、その通りだ。一歩でも外へ出れば、この身体は空へ流されてしまう。
「だいたい、どうして私がこんなことに……」
「どうして、って」
膝の上の私を抱え直しながら、軍人が気だるげに言う。
「君が、俺を庇ったから?」
「っ……」
そうだ。忘れるはずもない。
今日、この軍人を狙って投げつけられた呪薬を、私はとっさに身体で庇って浴びた。
そのせいで――身体が浮くようになった。屋外へ出れば上空まで流され、呪いが切れた瞬間、地上へ落下して命を落とす。
「……あんなの、考えるより先に、身体が勝手に動いただけです」
「うん。だから、責任は取るよ」
男はあっさりそう言って、また浮かんでいこうとする私の腰を、片腕でがっちりと抱え込んだ。長い蜂蜜色の髪を、踏まないよう丁寧に横へ流してくれる。
悔しいが、今度はもう「離せ」とは言えない。
この不安定に浮かぶ身体を、地上へ繋ぎとめておける『重し』は、今この場で、彼しかいないのだ。
「ん? なんだこれ。……なんか、すっごい甘い匂いがする。香水つけてる?」
「つ、つけてないです……ていうか! 近い近い! 離れてくださいっ!!」
軍人が、私の首筋にいきなり鼻を寄せてきた。
真っ赤になってじたばた暴れる私を見て、彼は心外そうに肩をすくめる。
「そんなに警戒しなくても、取って食ったりしないよ。というかこんなお子様に本気で恋するわけがないだろ? あくまで『婚約者のフリ』っていう契約だからね。俺は軍人だ。契約を破ることは、しない」
「お、お子様って……! わかってます! 私だって、顔を隠したあなたみたいな不審者、絶対に好きになったりしないから安心してください!」
「はは、不審者か。命の恩人にひどい言われようだなぁ」
くつくつと喉を鳴らして笑う彼から逃れようともがく私をものともせず、彼は視線だけをシリルへ向ける。
「で、解呪薬はどれくらいで作れる。彼女を、いつまでもこんな危険な状態にしておくわけにはいかない」
「これは初めて見る術式です。今日明日でとは無理ですよ。……そもそも、この呪いを解けるのは、今のところ私だけです。知っての通り、私には他にも仕事はたくさんあるんですから急かさないでくださいよ、領主様」
ん・・・?
待って。今、なんて?
――領主様。
その一言に、私の動きがぴたりと止まった。
「……え、ちょっと待って。今、領主様って言いまし……た?」
シリルが、心底面倒そうに目を細める。
「なんだ。まだ身分を明かしていなかったんですか」
「き、聞いてません! そもそも私、この人の素顔すら見たことないんですけど!? と、どうして顔を隠してるんですか?!」
そうだ。領主様というなら、なぜ顔を隠しているんだ。私は至極真っ当な質問を投げかけると、彼はなぜかフッと笑って見せた。
「……俺に惚れる女が多いから? 君みたいに」
「は、はぁっ……!? わ、私、絶対好きにならないって言ったばかりじゃないですか!」
「――なんてのは冗談だよ。前線が長くてね。この制服に慣れちゃって、こうしてると落ち着くんだ」
男は空いた手で軍帽を取り、軽く頭を振った。さらりとした銀灰色の髪が、額に落ちる。
続いて襟に指をかけ、口元を隠していた立ち襟を、ぐいと引き下げた。
現れた顔を見て、私は思わず息をのむ。
驚くほど、整った顔だった。
薄い唇の端が、わずかに持ち上がる。冬の海のように澄んだ青い瞳が、まっすぐ私を見据えた。
「……きちんと名乗っていなかったね。ロビン・ブラックウッド。27歳。一応……辺境伯?」
「つ・ま・り。あなたが今乗っているのは、この地を治める辺境伯様の膝の上、というわけですよ」
シリルが、追い打ちをかけるように続けた。
「数年前の大戦では、国王陛下直属の『特務部隊』隊長。敵地への単独潜入、要人暗殺の阻止……前線で『死神』とまで恐れられた、帝国軍の最高戦力。それが、この男の正体です」
「し、死神……!?」
思わず身を強張らせた私を見て、ロビンが――ふっと、笑った。
その笑顔は、“死神”なんて異名が嘘のように、人懐っこい大型犬みたいで。
ぼんっ、と音がしそうなほど、私の顔が真っ赤になった。
「あ、赤くなった。照れてんの?」
「て、照れてません!」
「ふうん」
ロビンは面白そうに私の顔を覗き込むと、その耳元で、ことさら低くささやいた。
「――残念だけど、君はもう、この城からは出られない。呪いが解けるまで、俺のそばで、大人しく婚約者のフリでもしててよ。……ね?」
甘く言い含めるような声に、私の背筋がぞくりと震える。
冷徹な“死神”の顔と、今の、蕩けるような甘さ。どちらが本当の彼なのか、まるで掴めない。
――だめだ。流されてはいけない。
ここで頷いたら最後、なし崩しに、何もかも決まってしまう。
私は、ぐっと奥歯を噛みしめた。そして深く息を吸い、意を決したように顔を上げる。
「……とりあえず、一回帰ってもいいですか?」
「「だーかーらー!」」
冷徹な死神と、冷ややかな魔法使い。正反対のはずの二人の声が、この時だけ、綺麗に重なった。
「もうっ、待ってってば……!」
どうして、こんなことになってしまったんだろう。
半年前まで、私はただの――。
また一から説明を始めたシリルの声を聞き流しながら、私は、ここへ至るまでの出来事を、そっと思い返していた。
――そんなエマの横顔を、ロビンはじっと見つめていた。
むくれて唇を尖らせる少女の横顔に、胸の奥がむず痒くなるような、妙な苛立ちを覚える。
(……なんだ、この感じ)
けれどその正体が分からず、彼はただ面倒そうに、それを呑み込んだ。
誤字脱字を直して、冒頭少し追加しました!




