今宵のファーストダンスの栄誉を、私にいただけませんかーー夜空のワルツと、理性を飛ばした辺境伯の略奪。――
すれ違ったまま迎えた、祝賀パーティの二日目。
シリルがウィンター家のタウンハウスを調べている間、怪しまれないよう、エマとロビンは今夜もパーティへ出席することになっていた。
エマが選んだのは、ロビンから贈られたドレスのうちの一着だった。
深い濃紺の生地に、小さな宝石がふんだんに散りばめられているオフショルダードレス。身じろぎするたびに光が瞬き、まるで夜空を纏っているようだった。
鏡の前で、スカートをそっと広げる。
(……似合うって、言ってくれるかな)
昨日の言葉は、まだ冷たい棘のように胸に刺さっている。
それでも、迎えに来た彼と目が合えば、いつものように笑えるかもしれない。そう思って、控室の扉を開けた。
廊下に立っていたロビンが、振り返る。
青い瞳がエマを捉え、一瞬だけ動きを止めた。
「……支度、できた?」
「はい」
その先の言葉を、エマは待った。
けれどロビンはすっと視線を落とし、彼女の足元を確かめただけだった。
「足枷は?」
「……着けています」
「そ。じゃあ、行こう」
差し出された腕に、そっと手を添える。
いつもと同じはずのその温もりは、今夜はひどく遠く感じられた。
◇◇◇
会場へ入ると、幾つもの視線がエマに集まった。
「あの方、昨日の……」
「今夜はまた、随分と綺麗なドレスね」
ヒソヒソとした囁きにエマが肩を強張らせていると、彼女の前へ、白い海軍礼服を完璧に着こなしたカエサルが進み出た。
「こんばんは、エマ嬢」
優雅に一礼した彼は、エマのドレスへ目を細めた。
「今夜はまるで夜空のようですね。その色、とてもよくお似合いだ」
「……ありがとうございます」
一番聞きたかった言葉だった。
けれど、胸の奥の重苦しさは少しも晴れなかった。
カエサルはエマの手を取り、その甲へ恭しく唇を寄せる。
「今宵のファーストダンスの栄誉を、私にいただけませんか」
「えっ……」
エマは隣のロビンを見上げた。
いつもなら、彼の方から手を差し出し、カエサルから自分を隠してくれる。その逞しい手に触れてさえいれば、重い足枷を外しても決して怖くはなかった。
けれど今夜、ロビンは動かなかった。
エマとカエサルの繋がれた手を見て、ふいっと目を逸らしてしまう。
「……踊ってきたら?」
昨夜の冷たい言葉が、蘇った。
――俺なんかに縛られる必要はない。
エマの指先が、冷たくなる。
(そんなこと、言ってほしかったんじゃないのに)
好きだと言ったのは、ロビンの方だった。
何度も助けてくれて、抱き留めてくれて、これからも一緒にいられると思わせてくれた。
なのに、エマの返事を待つこともせず、今度は他の男のところへ行けと言う。隣にいるのに、こちらを見てくれもしない。
「……はい。お願いします」
エマは、決心したようにカエサルに向き直った。
「ただ、あの、足枷が重くて、でも取ると浮いてしまうので……」
「存じています。支えても?」
エマは小さく頷いた。
ロビンの腕から手を離し、近くのソファの端へ腰を下ろす。
ドレスの裾を持ち上げ、足枷の留め金を外した。
最後の一つが外れた途端、身体がふわりと軽くなる。とっさに、カエサルの腕がその細い腰をガッチリと抱き留めた。
「大丈夫です。私に掴まって」
エマは彼の肩に手を置いた。
優雅なワルツが流れ始める。
カエサルは彼女を支えたまま、フロアの中央へ進み出た。
床を蹴らなくても、身体がふんわりと滑る。足元にいつもの重さがないだけで、踊ることはこんなに楽になるのかと、エマは驚いた。
「これは、素敵なダンスになりそうだ」
カエサルが笑う。
「浮力があるから、こんなこともできますね」
カエサルが楽しげに囁き、エマの細い腰を両手で掴むと、高く掲げるようにふわりと持ち上げた。
通常なら不可能な高さでの、美しいリフト。
「わ……!」
濃紺のスカートが、花が咲くように広がる。
散りばめられた宝石がシャンデリアの光を受け、星屑のように煌めいた。
周囲の貴族たちから、感嘆の歓声が上がる。
「なんて美しい……!」
「まるで、本当に夜空を踊っているようだわ」
カエサルはエマを引き寄せ、ゆっくりと回った。
揺れた身体を支え直す腕は太く、海軍礼服の袖がピンと張っている。
エマは思わずクスッと笑った。
空へ浮いてしまったあの日から、怖いことばかりだった。けれど今だけは、この『浮遊の呪い』すら綺麗に見える。
その笑顔を、壁際のロビンがじっと見ていた。
黒い手袋の中で、ギリッと拳が握り込まれる。
「ヴェイン男爵とブラックウッド辺境伯とで、婚約を争っているそうよ」
「男爵とのお話は、継母が勝手に進めたものと聞いたけれど」
「でも、ご覧になって。ずいぶん楽しそうですわ」
他の男の腕の中で、エマが笑っている。
自分が毎日支えてきたその華奢な身体を、今はカエサルが完璧に支えている。
できるのだ。
自分でなくても。
ロビンは視線を落とした。
彼女には、金も地位もあるカエサルの腕の中という『選べる未来』がある。
そう思ったから、昨夜はあんなことを言った。エマのために、それが正しいのだと自分に言い聞かせていた。
なのに、今すぐ二人の間へ割って入りたかった。彼女の手を取り、誰の目にも触れない場所へ連れて帰りたかった。
エマが自分の腕を離れた時の、あの喪失感ばかりがいつまでも手のひらに残っている。
やがて、曲が終わった。
盛大な拍手の中、カエサルはエマをフロアの端へエスコートし、ソファに座らせると、浮かないように足枷を膝の上にそっと置いてやった。
「楽しいひとときを、ありがとうございました」
「こちらこそ……」
「足枷をお着けしましょう。少し失礼します」
カエサルが膝を折る。
エマの裾へ手が伸び、その長い指がスカートの中に入る。そして細い足首に触れ、スカートから出てきた時。
「待てよ」
声は、思っていたよりも低く、重く響いた。
カエサルが顔を上げる。
いつの間にか二人の前へ来ていたロビンは、カエサルの手元を氷のように冷たい目で見下ろしたまま、短く言った。
「それは、俺の役目だ」
「エマ嬢は、私に任せてくださっていますが」
挑発するようなカエサルの言葉に、ロビンの顎がギリッと強張った。
彼はエマを見た。
「…………」
「だって、着けないと浮いてしまうから……って、きゃあっ!? な、何、急に!」
エマが言い終わるより早く、ロビンは彼女の身体をひょいと横抱きに抱え上げた。
「浮いてしまうなら、俺が支えているから大丈夫だ」
ロビンはカエサルの手から無骨な黒い足枷をひったくると、周囲の好奇の視線など一切気にも留めず、エマを抱え上げて足早にホールを歩き出した。
「ロビンさん……っ!?」
怒りを孕んだ荒々しい歩みに、エマの身体は腕の中で激しく上下に揺れる。たまらず見上げたエマを、ロビンは眉間に深い皺を寄せたまま、鋭く射抜いた。
「今は黙ってろ」
「……っ!」
地を這うような低い声。普段の余裕など微塵もない、その有無を言わせぬ剣幕に、エマは弾かれたように口を噤むことしかできなかった。
◇◇◇
人のいない休憩室へ入り、ロビンはエマをソファへ下ろした。
扉は少し開けたままにして、彼女の前に膝をつく。
「……足、出して」
エマはドレスの裾を少しだけ持ち上げた。
ロビンの手が、右の足首をそっと支える。いつものように足枷を添え、留め金へ指をかけた。
小さな金具が、かちりと鳴る。
けれど、留まらなかった。
もう一度動かした指が滑り、金具が手袋に引っかかってしまう。
「ロビンさん?」
「……ごめん。少し待って」
足枷を押さえる彼の手が、微かに震えていた。
エマは、その指を見つめた。
恐ろしい魔獣を倒し、自分を何度も強く抱き留めてくれた手が、こんな小さな留め金すら扱えずに震えている。
「……どうして、連れてきたんですか」
ロビンは答えなかった。
「踊っておいでって、言ったじゃないですか」
「……言ったね」
「カエサル様のことも考えたらいいって。私を突き放したのは、ロビンさんでしょう」
留め金から、彼の手が力なく離れた。
「楽しそうだったから」
「え?」
「……あいつと踊っている時、笑ってた」
ロビンが顔を上げる。
いつもは余裕に満ちている青い瞳が、今はエマの返事を恐れるように揺れ動いていた。
「俺には、もう……あんなふうに笑ってくれないのかと思った」
胸の奥が、ぎゅっと痛んだ。
けれど、すぐには何も言えなかった。昨夜から抱えていた悲しみと怒りが、喉を塞いでいる。
「だって……ロビンさんが、私を見てくれないから」
「エマ」
「今夜だって、このドレス……」
エマは、膝の上の濃紺の生地をギュッと握りしめた。
「ロビンさんがくれたものだから、着たんです。似合うって言ってくれるかなって。昨日のことも、ちゃんと話せるかなって……」
声が震えた。
堪えきれなくなった涙が一つ、夜空のような生地にポツリと落ちる。
「でも、何も言ってくれなくて。カエサル様に誘われた時も、目を逸らして……」
「……綺麗だった」
エマがハッと顔を上げる。
ロビンは自嘲するように唇を噛み、一度目を伏せた。
「控室から出てきた時から、ずっとだ。言おうとしたけど……お前のその顔を見たら、昨日言った『自由だ』なんて言葉、全部取り消したくなった」
「取り消せば、よかったじゃないですか」
「……うん」
彼の大きな肩が落ちた。
「君のためだって言いながら、君がどうしたいか、聞いてなかった。俺が突き放したのに、責めるようなことをした。……すまない。嫉妬した。……かっこ悪いな、俺」
その不器用で情けない本音に、エマの中で張り詰めていた糸がプツリと切れた。
「なんなんですか、もうっ!」
エマが声を上げると、ロビンが恐る恐る顔を上げた。彼を見つめるエマの大きな瞳には、今にもこぼれ落ちそうなほどいっぱいの涙が溜まっていた。
「お、お父様のことを調べないといけないのは、分かってます。シリル様が今、裏で調べてくれているのを待っているんですよね? その間は怪しまれないように、パーティに参加しなきゃいけないし……それにっ!」
エマはポロポロと涙をこぼしながら、ロビンをキッと睨みつけた。
「カエサル様のことも考えたらいいって、私を突き放したのはロビンさんじゃないですかっ!」
ロビンは黙って何も答えない。
「〜〜〜っ! なんなんですか! 好きと言ったり、もういいと言ったり! 私、ロビンさんが何を考えているのか、さっぱり分かりません!」
エマは乱暴に涙を拭いながら、声を張り上げた。
「わ、私が……なんで返事をできずにいるか、考えたことあるんですか!? ロビンさんが、ノエル様を……っ」
言いかけて、ハッとして口を噤んだ。
ロビンの顔が訝しげに揺れる。
「……ノエル、さま?」
その反応に、エマの心臓がヒュッと冷たくなった。
もし今、「忘れられないのだ」と言われたら。あの女性の代わりなのだと、認められてしまったら。
続きを聞く勇気が、なかった。
「エマ?」
「……ごめんなさい」
エマは彼の手元から右の足枷を奪い取ると、自分で素早く留め金を閉じた。
続けて左の足枷も着ける。
かちり、かちり。
小さな金属音だけが、静かな部屋に虚しく響いた。
立ち上がるエマを、ロビンの手がハッとして追いかけた。
けれど、その手は迷い、彼女を掴むことができなかった。
「エマ! どこへ行くんだ」
「放っておいてください!」
エマは振り返ることなく、休憩室の扉を開けて廊下へと飛び出していった。
あとに残されたロビンは、片膝をついたまま、呆然と開かれたドアを見つめていた。
空を掴んだ形の手のひらには、さっきまで支えていた彼女の細い足首の温かさが、痛いほど鮮明に残っている。
(ノエル、『様』……? まさかエマは、ノエルのことを……)
そこでようやく、ロビンは自分の致命的な過ちに気がついた。
思い返せば、エマは何度も不安そうな瞳で自分を見ていた。
それなのに、自分は勝手に卑屈になり、彼女の心を知ろうともしなかったのだ。
返事を待っていたつもりだった。だが、『君のためだ』などと綺麗な言い訳を並べて、一番伝えるべき言葉から逃げていたのは、自分の方だった。
「……くそっ」
ロビンは弾かれたように立ち上がった。
静かな廊下からは、カチャリ、カチャリと、重い足枷を引きずるようなエマの足音が遠ざかっていく。
もう、これ以上すれ違うのはご免だった。
ロビンは長い脚で一気に休憩室を飛び出すと、薄暗い廊下の先を足早に逃げていく小さな背中へ向かって、必死に声を張った。
「エマ!」
彼女は振り返らない。
それでも、今度は絶対に黙らなかった。
「……ノエルのこと、話をさせてくれ!エマ!」




