涙のキス〜「自由になりたいのか?」と問う辺境伯の哀しい決断〜
「見えた! 国境だわ……!!」
木々の隙間から覗く白い川面に、エマの顔が希望に輝いた。
このまま鞄の重りで浮力を調整し、木を蹴って進めば、追っ手に見つかることなく国境を越えられる。もう誰の道具にもならない、私だけの人生が待っている――!
エマが笑みを浮かべ、さらに大きく幹を蹴って、朝靄の立ち込める空中へ力強く飛び出した、その瞬間だった。
ガシッ……!!
「え……?」
空中で、肩から斜め掛けにしていた鞄の太い革紐を、背後から強靭な力で掴み止められた。
前へ向かっていた勢いが完全に殺され、エマの身体はふわりと後ろへ引き戻される。そして、ドンッ、と硬く分厚い何かに背中から激突した。
「……なるほど。足が駄目なら、飛んで逃げるつもりだったわけだ」
頭上から降ってきたのは、絶対零度まで冷え切った、地を這うような低い声だった。
ビクリとエマの全身が粟立つ。
「ろ、ロビン……さん……?」
恐る恐る振り返ると、そこには深い森の闇に溶け込むような黒い軍服姿のロビンが立っていた。
息一つ乱していない。エマが洞窟から出てくるのを、音も立てずに闇の中で完璧に待ち伏せていたのだ。元特殊部隊の彼にとって、エマの逃亡劇など児戯にも等しかったという事実が、その冷ややかな青い瞳からひしひしと伝わってくる。
「離し、て……っ!」
パニックに陥ったエマは、空中でバタバタと身をよじって逃げようとした。
しかし、ロビンは鞄の紐を離す代わりに、空中に浮いているエマの腰へ直接太い腕を回し、自分の身体へと力強く拘束した。
「暴れるな」
「いやっ! 離してください! 私を捕まえて、またウィンターの鉱山のために利用する気でしょう!?」
「は?」
「シリルさんとの話、全部聞きました! 私を城に置いたのも、優しくしてくれたのも……全部、ウィンター領の情報を引き出すためだったんじゃないですか!」
エマの悲痛な叫びに、ロビンの動きがピタリと止まった。
怒りで冷え切っていた彼の瞳に、一瞬だけ「しまった」という動揺の色が走る。その動揺の色にまたしてもエマの心は傷ついた。
「あれは……」
「嘘つき! 面倒だって言いながらお世話してくれたのも、……昨日の、昨日のキスだって……!」
キスのことを思い出し、エマの目からボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「全部、私を騙すための作戦だったんでしょう!? これ以上、私を馬鹿にしないで! もう放っておいてよ……っ!」
「エマ、違う。あれは――」
誤解を解こうとロビンが口を開きかけた時、森の冷たい風が吹き抜け、エマの足元から血の匂いが漂い上がった。
ロビンの視線が、エマの足元へと落ちる。
裸足のままの足首。そこに巻かれた真っ白な包帯は、無惨に擦り切れ、黒々とした血でドロドロに染まっていた。重い足枷を無理やり引きずって、一日中険しい山道を走り続けた証だった。
「…………!」
ロビンの顔から、すべての表情が消し飛んだ。
ギリッ、と骨が鳴るほど奥歯を噛み締める音が響く。
「……その足で……ここまで走ってきたのか……?」
「っ……それが、何ですか! もう、ロビンさんには関係な――きゃあ!?」
次の瞬間、視界がぐるりと反転した。
ロビンはエマの背負っていた鞄を奪い取るなり遠くへ放り投げ、浮力で天へ昇ろうとするエマの身体を、両腕で強引に抱きすくめた。
そして、大木へ背中を預けるようにしてその場に座り込み、エマを自身の膝の上へガッチリと閉じ込めた。
「ロビンさん!?」
「関係ないわけないだろうが!!」
静かな森を震わせるほどの、怒りと悲痛が混じった怒号だった。
いつも気怠げで、余裕ぶっていたロビンが、髪を振り乱し、必死の形相でエマを抱きしめている。
「呪いを受けるはずだった俺を庇ったお前を、俺が助けるのは当然のことだ! そのことに鉱山は関係ない!」
「……!」
「俺が、どんな気持ちで……っ、お前がいなくなった部屋を見たか、分かるか……?」
それでもエマは言い返した。
「ではなぜ監視していたのですか?」
「領地に素性のしれない女がやってきたら調べるのは当然だ! それも隣の領主の娘だと言われたら誰でも警戒するだろうが!」
「さ、最初からわかっていたんですね! それなのに! 気づいてないふりして!」
エマの声が震えていることに気づいて、ロビンは声を抑えた。
「俺はウィンター家の紋章を持った暗殺者に殺されかけたんだ。 探りを入れるのは当然だ。そうだろ?」
探りを入れていたと言う言葉にエマはまたズキリと痛んだ。
「わ、私はあの者はウィンター家のものではないと言ったはずです! 私があなたを殺そうとするはずないじゃない!!」
「そうだ、だから城で守っていたんだ…はぁ、 なぜわからないんだ」
いい加減にしてくれとばかりにロビンがため息をついたことで、エマは怒りで涙が溢れた。そして叫んだ。
「わかりません! だって何も言ってくれないから! 鉱山ならあげます! 領地でもなんでも好きにすれば良い!! 私は自由に生きたいの!! もう死んだと思ってください!!」
「……!」
ロビンは、その言葉に絶望し、落ち着かせるように深いため息をついた。
至近距離で見つめてくるその青い瞳は、怒りよりも、深い後悔に濡れていたが、それすらも演技に見えて、エマは目を逸らした。
「一つだけ、言わせてくれ。あのキスは、君のことが、好きだからしたんだ。その気持ちだけは、本当だ」
「……」
エマはびくりと肩を震わせた。脳裏にノエルと寝言で言った声が蘇り、ぎゅっと目を閉じた。
ロビンの大きな手が、エマの冷え切った頬をそっと包み込む。そして瞳を見ようと覗き込んだ。
が、エマは顔を顰め、決してロビンの目を見ようとしなかった。腕力では叶わない自分にできる、唯一の抵抗だと思っていた。
「……ふざけるな」
低く、震えるような声だった。ロビンの両手がエマの頬を強く挟み込み、強引に上を向かせる。
「っ……!?」
見開かれたエマの瞳に、ロビンの切羽詰まった顔が映った。彼の青い瞳は、暗い熱と行き場のない執着でドロドロに濁っていた。
これだけ言っても、伝わらない。彼女は俺の心など、最初から一欠片も信じていない。
彼は言葉で伝えることを諦めたように、乱暴にエマの唇を塞ごうと顔を近づける。
「っ……!」
エマは逃げられないと悟り、ギュッと目を閉じた。
そして、抵抗する代わりに、ポロポロと大粒の涙をこぼした。
(ああ、また……押し切られる。私の気持ちなんて、関係ないんだ)
――しかし。
唇が触れ合うほんの数ミリ手前で。
ロビンの動きが、ピタリと止まった。
睫毛を震わせ、声も出さずに泣き続けるエマの絶望した顔。
それを見た瞬間、頭に上っていた血が一気に引き、ロビンは自分のしようとしていた行動の愚かさに殴られたような衝撃を受けた。
(俺は、何をしている……。これじゃ、嫌がる彼女を無理やり連れ去ろうとした奴らと同じじゃないか)
「……っ、くそ……!」
ロビンは苦しげな呻き声を上げると、キスをする代わりに、エマの華奢な首筋へ深く顔をうずめた。首元に押し当てられたロビンの額が、ひどく熱い。彼が自分を抱きしめる太い腕が、すがりつくように微かに震えている。
が、エマは顔を顰め、決してロビンの目を見ようとしなかった。腕力では叶わない自分にできる、唯一の抵抗だと思ったから。
ロビンは、そのことに気づき、胸の痛みに歯を食いしばって耐えた。
「……自由になりたいのか?」
「……そうです。さっきからそう言ってます」
地面を睨んだままのエマの瞳から涙がこぼれ落ちた。
もう何もかもが嫌だった。利用されるのも、秘密裏に囲われるのも、愛されていたと錯覚させられるのも。
全てが、煩わしかった。




