『私の可愛い娘。お前をずっと見守っている』――頬を撫でる風。
王都にあるウィンター家のタウンハウス。
その地下牢で、エマは手首と両足を太いロープでぐるぐる巻きにされ、まるで蓑虫のように転がっていた。
「ううっ……きつい……っ。お父様って、なんであんな女と結婚なさったのかしら!!!」
泣いている場合ではない。
このままでは、ロビンが自分のために脅迫に屈してしまう。彼がエスターと無理やり結婚させられ、あの鉱山が奪われてしまうのだ。
(絶対に……絶対に、そんなことさせない……!!)
エマは涙を振り払うように首を振り、必死に周囲を見回した。
どこかに通気口があるはずよ。エマは必死で天井を見た。
身を捩って縄を抜け出そうと暴れ出したが、ロープはびくともしない。どうやって脱出すべきか必死に頭を悩ませていると、地下牢の向こうから、くぐもった声が聞こえてきた。
『……エマ様!? ご無事ですか! エマ様!聞こえますか!!』
「シリル様!? 聞こえるわ! 私、ここよ! ここにいるの! 閉じ込められているの!」
密偵としてタウンハウスを嗅ぎ回っていたシリルが、扉の向こうから呼びかけてきたのだ。
『あなたが運び込まれていた時に助けに行きたかったのですが、見張りが! 今やっと奴らが城へ向かいました! 出るなら今――くっ、駄目だ。この地下牢には強力な魔法錠がかかっています。外からは、専用の魔法鍵がないと開けられません!』
「そんな……っ!」
『仕方ありません。僕が上の通気口に回って、ナイフを落とします! それでロープを切って!』
「わかったわ!」
エマは祈るようにナイフがくるのを待った。
まるで1分1秒がとても遅く感じて、何度も通気口を見上げてはため息をつく。こうしている間にも、ヘラが王宮へ近づいているだろう。
まだだろうか、ともう一度首を捻って通気口を見上げた、その時だった。
ヒュンッ!
ガキンッ!!
暗闇の中、エマの顔のすぐ横の石畳に、鋭いナイフが突き刺さった。
「ぎゃーっ!! ちょっと! もっと考えて落としてよ! 死ぬかと思ったわ!」
『無理ですって! ていうか離れておいてくださいよ!』
エマが体を捩っていなかったら、あわやの距離にナイフが突き刺さっている。エマは蒼白になりながらも通気口を睨んだ。
「〜〜! もうっ! 確かにそうなんだけど!」
『いいから早く縄を解いてください! 私の体のサイズでは、そこへは入れません!』
エマは這いつくばり、床に刺さったナイフの柄を必死で口に咥えた。
『裏帳簿は発見しました! カエサルとの契約や呪術の証拠は見つかりませんでしたが、仕方ありません! 奴らが戻ってくる前に城へ急ぎましょう!』
エマはシリルの話を聞きながら、必死でロープを切ろうと身体をよじった。刃先を腕のロープに当て、ギリギリと擦り切っていく。手首の拘束が解けると、すぐに足のロープも切り落とした。
「はぁ、はぁ……切れたわ! シリル様、私、足枷を外してそっちへ浮いていく!」
ガチャン!
重い足枷を外した途端、エマの身体が勢いよく宙へ浮かび上がった。
そのまま通気口の中へと突っ込んでいくが、途中でふと、風の流れがおかしいことに気づいたのだ。
(ちょっと待って。この通気口、真っ直ぐ上じゃなくて、変な横道に繋がってるわ……)
エマは腕を伸ばして、横へ枝分かれした通気路の縁を掴んだ。
『エマ様!? まだですか?』
「待ってシリル様。……あれ? 何この部屋!」
エマは浮力を利用して斜めの通気路を進み、壁の裏側に隠されていた『新しい部屋』を発見した。
そこは、埃にまみれた秘密の実験室のような場所で、小さな魔法ランプが置かれており、ほのかに中を照らしている。
「ううっ、臭い……。何、この匂い……」
鼻を突く強烈な腐臭に、エマは思わず口元を押さえた。
部屋の隅には、翼の生えた魔物の死骸が転がっている。その周囲には怪しげな薬品の瓶がいくつも並び、中央の机には一冊の古びた本が置かれていた。
ランプの明かりを頼りに、エマは古びた禁書をめくっていく。
魔獣の血、骨、内臓――。
そこには、それらを用いて人の身体に異常を引き起こす、数々の薬の製法が記されていた。
「……これ……」
ある頁で、エマの手が止まった。
描かれているのは、翼を持つ魔獣だった。
『飛翔種の魔獣から抽出した魔力を人へ取り込ませることで、肉体を一時的に地上の引力から解放する――』
「これ……私にかかった薬……?」
エマはごくりと生唾を飲み込み、恐る恐る振り返った。死んだ魔獣の目と合う。
あの日、街を襲った男が放った薬。そして、その飛沫を浴びたことで、自分の身体は宙へ浮くようになった。
「ひっ!」
『エマ様?! 大丈夫ですか!?』
「シリル様……! 本と瓶と、魔物の死骸があるわ! 浮遊薬の作り方も載ってる……ロビンさんを殺そうとした薬……たぶん、これを元に作られてる!」
『なんですって!? その本、なんてタイトルですか!?』
「えっと……『魔獣の血と肉を使った呪術』って書いてあるわ!」
『エマ様、やりましたね! それです! 王宮から盗まれたという失われた禁書は!』
シリルの声が興奮に上ずった。
震える指で頁をめくった、その時だった。
腐った肉の臭いの奥に、別の匂いが混じっていることに気づいた。
薬草の匂いに混じる、何かを焦がしたような、鼻の奥に残る強い臭い。
「……え?」
エマの胸が、どくんと鳴った。
知っている。
この匂いを、エマは知っている。
(これ……お父様の部屋に漂っていた匂い……?)
父が体調を崩してから、寝室にはいつもこの匂いがしていた。
あの頃は、ヘラが用意した薬の匂いなのだろうと、それ以上考えたことなどなかった。
「どうして……ここで……?」
背筋に、ぞくりと冷たいものが走った。
エマは、胸騒ぎを抑えることができないまま、禁書をさらにめくっていく。
やがて、付箋が貼られたページで、指が止まった。
「…………」
そこには、こう記されていた。
『対象を自然な病死に見せかけ、徐々に衰弱死させる毒薬の製法』
エマの指先が震えた。
材料の一つひとつ。その調合法。そして薬を煮詰める際に生じるという――独特の焦げたような臭い。
「……うそ」
さらにその横には、薬品の配合量を細かく計算した書き込みが残されていた。
見間違えるはずがない。
ヘラの、几帳面な筆跡だった。
机の上には、黒ずんだ残滓のこびりついた空の小瓶まで転がっている。
(お父様の部屋でしていた、あの変な匂い……)
ばらばらだった記憶が、一本の線になった。
(! 病気じゃ、なかった……?)
父は日に日に痩せ細り、最後には骨と皮ばかりになった。
誰もが病だと思っていた。
エマ自身も、そう信じていた。
(待って、これ……何これ。お義母様がこれを……? ……あぁ! お父様!!!)
「うぅっ……お父様……!」
真実を悟った瞬間、エマの目から怒りと悲しみの涙がぼろぼろと溢れ出した。
優しい父を苦しめ、少しずつ命を奪った。
そして今度は、ロビンまで殺そうとした。
許せない。
絶対に、許してはいけない。
『エマ様! 泣いている場合ではありませんよ! その本と証拠の瓶を持って、すぐにこちらへ戻ってきてください! 奴らはもう、馬車で王宮へ出発しました。出てくるなら今です!』
シリルの切羽詰まった声に、エマははっと顔を上げた。
「……分かったわ」
乱暴に涙を拭う。
そして禁書と小瓶を胸に強く抱き締め、決意を宿した瞳で、キッと睨みあげた。
「今行くわ!」
エマは少し迷って、ドレスを引きちぎった。
そこに本と瓶を置いてまとめると、背中に背負い、胸の前で結びつける。そして再び浮力を利用して通気口を飛び出した。
――が。
「きゃああああっ!?」
飛び出した先は、シリルのいる部屋ではなく、建物の外――屋根の上だった。
おまけに、重りである足枷は地下牢に置いたままだ。呪いの効果が日々の経過で弱まっていたため猛スピードで空の彼方へ飛んでいくことはなかったが、それでもエマの身体は、夜空に向かってどんどん高く昇っていく。
「わーっ、エマ様!? 何やってるんですか!」
窓から顔を出したシリルが悲鳴を上げた。
「やだやだ! 止まらないわ!」
エマは空中で必死に身をよじった。
その時、ふと、国境の森で飛んで移動した時の感覚を思い出す。
エマは空中で泳ぐように回転すると、近くの建物の壁を蹴った。ふわりと身体が前へ進み、絶妙なバランスで空を滑空し始める。
「い、いけるわ!」
『何がですか!?』
「シリル様! 私、このまま王宮まで飛ぶわ! 馬でついてきて!」
『何言ってるんですか! 早くそこの木にでも捕まって一旦止まって下さい!』
が、しかし。
エマは木に捕まるどころか、一旦木にしがみついて、また飛び立った。
「いける!!!」
『いけるわけないだろうがぁーーっ!!』
ちょうど城は小高い丘の上にあり、上がっていくエマにとっても都合がいい。
シリルの絶叫を背に受けながら、エマは器用に壁から壁へと蹴り飛び、夜風に乗って王宮へと飛んでいった。
短いボブになった髪と、濃紺のドレスを夜風に靡かせながら空を飛ぶ。
「まったく! 我らが辺境伯閣下の婚約者様は、ムササビにでもなったんですか!?」
シリルは悪態をつきながらも、暗闇で休ませていた馬にまたがり、エマを追って駆け出した。
◇◇◇
「い、痛いなぁもう!!」
ようやく王宮に辿り着いたエマは、またもや浮力と戦っていた。
せっかく辿り着いたというのに、足枷を外した身体がフワフワと浮いてしまい、降りることができないのだ。
必死で声をあげたが、地上の誰一人として上空のエマに気づかない。エマは近場の木を蹴り、王宮のレンガにへばりつくと、レンガとレンガの間にある小さな隙間に指をひっかけ、力の限りでへばりつきながら登り始めた。
その時、突風が吹いた。
一瞬、エマの体が壁から引き剥がされ、宙に放り出される。
「きゃあああ!!!!」
ビリリリ!!!
木の枝にドレスが引っかかり、無惨に裂けた。だがそれが抑止力となって、エマは咄嗟に太い枝を掴むことができた。
落下と宙吊りの恐怖で全身がすくむ。だが、エマは止まらなかった。ぎゅっと目を閉じ、決意を込めて木を蹴り上げると、もう一度王宮のレンガへと飛び移る。
一度風に煽られ、木に移り、もう一度蹴り上げて壁にしがみつく。
――その反動を利用したことで、さらに上へと登ることができた。
見上げると、パーティが開かれているホールの真上、ガラス張りの天窓が見えた。
「やったわ! あのガラス天井まで辿り着ければ、割って中に入れる!」
轟々と、容赦ない風が吹き荒れる。
エマの頬は煤で汚れ、髪は短く切り刻まれ、ドレスも無惨にちぎれている。指先からは血が滲み、何度も壁や木を蹴った足は内出血を起こして青く黒ずんでいた。全身の痛みに、エマの体は悲鳴をあげていた。
「お父様、お母様! お願い! 力を貸して!!」
エマが祈るように叫んだ、その瞬間だった。
ゴォォォッ、と彼女の行く手を阻んでいた荒々しい風が、ふっと柔らかくなった。
風は下から上へと巻き起こり、まるでエマの小さな背中をそっと包み込んで押し上げてくれるような感覚があった。
見えない突風の後押しを受け、エマの身体はふわりと浮かび上がり、再びしっかりと王宮のレンガへへばりつくことができた。
エマがグッと体に力を入れて上半身を起こすと、また風が優しく吹いた。
その時だった。
あの日、最後に聞いた父の声が、エマの心に響いた。
『――エマ、私の可愛い娘。お前をずっと、見守っている』
頬を撫でる風が、傷を消していくように優しい。
エマの目から、温かい涙が溢れ出した。
そんなはずはないと、わかっている。
父と母はすでに死に、この世にはいないから、声が聞こえる訳はないのだ。
だけどもエマは今、確かに何かを感じ取ったのだ。エマはたまらなくなって一度目を閉じた。
「私、行くわ。お父様、お母様」
エマはぐっとレンガの隙間に血の滲む指をかけると、もう一度、その瞳に決意を込めて前を見据えた。
その瞳はキラキラと輝き、屋根の向こうに煌めくガラス天井が見える。
「ウィンター家のど根性、今見せてやるんだから!!! おぉりゃあああっ!!!」
見えない風に背中を押されながら、エマは必死で腕を動かし続けた。
◇◇◇
その頃、王宮の大広間では。
「……なんじゃ。昨日はエマ嬢と婚約すると言っておきながら、話が変わったのか?」
玉座に座る国王が、不審そうに眉をひそめていた。
王の御前には、ロビンとエスターの二人がかしずいている。少し離れた場所から、ヘラが勝ち誇ったような笑みを浮かべて見守っていた。
「はい、陛下。両家の話し合いの結果、私は……」
ロビンが、血の滲むような思いで屈辱の言葉を口にしようとした、その時だった。
どん!!! どんどんどん!!!
頭上から、すさまじい激突音が響き渡った。
見上げると、大広間の高い天井を覆うガラス窓に黒い塊がへばりつき、美しい星空を遮っている。
「ひぃっ! ま、魔物よーっ!!」
貴婦人が悲鳴を上げて卒倒した。
天井のガラスに張り付いているのは、黒い大きなムササビのような魔物――。
必死で、ガラスを叩いている。
「エマ……?」
どんどんっ!
エマは上空へ飛ばされまいと必死に窓枠にしがみつきながら、外から窓ガラスを叩いていた。短い髪が風に煽られ、その顔は必死だ。叩き割って中に入りたいのに、エマの腕力ではガラスが割れないのだ。
「エマ!!」
ロビンは弾かれたように立ち上がった。
国王の御前であることも忘れ、ロビンは近くの柱に掛けられていた豪奢なベルベットのカーテンに飛びついた。
陸軍の特殊部隊で鍛え上げられた尋常ではない筋力で、巨大なカーテンを一気によじ登っていく。あっという間に数十メートルの天井に到達すると、ロビンは叫んだ。
「目を閉じろ!」
エマが目を閉じた瞬間、躊躇うことなく窓ガラスへ強烈な肘鉄を叩き込んだ。
パリンッ!!
粉々に砕け散るガラスの雨。
だがその瞬間、限界まで窓枠にしがみついていたエマの指からついに力が抜け、彼女の小さな身体は、夜の闇が広がる空へと放り出されてしまった。
「きゃああああ!!!」
「エマ!!!!」
ロビンの喉から、血を吐くような絶叫が響いた。
彼は一瞬の迷いもなく、窓枠から真っ暗な外へと飛び出した。残ったガラスの破片を自らの軍服と身体で砕き割りながら、宙へ投げ出されたエマに向かって一直線に飛び上がる。
「捕まるんだ!!」
月明かりに照らされた夜空の中。
二人は空中で必死に手を伸ばし合い――ガシッ!と、お互いの手を強く掴み合った。
ロビンはその反動を利用して、グッと力強くエマを自身の胸元へと引き寄せた。
「ロビンさんっ……!」
「エマ……っ! よかった……!」
ロビンは腕の中のエマを、己の骨が折れるのではないかと思うほど強く、必死に抱きしめた。
シャンデリアの光を反射して、粉々になったガラスの破片がきらきらと星屑のように降り注いでいる。
その光の雨の中を、二人はゆっくりと、ホールの中央へ向かって降り立っていった。




