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空飛ぶ令嬢は逃げ出したい!~偽装婚約した元・特務部隊の辺境伯様(中身は過保護な大型犬)からの殺人的な溺愛~  作者: みょんたま


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23/31

今宵のファーストダンスの栄誉を、私にいただけませんかーー夜空のワルツと、理性を飛ばした辺境伯の略奪。――

 すれ違ったまま迎えた、祝賀パーティの二日目。

 シリルがウィンター家のタウンハウスを調べている間、怪しまれないよう、エマとロビンは今夜もパーティへ出席することになっていた。


 エマが選んだのは、ロビンから贈られたドレスのうちの一着だった。

 深い濃紺の生地に、小さな宝石がふんだんに散りばめられているオフショルダードレス。身じろぎするたびに光が瞬き、まるで夜空を纏っているようだった。

 鏡の前で、スカートをそっと広げる。


(……似合うって、言ってくれるかな)


 昨日の言葉は、まだ冷たい棘のように胸に刺さっている。

 それでも、迎えに来た彼と目が合えば、いつものように笑えるかもしれない。そう思って、控室の扉を開けた。

 廊下に立っていたロビンが、振り返る。

 青い瞳がエマを捉え、一瞬だけ動きを止めた。


「……支度、できた?」

「はい」


 その先の言葉を、エマは待った。

 けれどロビンはすっと視線を落とし、彼女の足元を確かめただけだった。


「足枷は?」

「……着けています」

「そ。じゃあ、行こう」


 差し出された腕に、そっと手を添える。

 いつもと同じはずのその温もりは、今夜はひどく遠く感じられた。


 ◇◇◇


 会場へ入ると、幾つもの視線がエマに集まった。


「あの方、昨日の……」

「今夜はまた、随分と綺麗なドレスね」


 ヒソヒソとした囁きにエマが肩を強張らせていると、彼女の前へ、白い海軍礼服を完璧に着こなしたカエサルが進み出た。


「こんばんは、エマ嬢」


 優雅に一礼した彼は、エマのドレスへ目を細めた。


「今夜はまるで夜空のようですね。その色、とてもよくお似合いだ」

「……ありがとうございます」


 一番聞きたかった言葉だった。

 けれど、胸の奥の重苦しさは少しも晴れなかった。

 カエサルはエマの手を取り、その甲へ恭しく唇を寄せる。


「今宵のファーストダンスの栄誉を、私にいただけませんか」

「えっ……」


 エマは隣のロビンを見上げた。

 いつもなら、彼の方から手を差し出し、カエサルから自分を隠してくれる。その逞しい手に触れてさえいれば、重い足枷を外しても決して怖くはなかった。

 けれど今夜、ロビンは動かなかった。

 エマとカエサルの繋がれた手を見て、ふいっと目を逸らしてしまう。


「……踊ってきたら?」


 昨夜の冷たい言葉が、蘇った。

 ――俺なんかに縛られる必要はない。


 エマの指先が、冷たくなる。


(そんなこと、言ってほしかったんじゃないのに)


 好きだと言ったのは、ロビンの方だった。

 何度も助けてくれて、抱き留めてくれて、これからも一緒にいられると思わせてくれた。

 なのに、エマの返事を待つこともせず、今度は他の男のところへ行けと言う。隣にいるのに、こちらを見てくれもしない。


「……はい。お願いします」


 エマは、決心したようにカエサルに向き直った。


「ただ、あの、足枷が重くて、でも取ると浮いてしまうので……」

「存じています。支えても?」


 エマは小さく頷いた。

 ロビンの腕から手を離し、近くのソファの端へ腰を下ろす。

 ドレスの裾を持ち上げ、足枷の留め金を外した。

 最後の一つが外れた途端、身体がふわりと軽くなる。とっさに、カエサルの腕がその細い腰をガッチリと抱き留めた。


「大丈夫です。私に掴まって」


 エマは彼の肩に手を置いた。

 優雅なワルツが流れ始める。

 カエサルは彼女を支えたまま、フロアの中央へ進み出た。

 床を蹴らなくても、身体がふんわりと滑る。足元にいつもの重さがないだけで、踊ることはこんなに楽になるのかと、エマは驚いた。


「これは、素敵なダンスになりそうだ」


 カエサルが笑う。


「浮力があるから、こんなこともできますね」


 カエサルが楽しげに囁き、エマの細い腰を両手で掴むと、高く掲げるようにふわりと持ち上げた。

 通常なら不可能な高さでの、美しいリフト。


「わ……!」


 濃紺のスカートが、花が咲くように広がる。

 散りばめられた宝石がシャンデリアの光を受け、星屑のように煌めいた。

 周囲の貴族たちから、感嘆の歓声が上がる。


「なんて美しい……!」

「まるで、本当に夜空を踊っているようだわ」


 カエサルはエマを引き寄せ、ゆっくりと回った。

 揺れた身体を支え直す腕は太く、海軍礼服の袖がピンと張っている。

 エマは思わずクスッと笑った。

 空へ浮いてしまったあの日から、怖いことばかりだった。けれど今だけは、この『浮遊の呪い』すら綺麗に見える。


 その笑顔を、壁際のロビンがじっと見ていた。

 黒い手袋の中で、ギリッと拳が握り込まれる。


「ヴェイン男爵とブラックウッド辺境伯とで、婚約を争っているそうよ」

「男爵とのお話は、継母が勝手に進めたものと聞いたけれど」

「でも、ご覧になって。ずいぶん楽しそうですわ」


 他の男の腕の中で、エマが笑っている。

 自分が毎日支えてきたその華奢な身体を、今はカエサルが完璧に支えている。


 できるのだ。

 自分でなくても。


 ロビンは視線を落とした。

 彼女には、金も地位もあるカエサルの腕の中という『選べる未来』がある。

 そう思ったから、昨夜はあんなことを言った。エマのために、それが正しいのだと自分に言い聞かせていた。

 なのに、今すぐ二人の間へ割って入りたかった。彼女の手を取り、誰の目にも触れない場所へ連れて帰りたかった。

 エマが自分の腕を離れた時の、あの喪失感ばかりがいつまでも手のひらに残っている。


 やがて、曲が終わった。

 盛大な拍手の中、カエサルはエマをフロアの端へエスコートし、ソファに座らせると、浮かないように足枷を膝の上にそっと置いてやった。


「楽しいひとときを、ありがとうございました」

「こちらこそ……」

「足枷をお着けしましょう。少し失礼します」


 カエサルが膝を折る。

 エマの裾へ手が伸び、その長い指がスカートの中に入る。そして細い足首に触れ、スカートから出てきた時。


「待てよ」


 声は、思っていたよりも低く、重く響いた。

 カエサルが顔を上げる。

 いつの間にか二人の前へ来ていたロビンは、カエサルの手元を氷のように冷たい目で見下ろしたまま、短く言った。


「それは、俺の役目だ」

「エマ嬢は、私に任せてくださっていますが」


 挑発するようなカエサルの言葉に、ロビンの顎がギリッと強張った。

 彼はエマを見た。


「…………」

「だって、着けないと浮いてしまうから……って、きゃあっ!? な、何、急に!」

 

 エマが言い終わるより早く、ロビンは彼女の身体をひょいと横抱きに抱え上げた。

 

「浮いてしまうなら、俺が支えているから大丈夫だ」


 ロビンはカエサルの手から無骨な黒い足枷をひったくると、周囲の好奇の視線など一切気にも留めず、エマを抱え上げて足早にホールを歩き出した。


「ロビンさん……っ!?」


 怒りを孕んだ荒々しい歩みに、エマの身体は腕の中で激しく上下に揺れる。たまらず見上げたエマを、ロビンは眉間に深い皺を寄せたまま、鋭く射抜いた。


「今は黙ってろ」

「……っ!」


 地を這うような低い声。普段の余裕など微塵もない、その有無を言わせぬ剣幕に、エマは弾かれたように口を噤むことしかできなかった。


 ◇◇◇


 人のいない休憩室へ入り、ロビンはエマをソファへ下ろした。

 扉は少し開けたままにして、彼女の前に膝をつく。


「……足、出して」


 エマはドレスの裾を少しだけ持ち上げた。

 ロビンの手が、右の足首をそっと支える。いつものように足枷を添え、留め金へ指をかけた。

 小さな金具が、かちりと鳴る。

 けれど、留まらなかった。

 もう一度動かした指が滑り、金具が手袋に引っかかってしまう。


「ロビンさん?」

「……ごめん。少し待って」


 足枷を押さえる彼の手が、微かに震えていた。

 エマは、その指を見つめた。

 恐ろしい魔獣を倒し、自分を何度も強く抱き留めてくれた手が、こんな小さな留め金すら扱えずに震えている。


「……どうして、連れてきたんですか」


 ロビンは答えなかった。


「踊っておいでって、言ったじゃないですか」

「……言ったね」

「カエサル様のことも考えたらいいって。私を突き放したのは、ロビンさんでしょう」


 留め金から、彼の手が力なく離れた。


「楽しそうだったから」

「え?」

「……あいつと踊っている時、笑ってた」


 ロビンが顔を上げる。

 いつもは余裕に満ちている青い瞳が、今はエマの返事を恐れるように揺れ動いていた。


「俺には、もう……あんなふうに笑ってくれないのかと思った」


 胸の奥が、ぎゅっと痛んだ。

 けれど、すぐには何も言えなかった。昨夜から抱えていた悲しみと怒りが、喉を塞いでいる。


「だって……ロビンさんが、私を見てくれないから」

「エマ」

「今夜だって、このドレス……」


 エマは、膝の上の濃紺の生地をギュッと握りしめた。


「ロビンさんがくれたものだから、着たんです。似合うって言ってくれるかなって。昨日のことも、ちゃんと話せるかなって……」


 声が震えた。

 堪えきれなくなった涙が一つ、夜空のような生地にポツリと落ちる。


「でも、何も言ってくれなくて。カエサル様に誘われた時も、目を逸らして……」

「……綺麗だった」


 エマがハッと顔を上げる。

 ロビンは自嘲するように唇を噛み、一度目を伏せた。


「控室から出てきた時から、ずっとだ。言おうとしたけど……お前のその顔を見たら、昨日言った『自由だ』なんて言葉、全部取り消したくなった」

「取り消せば、よかったじゃないですか」

「……うん」


 彼の大きな肩が落ちた。


「君のためだって言いながら、君がどうしたいか、聞いてなかった。俺が突き放したのに、責めるようなことをした。……すまない。嫉妬した。……かっこ悪いな、俺」


 その不器用で情けない本音に、エマの中で張り詰めていた糸がプツリと切れた。


「なんなんですか、もうっ!」


 エマが声を上げると、ロビンが恐る恐る顔を上げた。彼を見つめるエマの大きな瞳には、今にもこぼれ落ちそうなほどいっぱいの涙が溜まっていた。


「お、お父様のことを調べないといけないのは、分かってます。シリル様が今、裏で調べてくれているのを待っているんですよね? その間は怪しまれないように、パーティに参加しなきゃいけないし……それにっ!」


 エマはポロポロと涙をこぼしながら、ロビンをキッと睨みつけた。


「カエサル様のことも考えたらいいって、私を突き放したのはロビンさんじゃないですかっ!」


 ロビンは黙って何も答えない。


「〜〜〜っ! なんなんですか! 好きと言ったり、もういいと言ったり! 私、ロビンさんが何を考えているのか、さっぱり分かりません!」


 エマは乱暴に涙を拭いながら、声を張り上げた。


「わ、私が……なんで返事をできずにいるか、考えたことあるんですか!? ロビンさんが、ノエル様を……っ」


 言いかけて、ハッとして口を噤んだ。

 ロビンの顔が訝しげに揺れる。


「……ノエル、さ(・)ま(・)?」


 その反応に、エマの心臓がヒュッと冷たくなった。

 もし今、「忘れられないのだ」と言われたら。あの女性の代わりなのだと、認められてしまったら。

 続きを聞く勇気が、なかった。


「エマ?」

「……ごめんなさい」


 エマは彼の手元から右の足枷を奪い取ると、自分で素早く留め金を閉じた。

 続けて左の足枷も着ける。

 かちり、かちり。

 小さな金属音だけが、静かな部屋に虚しく響いた。


 立ち上がるエマを、ロビンの手がハッとして追いかけた。

 けれど、その手は迷い、彼女を掴むことができなかった。


「エマ! どこへ行くんだ」

「放っておいてください!」


 エマは振り返ることなく、休憩室の扉を開けて廊下へと飛び出していった。

 あとに残されたロビンは、片膝をついたまま、呆然と開かれたドアを見つめていた。

 空を掴んだ形の手のひらには、さっきまで支えていた彼女の細い足首の温かさが、痛いほど鮮明に残っている。


(ノエル、『様』……? まさかエマは、ノエルのことを……)


 そこでようやく、ロビンは自分の致命的な過ちに気がついた。

 思い返せば、エマは何度も不安そうな瞳で自分を見ていた。

 それなのに、自分は勝手に卑屈になり、彼女の心を知ろうともしなかったのだ。


 返事を待っていたつもりだった。だが、『君のためだ』などと綺麗な言い訳を並べて、一番伝えるべき言葉から逃げていたのは、自分の方だった。


「……くそっ」


 ロビンは弾かれたように立ち上がった。

 静かな廊下からは、カチャリ、カチャリと、重い足枷を引きずるようなエマの足音が遠ざかっていく。

 もう、これ以上すれ違うのはご免だった。

 ロビンは長い脚で一気に休憩室を飛び出すと、薄暗い廊下の先を足早に逃げていく小さな背中へ向かって、必死に声を張った。


「エマ!」


 彼女は振り返らない。

 それでも、今度は絶対に黙らなかった。


「……ノエルのこと、話をさせてくれ!エマ!」



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