敵襲かと思えば、婚約者の晩ご飯(山猪)でした。――過保護な辺境伯のパトロールと、おあずけを食らった夜。膝の上の甘い攻防戦。
夕方。
ロビンは病み上がりだというのに、国境付近の巡回に出た。部下を引き連れ、黒馬を走らせている。隣国との小競り合いは数百年も前から続いており、ブラックウッド領地は常に国境を守ってきた。
数年前、兄が死んだあの時も、小競り合いから発展した小さな戦争だった。
いつもならこちらへ迫ってきたスラグ人を追い払って終わるはずが、その日は魔獣を引き連れて数百単位で押し寄せ、油断していた兄は死んでしまった。
駆けつけたロビンが指揮をとって軍勢を立て直し、追い出した後も、その緊張は続いている。だからこそロビンは部下だけに任せず、定期的に巡回しているのだ。
「今日の閣下は、いつもより厳しい顔つきをされているな」
部下の一人がつぶやいた。
「何か気になることがあるのかもしれん。いつもより気を引き締めよう」
部下たちはただならぬ雰囲気に圧倒され、侵略の兆候でも見つけたのかとざわついた。
突如、ロビンが銃を構えた。
瞬間、部下たちが身構える。
「敵襲!?」
「閣下! どちらですか!」
「全員構え!」
パァン……!
一発の銃声が山に響き渡る。
どさっと音がして、ロビンが口笛を吹くと、猟犬が一目散に駆け抜け、小さな何かを咥えて戻ってきた。
「や、山猪?」
猟犬が咥えていたのは、この地方にしかいない獣で、臭みの全くない猪の一種だ。
ロビンが「シリル」と声をかけると、シリルは深くため息をついて猪を猟犬から受け取り、素早く血抜きを始めた。
「閣下?」
部下たちが何事かと戸惑うなか、シリルが呆れたように呟く。
「……婚約者殿が、山猪の肉が入ったスープがお好きなんだそうですよ」
「え、あ、そ、そうです、か。てっきり敵襲かと……」
全員が自分を見つめていることに気づいたロビンは、「なんだよ。今日の晩飯だよ」と言ってのけた。
「先に帰る。お前たち、しっかり国境沿いを見張るんだ。何かあった場合は……いや、何かあっても自分たちで解決しろ。いいな」
あまりにもロビンらしくない指示に一瞬戸惑った部下たちだったが、睨みを効かされて「は!」と全員で返すほかなかった。
「じゃ、俺いくから〜」
いつもの調子に戻ったロビンは、帰り際に木になっている林檎も手際よく採りながら帰路についた。
◇◇◇
「わぁ! 山猪のシチューだ! 私これ大好き!」
「だよね。こないだ商人の息子たちがきた時、言ってたなと思って」
夕食の席で出てきた肉は、臭みが全くなく口の中で蕩けていった。
んーっと頬張るエマを、ロビンは愛おしげに見つめた。
膝の上に乗せて、しっかりと浮力を抑える。そして、自分のとってきた肉を美味しそうに食べる女性を見つめる。ロビンはそのことに言い知れぬ満足感を覚えた。食べているエマを邪魔しないように、時々髪を持ち上げては指に巻いてみたり、髪に口付けたりしているうちに、エマはあっという間に食べ終わった。
「ロビンさん、食べられますか? 病み上がりで辛いかもしれませんが、とっても美味しいので是……非?あ、あの?」
エマは振り返ってロビンを見つめ、そして驚いて固まった。
あまりにも熱い目が自分を見下ろしていたからだ。
「た、食べられ、ますか? まだ、体辛いなら、デザートの、、、り、りんごだけでも」
「いや? 全然辛くない。むしろ、ものすごい元気がありあまってます」
エマは昼間の出来事が脳裏に浮かぶと同時に、またもや隣の部屋へと続く扉が目に入った。
この人は、自分のことを好きだと言いながら、未だ隣の部屋は片付けていない。しかもウィンター領のことも、ロビンを暗殺しようとした黒幕もまだ片付いていない。
考えている最中にも、首筋に熱い息が落ちる。医務室での、あの蕩けるような深いキスの記憶がまた蘇り、エマの心臓が大きく跳ねた。ロビンの長い指がエマの顎をそっと上向かせ、再びあの形の良い唇が重なろうとした、その瞬間。
――目を閉じたエマの脳裏を、またしても『ノエル』という名前と、隣にあるあの手入れされた空き部屋がよぎった。
(だめ。私は、あの人の代わりじゃない……!)
「……っ、やめてください!」
エマは弾かれたように身をよじり、ロビンの胸板を両手でドンッと強く押し返した。
拒絶されたロビンは、驚いたように目を丸くし、そして……ほんの少しだけ、傷ついたような子犬の顔をした。
「? 昼間はよかったのに? どうしたの? 今日俺、すっごく頑張ったんだけど?」
「何を頑張ったというのですか?私たち、まだ付き合ってもないのに、キスなんてしてはいけないと言ってるんです!」
「じゃあなんで昼間は拒まなかったのさ、お互い好き同士なら構わないでしょ?」
「あ、あああああれは! 雰囲気に飲まれたんです! 私たちは貴族です! そんな簡単に男女の……」
「男女の? 何?」
「男女の、、、〜〜〜っ!もうっ! とにかく今はダメです! 私たちは偽装婚約ですし、明日からはお父様の鉱山を調べる大事な任務があるんです。……こんなこと、している場合じゃありません!」
本当は「あなたの心にいるノエルって誰なんですか」と聞きたかった。けれど、もし「忘れられない恋人だ」と答えられたら、エマはもう明日から彼と一緒に戦えなくなる気がして、どうしても聞けなかった。
「そもそも私はまだ返事をしていません!!」
「あのキスが返事だと思ってたけど、違うの?」
「わ、私の中でまだもやもやがたくさん残っていると言っているのですー!!」
エマはそう言い切ると、勢いよく立ち上がり、天井まで飛んでい……こうとして足首を掴まれてすぐに膝の上に舞い戻った。
「ダメです!」
「わかったって。何もしないよ。……多分?」
「多分!?」
ロビンは深々とため息をつくと、エマを抱えたまま天井を仰いだのだった。
「まぁ待つさ。半年も待ったんだ。あと数日くらい、どおってことない。エマが返事をくれるまで、気長に待つさ」
「……はい。ありがとうございます」
ロビンは自分の膝を支えに頬杖をつくと、ジッとエマを見つめた。
「……ねぇ、でもいつ? 明日?」
「し、知りません!」
「手強いねぇ」
その日からロビンは、我慢という別の戦いも課せられるようになったのだった……。
◇◇◇
「お二人を見ていると、私の余計なイライラが加算されるってご存知でした?」
翌日。
シリルの目の前では、朝から奇妙な攻防戦が繰り広げられている。王都へ向かう揺れる馬車の中で、シリルがこめかみを押さえながら深くため息をつき、数時間前の出来事を思い出していた。
事の発端は、馬車に乗る前の出来事だった。
エマは、王都への旅立ちのために買い与えられた新しい旅行用のドレスを着て、城のホールへ降りてきた。
初夏の季節に合わせて仕立てられたその白いドレスは、胸元が四角く切り取られたスクエアネックで、ふんだんに施された可愛らしいレースと、水色のサテンリボンがあしらわれている。
風で散らばりやすい髪は、メイド長の手によって編み込みにされ、太い絹のリボンで愛らしくまとめられていた。
「とっても可愛らしく仕上がってますわ!!」
メイド長が鼻息荒く見守る中、エマはその手すりのリボンを伝い、ふわりふわりと空中から降りてきた。その姿は、まるで春の森から舞い降りた妖精のように可憐だった。
軍服姿で待機していたロビンは、その姿を見た瞬間、目を丸くして固まった。
だが、見惚れていたのは彼だけではない。護衛として控えていた近衛兵たちも全員、口を半開きにして妖精のようなエマの姿に釘付けになっていたのだ。
それに気づいた瞬間、ロビンは奥歯を噛み締めた。
「お前ら、いつまで準備しているんだ。さっさと外へ出て出立しろ。」
静かに指令を浴びせて部下たちを外へ追い出すと、ロビンは自らの黒マントをエマの頭から乱暴にバサリと被せ、叫ぶエマを無視してそのまま強引に馬車の中へと引きずり込んだのである。
――そして現在に至る。
「もう! くっつかないでください!」
「却下。押さえないと飛んでくでしょ?」
「暑いんです! マントもいりません!!」
隣にピタリと密着して離れないロビンを引き剥がそうと、エマはバタバタと暴れた。
「……君がそんな無防備な格好して出歩くからだよ。一体誰がそんなドレスを買ってきたの?」
「ロビンさんですよ! 私はいらないって言ったのに!」
エマが抗議すると、ロビンはこれ見よがしに大きなため息をついた。
「はぁ。こんなに胸が溢れるって分かってたら、絶対別のドレスにしてたのに」
「!?溢れてません! どこ見てるんですか!」
ロビンは意地悪く笑うと、長い指先でエマのふっくらとした胸元を長い指でトンッと突いた。
「ここ」
「――ッ!!!」
エマの顔が一瞬にして沸騰したように真っ赤に染まった。
「!!! ヘンターイ!!!」
バァァッチーン!!
馬車の中に、エマの強烈な平手打ちの音が響き渡った。
ロビンの頬には見事な赤い手形が浮かび上がったが、彼は「痛っ」と言いながらも嬉しそうに甘んじてそのビンタを受け入れ、エマの身体を再びマントで丁寧に包み直したのだった。エマはまたしも小言を浴びせたが、ロビンは全く聞き入れない。
「はー。本当に、そういうのは私の見えないところでやっていただけますかね!!」
向かいの席で書類の束を抱えたシリルが、盛大にため息をついたのだった。
◇◇◇
その後、一行を乗せた馬車はブラックウッドの森を抜け、ウィンター領へと足を踏み入れた。
表向きは王都へ向かっていると見せかけるため、一旦はそのまま領地を横断し、王都へと続く主要街道へ出る。そして、街道沿いの宿屋に部屋を取り、日が完全に落ちるのを静かに待った。
目的は、不審な金の動きの出どころである『休鉱山』の極秘調査だ。
深い闇夜に紛れ、ロビンとエマ、そして数人の精鋭たちは、息を潜めて鉱山へと続く険しい山道へ足を踏み入れたのだった…。




