重力と恋の魔法〜空飛ぶ令嬢と不器用な元軍人辺境伯の、すれ違いだらけな甘い同居生活〜
ロビンは夢中でその甘い唇を貪った。
ベッドに押し沈められたエマは、驚きと羞恥で行き場を失った両手をばたつかせた。やがて逃げる代わりに、ロビンの礼服の襟をきゅっとつかむ。
拒まれていない。
その小さな許しに、ロビンの理性が焼き切れそうになった。
顔を少しだけ浮かせて角度を変え、再びちゅっ、と深く唇を重ねる。エマがたまらず、苦しげな甘い吐息を漏らした。
「っ!……ロビン、さん……!」
本当に嫌がっていないか確認するため、ロビンはもう一度唇を離し、上から彼女を見下ろした。
ランプの薄暗い灯りの中でも、エマの顔が限界まで火照っているのがわかる。大きく見開かれた潤んだ瞳が、ロビンの唇を焦点の合わない目で見つめ、物欲しげに揺れている。彼女の桜色の唇がハクハクと小さく開き、まるで酸素――あるいはさらなる口づけを求めているように見えた。
ロビンはたまらなくなって、もう一度だけ、啄むように軽くキスを落とした。
これ以上は本当に理性が吹き飛ぶ。何かに耐え忍ぶように眉間に深いシワを寄せると、彼は重く熱い溜め息を吐き出した。
「あ、あの……」
自分の何かが駄目だったのだろうか。不安になって見上げてくるエマの目を、ロビンはたまらず大きな手のひらで覆い隠した。
「……おやすみ」
それだけ言い残すと、彼はエマから身を離し、黒い礼服を着たまま隣へゴロリと寝転がってしまった。
◇◇◇
「ロビンさん!!」
「はっ!?」
翌朝、勢いよく名前を呼ばれてロビンが目を覚ますと、目の前にはいつもの質素な服に着替えたエマがフヨフヨと浮いていた。
「お、おはようございます。わ、私、ちょっと行ってきますね」
昨日あれだけどこにも行くなと分からせたつもりが、どこに行こうと言うのか。
ロビンは思わず顔を顰めた。
「……どこにいくの?」
「今日、シリルさんに会計と帳簿の本をお借りする約束なんです。呪いが解けた後にも役に立つだろうし」
「は?」
「行ってきますね。ロビンさんはお疲れでしょうから、そのまま寝ててください!」
昨夜あんなに激しくキスをしたというのに、エマは顔を赤くしつつも、何事もなかったかのように足枷をはめてそそくさと部屋を出ていってしまった。
広いベッドに取り残されたロビンは、上半身を起こした。振り回されっぱなしの自分を自覚して、ただただ頭を抱えるしかなかった。
◇◇◇
(もうっ! どんな顔したらいいかわからないじゃない! ロビンさんのばか!)
執務室の片隅、調査用の帳簿が積まれた小部屋で、エマは自身の唇をそっと指でなぞった。
昨日のキスは、一体なんだったのだろう。あのあと、ロビンは何も言わずに背を向けて眠ってしまった。キスの合間にこぼれたあの深いため息が気になって、エマは一睡もできなかったのだ。
エマにとって、あれが生まれて初めてのキスだった。
あれでよかったのか、そもそも領主代理である彼とあんなことをしてもよかったのかすらわからない。大人って、あんなふうに息もできないくらいキスをするんだな……。恋愛経験皆無のエマには、処理しきれないほどの熱だった。
面倒だと言いながらも自分を世話してくれて、最後にはキスをして。いきなり寄りかかってきて心臓がバクバクしたかと思えば、勝手にすやすやと眠ってしまった。その寝顔がひどく美しかったことを思い出し、エマはまた顔を赤らめた。
首をブンブンと振って熱を散らし、エマは手を動かし続けた。
そして、ふと気づく。
「あれ? なんで休鉱山のはずなのに、どうして採掘用の油がこんなに大量に購入されているのかしら……。領収書もないし、仕入れ先も記載されていない。これ、一体何に使われているの……?」
シリルさんに聞いてみよう。
エマは足枷の重みに耐えながら歩き出した。彼の執務室は確かこの先だ。
◇◇◇
シリルの部屋の前に着くと、重厚な木の扉がわずかに開いていた。
エマはノックしようと手を上げたが――中から聞こえてきた会話に、思わずその場で凍りついた。
『よかったですね。監視対象であるエマが、自らこの城にいるべき理由を作って、自ら留まってくれているのですから』
『まさか、こんな形で内情を捜査できることになるとは思ってなかったけどね』
紅茶のカップをソーサーに置く、カチャリという小さな音。
間違いない。シリルと、ロビンの声だ。
『毎朝パン屋に行くのが面倒だと仰ってましたものね』
『朝は苦手なんだよ』
ドンッ、と。エマは鈍器で頭を殴られたかのような衝撃を受けた。
ここに、いては、だめだ。
『ウィンターの鉱山は今は休鉱山ですが、閣下の裁量で稼働さえすれば、莫大な利益を出すでしょうし』
『でも、なぜわざわざ休ませているのだろうな。かつてはウィンター家の主力商品だっただろうに。山に何か問題でもあるのかな』
(聞いてはだめ……!)
耳を塞ぎたいのに、身体が石のように硬直して動かない。
『まったく。『保護』を名目に、都合よくこの城に囲い込んでいるだけでしょう。いい加減、ご自分の口から本当の目的を伝えてはどうですか』
『…あーぁ面倒だねぇ。まぁ、ともあれ好都合だ。彼女があのまま森で野垂れ死ぬのはもちろんだめだが、こっちで手配したパン屋に定着されても困り物だったからな』
容赦無く紡がれる言葉にエマの手先はどんどん冷たくなりしまいには震え出してしまった。ぎゅっと手を握るがそれでも震えが止まらない。
『だからといって、いつまでも誤魔化し続けるおつもりですか。あとはエマ様が、ご自分から素直に心を開いてくれればいいなどと?』
『あいつが自分から、俺を頼ってくれるまで待つさ。無理に暴きたくない』
『……彼女の言葉を引き出すのは、あなたの仕事ですよ、領主様?』
一拍の沈黙。ドクン、ドクン、ドクン…
エマは自分自身の心臓の音と、沈黙に耐えかねてぎゅっと目を閉じた。
『話そうだけど。あの子、押しに弱いみたいだし』
エマは、ついに目の前が真っ暗になった。
声を出さないよう必死に唇を噛み締め、手の中にあった不審な帳簿のメモと書類を、そっと扉の前の床に置く。
涙が勝手にボロボロとこぼれ落ちるのに、頭の中だけは奇妙なほど冴え渡っていた。
(行かなきゃ……荷物……)
胸元に下げていたペンダントを強く握りしめ、エマは自嘲した。
(荷物なんて、そんなものないか。元々ここへも、着の身着のままで逃げてきたんだもの)
エマは無音で走り出した。無理な動きのせいで足枷の擦れた傷が激しく痛んだが、そんなことはもうどうでもよかった。
途中、すれ違ったメイドが心配して声をかけてきたが、「少し頭が痛いの。部屋で休んでるね」と笑ってごまかした。
階段を駆け上がり、ロビンの寝室へ飛び込む。彼が用意してくれた引き出しから、わずかばかりの銀貨と銅貨が入った袋だけを取り出した。
ふと、乱れたままのベッドが目に入る。
昨夜の、甘く熱いキスが脳裏に蘇り、再び堰を切ったように涙が溢れ出した。
(あのキスも、きっと私を懐柔するための作戦のうちね……)
隣の部屋――女性の部屋へ続く扉が目に入り、胸が引き裂かれるように痛んだ。
「面倒だからと言いながら、世話を焼いてくれたのも、全部……情報を引き出すため」
そこまで声に出して、エマは腕で乱暴に涙を拭った。
「誰も、私を知らないところへいこう」
エマは振り返ることなく、再び城の廊下を走り出した。
◇◇◇
その頃、シリルの執務室では…
「まどろっこしい。エマ様へ、すべて話してしまえばよいではありませんか」
「そんなことをすれば、不必要に傷つけるだろう」
「すでに十分、振り回していると思いますが」
「うるさいな」
「監視は部下に任せられた。それなのに、御自分で毎朝パン屋へ通い、城へ連れ帰り、片時も手放そうとしない」
シリルは眼鏡を押し上げ、冷ややかにロビンを見た。
「そうやって囲い込んで、ゆくゆくは本当に結婚でもするおつもりですか?」
「しないよ」
ロビンの答えは、驚くほど早かった。
「俺は、誰とも結婚しない」
「……兄君との約束ですか」
「それだけは破らない」
「では、なぜあの方を手放さないんです?」
ロビンは答えられず、紅茶へ視線を落とした
「…………」
「御自分でも、分からないのですか?」
「……はー…もう、本当面倒くせぇな」
その時。
コンコン、とドアをノックする音が響いた。
「あの、領主様? お茶をお持ちしたのですが……部屋の前に、書類が落ちてましたよ?」
「書類?」
ロビンは立ち上がり、メイドからその紙を受け取った。
そこには、見慣れたエマの丸みを帯びた筆跡で、帳簿のおかしい点が箇条書きにされていた。
「……聞かれたようですね」
「ちっ……!」
ロビンは書類をシリルに押し付けると、弾かれたように走り出した。
バンッ! と扉を開け放つが、帳簿の作業室に彼女の姿はない。
嫌な汗が背中を伝う。胸がざわめき、足が急く。
(エマ!)
寝室へ駆け込んだが、そこにも誰もいなかった。
「どこだ!」
部屋を見渡すと、エマ用に与えた引き出しが開け放たれており、中に入れてあったはずの財布が消えていた。
「まさか、外へ出たのか……?」
ロビンは冷や汗をかいて額を覆った。窓辺に駆け寄って見下ろすが、庭に人影はない。玄関先から街へ続く大通りにも、エマの姿は見当たらなかった。
あんな話を立ち聞きして、一人でどこへ行ったというのか。
「衛兵!! エマを探せ! 足枷をつけている、まだ遠くへは行けていないはずだ!!」
領主のただならぬ怒号に、城内の人間全員が震え上がり、慌ただしく捜索へと動き出したのだった。
◇◇◇
エマは裏口からそっと抜け出すと、街とは反対の方向へ無我夢中で駆け出した。
足枷をつけたまま全速力で走るのは初めてで、予想以上の激痛が足首を襲ったが、歩みを止める気にはなれなかった。
南へ向かえば街があり、そこを抜けると森だ。さらに南へ行けば、ウィンター領ががり、さらに南へ突き進めば、カエサルの治めるヴェイン領と、その先には港がある。
エマは迷った末に、北へ向かうことにした。ブラックウッド領の北は国境だ。険しい山を越えれば、スラグ人が治めるスラグ王国がある。
駆け出してしばらくすると、背後から城が騒ぎ立てる声や鐘の音が聞こえてきた。
「探しているんだわ、私を……」
捕まれば、また都合の良いように利用される。エマはゾッとして、胸元のペンダントを握りしめた。
「わ、私の夢は、自立よ。誰かの道具として利用されることじゃないわ!」
エマは痛む足を引きずりながら、さらに北の山へと足を踏み入れた。
◇◇◇
北の山は思っていたよりも険しく、鬱蒼と木々が茂っていたが、それが逆にエマの心を落ち着かせた。これなら簡単には探しようもないだろう。
いつの間にか日は完全に落ち、エマは岩肌に開いた小さな洞窟を見つけ、そこで休むことにした。
「洞窟だけど、天井があることに変わりないものね……」
エマは痛みに顔を顰めながら、重い足枷の留め金を外した。昨日ロビンに巻いてもらった真っ白な包帯には、思っていた以上の血が黒々と滲んでいた。
「いった……」
ガチャン、と重苦しい音を立てて足枷が外れると、呪いの力が解放され、身体がふわりと浮き上がり始めた。エマは咄嗟に岩肌の突起の下へ身を滑り込ませ、なんとか留まる。
血でドロドロに張り付いた包帯を少し剥がすと、足首には足枷の無惨な擦れ跡がくっきりと刻まれていた。
「痛いなぁ……」
寒さと孤独に震えながら、エマは自分で自分を抱きしめた。そしてペンダントをぎゅっと握りしめ、固く目を閉じる。一日中走り続けた足は、とうに限界を迎えていた。
「お父様、お母様……もう私、疲れちゃったよ……」
エマは暗い洞窟の中で、深い闇へ落ちていくかのように意識を手放した。
◇◇◇
「猟犬が、エマ様の匂いを察知しました。街ではなく、真っ直ぐ北の山へ向かったようです!」
「……最悪だ」
報告を受けたロビンは、馬上で頭を抱えた。
「スラグ人の国へ逃げるつもりじゃないですか。あんな無法地帯に出て、奴隷商人に捕まりでもしたら、売り飛ばされて終わりですよ!」
横で馬を走らせるシリルを、ロビンは鋭く睨みつけた。
「…行くぞ」
ロビンは松明の灯りも持たず、躊躇うことなく深い山へ入っていった。元特殊部隊に所属していた彼は、暗闇でも常人以上に夜目が利く。
「領主様、こちらです! 血が落ちています。どうやら、無理な逃行で怪我をされているようですね……」
探索隊の兵士が指差した葉の上の血痕を見て、ロビンの顔が苦痛に歪んだ。
「これ以上奥へ逃げられたらまずい。ここからは馬を降りて、物音を立てずに静かに追跡する」
◇◇◇
エマは、夜中にハッと目を覚ました。
洞窟の天井から滴り落ちてきた冷たい水滴が、頬に当たったのだ。外を見るとまだ薄暗く、夜明け前であることがわかった。
明るくなる前にここを出よう。追手がすぐそこまで来ているかもしれない。
身体を動かそうとしたその時、エマは自分の『浮力』に奇妙な変化が起きていることに気づいた。
「力が……弱まってる?」
いつもなら、天井などの抑えがなくなれば風船のように上へ上へと昇ってしまうのに、今は岩肌にぶつかる前に空中でピタリと止まったのだ。
外した二つの重い足枷を鞄の中へしまって、肩から斜め掛けに背負っているからだろうか。
鞄の重さと浮力が絶妙に相殺され、さらにいい具合の高さ――地上から少し浮いた位置で安定していた。
「すごい……!」
エマは壁を軽く蹴ってみた。ふわりと身体が前へ進み、ゆっくりと降下する。
「ちょうどいい高さで止まってる! これなら、足枷をつけて歩かなくても、森の中を飛んで移動ができるわ!」
エマは恐る恐る洞窟を出た。
そして、木々の幹をトン、トンと蹴りながら、まるで低空を飛ぶ鳥のように、少しずつ、確実に前へ進んでいった。
(国境を越えたら、足枷をつけて普通に歩けばいいわ。とにかく、今は一刻も早くロビンさんの領地を出なくちゃ!)
木々を縫うように飛び続け、やがて視界が開けた。
切り立った山肌の下、国境線として流れる幅の広い川が、夜明けの微かな光を反射して白く輝いているのが見えた。
「見えた! 国境だわ……!!」
木々の隙間から覗く白い川面に、エマの顔が希望に輝いた。
このまま鞄の重りで浮力を調整し、木を蹴って進めば、追っ手に見つかることなく国境を越えられる。もう誰の道具にもならない、私だけの人生が待っている――!
エマが笑みを浮かべ、さらに大きく幹を蹴って、朝靄の立ち込める空中へ力強く飛び出した、その瞬間だった。
ガシッ……!!
いつもリアクションや★をありがとうございます!とても嬉しく、励みになってます!ありがとうございます!
※少しだけセリフ見直して修正しました!誤字脱字訂正しました!




