「キスしていい?」〜当て馬の登場で余裕をなくした辺境伯様に、ベッドの奥深くへ沈められた夜〜
「で? 今、誰の花嫁だって?」
地を這うようなロビンの低い声が、夜のバルコニーに響いた。
カエサルは美しい海色の瞳をスッと細める。けれど、完璧な造形をした唇に浮かべた甘い笑みは、いささかも崩れなかった。
「もちろん、私の花嫁ですよ。ブラックウッド大尉」
「君のそういう、中身のないわざとらしいところが嫌いなんだよねぇ」
「相変わらず口が悪い。……陸軍仕込みですか?」
「海軍ほど暇じゃなかったからね」
二人はにっこりと、それこそ絵画のように美しく笑い合っている。
しかし、バルコニーには抜き身の剣を喉元に突きつけ合っているような、肌を刺すヒリヒリとした緊張が走っていた。
(お、お知り合いなの……? 元々仲が悪いのかな)
エマはロビンの背中に庇われるように立ちながら、息を呑んで二人を見比べた。
「ご挨拶くらい、させていただけますか?」
カエサルが、白い手袋をはめた手を優雅にエマへ差し出した。
だが、彼が一歩近づいた途端、ロビンがエマの腰を引き寄せ、彼女を完全に隠すようにその間へすっと身体を滑り込ませた。
「そこからで充分でしょ」
「随分と大切に扱っているようだ」
「見れば分かることを、いちいち口に出さなくてもいいよ」
カエサルは「ふむ」と形の良い顎を撫でた。そして、余裕ぶった笑みを深める。
「感情的な言い争いはやめましょう。私がここへ来たのは、正式な権利に基づいて『私の花嫁』を迎えるためです」
カエサルは一歩引き、芝居がかった手つきで夜空を仰いだ。
「私は彼女を大切にするつもりです。ウィンター領の復興にも力を尽くしましょう。今は休鉱山になっているようですが、再開さえすれば産出される良質な鉱石を我がヴェイン領の港へ真っ直ぐ運べる。私の船を使えば、以前よりも帝都への輸送も格段に容易になるだろう。二つの領地は、互いに手を取り合い共に栄えることができるのです」
「ああ! なるほど! 頭がいいなぁ」
ロビンがわざとらしく、ひどく感銘を受けたように大きく頷いた。
「純粋に花嫁を迎えに来たっていうわりには、鉱山と港の話だけはやけに具体的でよく練られてるね」
明らかな皮肉だったが、カエサルは悪びれもせず微笑を保った。そして、ロビンの肩越しに、エマへ甘くねっとりとした視線を向ける。
「私と結婚すれば、あなたは何不自由なく暮らせる。ウィンターの名も、広大な領地も、すべて私が守りましょう。その厄介な『呪い』も、ヴェイン領の優秀な術師に診せれば――」
「まだ誰も、彼女のそれが呪いだとは説明していないけど」
ロビンの声が、どん底まで落ちた。
一瞬、空気が凍りつくように静まり返る。
カエサルは、エマの足首に装着された無骨な黒い足枷へ視線を落とし、ゆっくりと肩をすくめた。
「足が床につかず、足枷をしている。これを神からの祝福だと思うほど、私は楽天家ではありませんよ」
「ふん」
ロビンは鼻で笑い、それ以上は追及しなかった。
エマはロビンの腕の中で、ギュッと拳を握り締めた。カエサルの甘い言葉の裏にある、強欲な本性。これ以上、彼らの好きにはさせない。
エマはロビンの背中から一歩前へ出た。
「……私は、鉱山の付属品ではありません」
「エマ嬢?」
「あなたがどれほど豊かな暮らしを約束してくださっても、私はあなたと結婚したくありません。今日まで一度もお会いしたことのない方です。それに……私を無理やり連れ去ろうとした義母と一緒にいる方を、どうして信用できるというのですか!」
カエサルの笑みが、ここで初めて消え失せた。
冷たい海色の瞳が、値踏みするようにエマを真っ直ぐに見つめる。怖い。足のすくむような威圧感があった。
それでもエマは、絶対に目を逸らさなかった。
「……気に入りました」
やがて、カエサルは低く喉を鳴らした。
「想像していたよりも、随分とはっきり物を言う令嬢だ」
「お、お気に召さなくて結構です! どうしてそうなるんですか!?」
エマの悲鳴じみた声に、ロビンが深々と呆れたような溜め息をついた。
「婚約は、人間の所有権じゃない。家同士が約束したからって、嫌がる女性を力ずくで連れて帰れると思っているなら、海軍は随分と野蛮な教育をしてるんだね」
「では、辺境伯閣下の婚約には、どのような確かな証明があるというのです?」
カエサルの鋭い視線が、ロビンの腕の中にいるエマへと向けられる。
「ブラックウッド辺境伯が婚約したという正式な公示を、私は一度も見た覚えがありませんが」
「昨日決めたからね」
「ほう、それはそれは。随分と急なお話で?」
「少なくとも、俺の婚約には『本人の了承』がある。君はどうだ? 彼女の意思はどこにもない」
「その婚約が、ウィンター家の正統な後継者を自分の城へ囲い込むための『方便』ではないと?」
カエサルの声から、完全に甘さが消え去った。
「後継者を婚約者として囲い、ブラックウッドとウィンター、二つの領地を合法的に手に入れる。随分と閣下にとって都合のよいお話ではありませんか」
その言葉に、エマの胸がずきりと痛んだ。
ロビンが領地を欲しがっているはずがない。それは分かっている。分かっているのに、先日、皇帝からの勅書を前にした彼が、一瞬だけ見せた冷たい横顔を思い出してしまう。
「領地が二つあって喜ぶのは、あの地獄のような帳簿を見たことのない人間だけだよ」
ロビンは心底うんざりしたように吐き捨てた。
「帝国からの勅書には、正統な後継者が見つかるまで、ウィンター領を俺が預かるとある。そして今、その後継者を名乗る女性が現れた」
ロビンの立ち姿からいつもの気怠さが消え去り、辺境伯としての圧倒的な威厳がバルコニーを支配した。
「エマの身分と継承権が正式に確認されるまで、彼女は帝国の保護対象だ。俺の許可なく、この城から連れ出すことは絶対に認めない」
「婚約者である私にも?」
「『自称』婚約者でしょ」
「ふっ……その言葉は、そのままそっくりお返ししますよ」
二人の視線が正面からぶつかり合い、バチバチと青白い火花を散らす。
沈黙ののち、先に笑みの仮面を被り直したのはカエサルだった。
「君が突然婚約したなんて聞いたら、ノエルがどう思うだろうね」
(……え?)
エマの肩がビクッと跳ねた。
(カエサル様まで知っているほどの、公認の仲だったのね……それなのに、私ったら……!)
エマの心に、冷や水を浴びせられたようなみじめな感情が広がる。
「その言葉、そっくりそのままお返しするよ。お前こそ、帝都にわんさかいる女性たちが今頃泣いてるだろうな」
ロビンが鼻で笑い飛ばすが、エマの耳にはもう入ってこなかった。
「よろしい。今ここで、力ずくで連れ帰るような野蛮な真似はしないでおきましょう」
カエサルは身なりを整えると、優雅な所作で一礼した。
「それは賢明だね。ここは陸だから」
「ええ。ですが海へ出れば、立場は逆になりますよ」
「出る予定はないかな」
「いずれ、出ることになるでしょう」
意味ありげな言葉を残し、カエサルは再びエマへと視線を向けた。
「私はしばらく、城下の宿に滞在します。……気持ちが変わったら、いつでも迎えに参りましょう、私の花嫁」
「とっとと消えろ」
ロビンの容赦ない罵声を背に受けながら、カエサルはふっと余裕の笑みをこぼし、静かにバルコニーから去っていった。
「全く、油断も隙もない……。エマ、部屋に戻ろう。足も限界だろう」
嵐のように現れて去っていったカエサルの後ろ姿を見送ると、ロビンは大きな溜め息をついた。
視線を落とせば、重い足枷を支え続けたエマの細い足首は、擦れてうっすらと赤くなっている。
(私、早くこのお城から出ていかなくちゃ……)
ロビンの言葉を上の空で聞きながら、エマはぐるぐると考えを巡らせていた。
お母様がいる限り、ウィンター家の屋敷には戻れない。かと言って、このままここにいてもロビンの迷惑になるだけだ。それに、彼には「ノエル様」という特別な女性がいるのだから。
(私が、私がカエサル様と結婚したらうまく収まるのかしら。思っていたよりもずっと紳士的な方だったし……ううん、わからないわ! あのお母様のお知り合いよ、絶対に裏があるに決まってる。じゃあやっぱり逃げ……たら、ロビンさんが領主代理としてもっと苦労を抱え込むことになる……あぁっ! もう、どうしたらいいの!?)
エマは一点をじっと見つめたまま、脳内で一人パニックに陥っていた。
「おーい、エマ? え・ま・さーん?」
顔の前でひらひらと手を振るロビンの声も耳に入らない。極限まで考えを巡らせたエマは、突如、ぽん! と勢いよく手を叩いた。
「そうだ! 街へいこう!」
「……は?」
(そうよ、たったそれだけのことじゃない! 呪いが解けたら、街で普通に暮らせばいいんだわ。朝はパン屋で働いて、昼から夜まではお城に通って領地の帳簿のお手伝いをすればいい。領地の屋敷には変わらずお母様たちが住めばいいじゃない。ただ私に関わらないでいてほしいだけだし、あの採掘できない鉱山なんて勝手にすればいいわ。よし、王様にもそう言おう!)
完璧な名案を思いついたエマは、晴れやかな顔で「そうと決まれば、明日から早速準備よ!」と鼻息荒く歩き出そうとした。
だが、つま先が何かに引っかかり、つんのめりそうになる。
「……わぁ!? ろ、ロビンさん!?」
足元を見ると、いつの間にかロビンが床にかしずき、エマの足首をガッチリと掴んで睨み上げていた。重い足枷はすでに外されており、ロビンのもう片方の手首でブラブラとぶら下がっている。エマが考え事をしてフリーズしている間に、手早く外してくれたらしい。
「残念だけど、街は却下」
「えっ?」
「祭りは遠の昔に終わっているよ」
ロビンの瞳には、いつもの気怠げな色はなく、底冷えするような暗い光が宿っていた。
「それとも……そんなにあいつに会いたいわけ?」
「へ? 何?」
あいつ、とは街の宿に滞在すると言っていたカエサルのことだろうか。エマが唐突に「街へ行く」と言い出したため、カエサルを追おうとしていると完全に勘違いされている。
「……気に入らないな。部屋に戻るよ」
「きゃあ!」
エマが弁解する間もなく、ロビンは彼女の身体をふわりと抱き上げた。手首に足枷をぶら下げ、指先にはエマの華奢な靴がぶら下がっている。
そのままバルコニーを出て、まだ大勢の貴族たちが談笑するホールを悠然と横切っていく。突然の領主の行動に、周囲から好奇の視線が注がれるが、ロビンは気にする素振りも見せない。
「……面倒だな」
腕の中にいるエマを見下ろし、ロビンが小さく呟いた。
その言葉は、エマの耳にはっきりと届いてしまった。
(やっぱり、そうなんだわ。私、ロビンさんの負担になってる……。カエサル様までやってきて、面倒なことに巻き込んで……)
エマはびくりと肩を震わせると、ロビンの腕の中で小さく身を縮こませた。
迷惑をかけている自分が情けなくて、申し訳なくて。視界がぐにゃりと歪み、涙が込み上げてくる。
そんなエマの顔を見下ろし、ウルウルと滲んでくる涙に気づいたロビンは、微かに顔を顰めた。
「はぁ」
今度は、あからさまな深い溜め息だった。エマはギュッと眉を寄せ、必死に涙をこらえた。
◇◇◇
客室の前まで着くと、ロビンは煩わしげにドアを足で蹴り開けた。
部屋に入るなり、手に持っていた足枷と靴を床へ無造作に放り投げる。ガキンッという重たい金属音が響いた。彼は片手でエマを抱きかかえたまま、戸棚の引き出しを乱暴に開け、包帯と軟膏を取り出すと、そのままベッドへと向かった。
ロビンはベッドの端に腰を下ろすと、エマを背後からすっぽりと抱き込むような形で膝の間に座らせ、彼女の足首をグッと掴んだ。
「えっ!? ろ、ロビンさん!?」
「じっとしてて」
真後ろから声が降り注ぎ、剥き出しの肩にロビンの熱い息がかかる。足枷を外されたエマの身体はふわりと浮き上がりそうになるが、ロビンが重しとなって、なんとかベッドに留まっていた。
ロビンはグッと眉を寄せ、必死に冷静さを保とうとしていた。
オフショルダーの衣装から剥き出しになった滑らかな肩。それが自分の頬や顎に触れるたび、エマから漂う甘い香りが鼻腔をくすぐる。上から見下ろす形になるため、どうしても襟元の少しだけ盛り上がった谷間が視界に入ってしまい、ロビンは頭を振って無理やり足首へと意識を集中させた。
覆いかぶさるようにして足首を持ち直し、擦れて赤くなった肌へ冷たい軟膏を塗っていく。
「いっ……」
「だから言わんこっちゃない」
少しだけ意地悪な声で言いながらも、指先の動きはひどく優しい。
塗り終わると、ロビンは手に持っていた軟膏の容器をポイッと床に放り投げた。
「あっ、また! 使ったあとすぐにしまわないから、お部屋が散らかるんです!」
いつものお小言が口をついて出たエマに、ロビンは低い声で一蹴した。
「うるさいよ」
そう言いながら、器用な手つきで包帯を巻き始める。
だが、白く細い足首に白い包帯が巻きつけられていくその光景が、なぜかひどく扇情的に見えてしまい、ロビンはギリッと奥歯を噛み締めた。
(もう誤魔化せないな…俺はあいつに嫉妬したんだ。俺は、エマのことを…)
包帯を巻き終えたロビンは、余った包帯のロールも床へポイッと放り投げた。
「あ、また……」
と言って腕を抜け出そうとするエマ。ロビンは抜け出そうとするエマに耐えかねて、たまらず背後からエマの身体を強く抱きしめた。
「〜〜!? ろ、ロビンさん!?」
驚いたエマが、身をよじって振り返る。
その瞬間、至近距離でロビンと視線がぶつかった。彼の深い闇色の瞳がじっとりとエマの顔を見つめ、うろうろと顔の中を彷徨っている。
「つ、疲れたんですか? あ、あの、私のことは構わず、今日はもう寝てくださ――」
「キスしていい?」
「ええっ!?」
「キス、してもいいかって聞いてる」
エマは顔を真っ赤に染め上げ、ロビンの腕の中で身をよじった。ロビンが真剣な眼差しで答えを待っている。
(キスってなぜ? ノエル様は? ロビンさんも私のことが好きなの? そう、思って、いいの? ノエル様とのことは、もう終わったことなの?)
考えが巡る中、ロビンがふっと笑った。
「嫌なら……」
「い、いいい嫌じゃないです、、、あっ!」
そこまで言って、エマは言ってしまったとばかりに口を両手で塞いだ。ロビンが驚いた顔でエマを見下ろしている。
ロビンはエマの手首をそっと握って口からどかせると、そっと顔を傾けた。息がふれるほどの距離。そして…
ちゅ…っ
リップ音が、頭の中でひどくこだました。
「あ、あの、」
「黙れ」
エマが聞こうとした「どうして」は、ロビンの中に消えていった。
もう一度口づけをかわすために今度は逆の方に頭を傾けたロビンの形のいい唇が、まるで食べるようにしてエマの唇に食らいついたからだ。
エマが逃れようと身をよじるが、それが完全に逆効果だった。エマの抵抗が、逆にロビンの本能に火をつける。
一旦火のついたロビンは、もう止まれなかった。
身をよじって逃れようとするエマの細い首を掴んで、空いた方の手で後頭部を支えた。自由を失ったエマの唇に深く食らいついて、押し込んでいく。いつの間にかエマは、座っていたはずなのに完全に天井を見上げていた。抗議する為に胸板を叩こうとするのに力が出ない。
「んっ……!」
かすかな抗議の声を飲み込むように、彼の形の良い唇が、貪るように深くエマの息を奪っていく。
ロビンは、エマを抱き込んだまま強引に身体の向きをベッドの中心へ回転させた。圧倒的な体格差と、男性特有の重みで上から完全に覆い被さってくる。逃げ場を失ったエマの身体は、抗えない熱に絡め捕られたまま、深く、深く、柔らかなベッドの奥へと沈み込んでいった…。
誤字脱字修正しました!




