「私の花嫁に挨拶のキスを」〜甘く囁く美形の海軍少佐と、背後からマントを投げ捨てる過保護な元・死神。
「へ、変じゃないでしょうか……?」
鏡の前で、エマは落ち着かない様子で自分の姿を見下ろした。
身に纏っているのは、北部の伝統衣装だ。デコルテを綺麗に見せる真っ白なオフショルダーのワンピースは、ふんわりとした袖と柔らかな生地が愛らしい。丁寧に三つ編みに編み込まれた蜂蜜色の髪には、色鮮やかな花輪の冠が乗せられていた。
そして足元には、昨日作ってもらったばかりの足輪がしっかりと装着されている。重みはあるものの、おかげで今はリボンを使わずに自分の足で立つことができていた。
「似合ってるよ。すごく可愛い」
扉の敷居に寄りかかっていたロビンが、目を細めてさらりと言った。
エマはロビンの姿に驚いた。普段の軍服とは少し違う礼服を着ていたからだ。
濃紺の立襟に銀の刺繍、左肩にマントを羽織り、髪は後ろに流してある。
エマの顔がぼんっと赤くなる。けれど、すぐにギュッと拳を握り、心の中で自分を戒めた。
(勘違いしちゃ駄目。ロビンさんには、ノエルさんという待っている人がいるんだから。これはただの、契約でそばにいるだけ。領主様としての気遣いよ!)
「あ、ありがとうございます……」
エマは努めて冷静なふりをして、小さく頭を下げた。ロビンはそんな彼女の葛藤など知る由もなく、ふっと柔らかく微笑んで手を差し出した。
◇◇◇
城下の広場は、年に一度の祭りで凄まじい熱気に包まれていた。
色とりどりの旗が風に舞い、そこかしこに立ち並ぶ屋台からは、肉の焼ける香ばしい匂いや、甘い焼き菓子の香りが漂ってくる。
「わぁ……!」
「はぐれないで」
人が行き交う中、ロビンはエマの手を引いて歩いた。
足輪をつけていられる時間は限られている。だからこそ、エマはこの自分の足で歩ける時間を全身で楽しんでいた。
「ロビンさん、あれ美味しそうです!」
「はいはい。おじさん、それ二つ」
「こっちの串焼きも……!」
「よく食べるなぁ」
エマは次々に屋台の食べ物を買ってもらい、目を輝かせながらモリモリと頬張った。広場を歩いていると、多くの領民たちがロビンに声をかけてくる。
「領主様! 今年もいい祭りになりそうですな!」
「おお、ロビン坊ちゃんじゃないか! こっちの肉も食っていってくれ!」
口々に親しげに話しかけられ、そのたびにロビンは気さくに応じている。彼がこの地でどれほど慕われ、愛されている領主なのかが、エマにもはっきりと見て取れた。
そして、すれ違う若い女性たちが、うっとりとした、そしてどこか切なげな視線をこっそりとロビンに向けていた。
(――あれ? もしかしてロビンさんって、すごく……その、女性に人気があるんじゃ……?)
普段の気だるげで無愛想な姿しか見ていなかったエマは、ふとそんなことに気づく。
(あの銀灰色の髪に、整った顔立ちで、背もすごく高いし……。おまけに辺境伯様だし……!)
無意識に彼の軍服の袖をキュッと掴み直すと、ロビンは「どうかした?」と、あのクシャッとした人懐っこい笑顔で覗き込んできた。
周囲の視線に気づいているのかいないのか、彼はエマの頭を大きな手でぽんと撫でる。
(……ずるい人。あんな顔で笑われたら、他の人たちだって勘違いしちゃうのに……)
胸の奥がチクッとざわめくのを感じながら、エマは慌てて視線を逸らした。
(惚れてしまう女性がいるから隠してるって、最初に言ってたのは、本当なのかも……)
前を見ると、ロビンが街のみんなに囲まれて嬉しそうに話している。時々ワッと笑いが起こり、ロビンもにこやかに笑う。エマの視線に気づいたロビンが手を振ってくる。エマもニコリとそれに答えたその瞬間、エマは気づいた。
(あぁ。だから私にも隠していたのね…最初から、惚れて欲しくない相手だったから…。馬鹿なエマ。本当に馬鹿…。最初から、呪いのせいで結婚しているふりをしているだけなのに…)
エマはにこやかに微笑んでいたが、その笑顔とは裏腹に、心は痛いままだった…。
(恋がこんなに痛いって知らなかった…)
群衆の中で、背の高い彼はすごく目立った。美しい青い瞳でにこやかに笑うたびに、民衆が沸き立つ。エマは自分を見下ろした。足枷が重くのしかかっている。そうだ、自分は呪いがなかったら近づきさえ出来なかった人間だ。エマは自嘲して、ため息をついたのだった。
◇◇◇
夕刻が近づき、祭りの舞台は城内の大広間へと移った。
シャンデリアが煌びやかに輝く中、着飾った貴族や地主たちが集まり、華やかなパーティが開かれている。
しかし、領主代理であるロビンは挨拶回りに忙しそうだ。エマに足枷をはめると「少しだけ席を外すから、待ってて」と言い残して大広間の奥へ消えてしまった。
壁際で大人しく待っていたエマだったが、その時、会場の入り口付近から「わぁっ」というどよめきが上がった。
見れば、真っ白な詰襟に豪華な金の刺繍があしらわれた軍服姿の男たちが、数名連れ立って会場に足を踏み入れたところだった。
揃いも揃って長身で顔立ちが整っており、会場にいた令嬢たちが「きゃあ!」と黄色い声を上げて色めき立っている。
(すごい人気……でも、私には関係ないわね)
男たちがエマを目で追う。祭りの後でドレスに着替えたエマは、長い蜂蜜色の髪をサイドで編み上げており、淡いペールグリーンのドレスを着ていた。白い肌に蜂蜜色の髪、黒めがちな大きな瞳に、軍服姿の男たちは吸い寄せられた。
その視線に気づくことなくエマは知らぬ顔で、人混みを避けるようにバルコニーへと出た。
外の空気はひんやりと冷たく、火照った頬に心地よい。満天の星空を見上げながら、エマはロビンが戻ってくるのを静かに待っていた。
すると、背後のガラス扉が開き、一人の軍人がバルコニーへ歩み出てきた。
「麗しい令嬢が、このようなところで何をなさっているんですか?」
甘く響くテノールに驚いて振り向くと、そこには先ほど会場を沸かせていた白い海軍の軍服を着た男が立っていた。
金色の髪に、肩幅の広い逞しい体躯。まるで絵画から抜け出してきたような、完璧に整った顔立ちの男だった。
「今日は、星が綺麗ですね」
男は甘く、けれどどこか作り物めいた完璧な笑顔で、エマの隣へと近づいてくる。
「お祭りは楽しめましたか?」
「……? はい」
「それは良かった。あなたのような可愛い人と一緒に回れたら、さぞかし楽しいでしょうね。……お名前を、伺っても?」
見知らぬ男性からの突然の問いかけ。エマは少し迷ったが、海軍だし、怪しい者ではないだろうと思い、素直に答えた。
「エマ・ウィンターです」
その瞬間、男はピタリと動きを止め、驚いたように綺麗な眉を跳ね上げた。
「……ウィンター家の、御令嬢でしたか」
男は低く呟くと、すぐにいつもの甘い微笑みを取り戻し、自身の肩にかかっていた厚手のマントをふわりと外した。
「ここは寒いでしょう。これをどうぞ」
エマの華奢な肩に、温かなマントがかけられる。
「申し遅れました。私は、カエサル・ヴェインと申します」
エマの心臓が、ドクン、と嫌な音を立てた。
「え……!」
「ふっ、驚きましたか? 実は私も同じです。まさか、私の『婚約者』がこんなに可愛らしい方だとは、思ってもみませんでしたから」
カエサル。
継母ヘラが、ウィンター家を乗っ取るためにエマを無理やり嫁がせようとしていた相手。悪名高いヴェイン男爵家の人間――!
今年三十を迎えるというその男は、大人の余裕に満ちた優雅な微笑みを浮かべている。
しかし、その海色の瞳の奥には、年齢相応の抜け目ない打算の色が微かに透けて見えた。
エマが考えを巡らせていると、カエサルが困ったように「ふっ」と笑った。
「観察は済みましたか?」
にっこりと笑うその顔は、自分が美しく人目を引く容姿だということを分かり切っているようだった。
「あ、あの、あの、私、あなたとは……!」
エマは後ずさり、震える声で拒絶しようとした。
「聞いております。もしよかったら、私を避ける理由を伺っても?」
「急に言われたのです。あなたと結婚しなさいと……でも、私は会ったことも話したこともない方の元へは行けません!」
「なるほど」
カエサルは気を悪くした風でもなく、余裕のある態度で頷いた。
「では、今こうして目の前にして、どうでしょう? 私は、あなたのお眼鏡に敵いませんでしょうか?」
「ええっ!? そ、その、あ、あの……!」
「確かにおっしゃる通り、順序が間違っていました。では、こうするのはいかがだろうか。何度かデートを重ねて、お互いを知る。その上で、改めて返事を聞かせてもらうというのは?」
「で、デート!?」
そんなものは一度もしたことがないエマは、素っ頓狂な裏返った声を出してしまった。
エマは警戒心を剥き出しにしてカエサルを睨みつける。だが、カエサルはひるむことなく、熱を帯びた瞳でエマを見つめ返した。
「エマ、聞いてください。確かに君と私は、よほど恋愛とは程遠い形で互いの結婚が決まった。しかし、もしチャンスをもらえるのなら、私に君を口説く時間をくれないだろうか」
エマは呆気に取られた。
カエサルが、自分の想像していたイメージと全く違ったからだ。もっと横暴で、粗野で、無理やり自分を連れ去るような男だと思っていたのに。目の前にいるのは、信じられないほど甘い言葉を囁く、洗練された紳士だった。
「ふ、可愛い人だ。……もしよろしければ、私の美しい花嫁に、挨拶のキスを」
カエサルがゆっくりと屈み込み、エマの右手を取った。
「!……きゃあ!」
エマが悲鳴を上げかけた、その瞬間。
バサァッ!!
エマの肩にかけられていたマントが、背後から強引に引っぺがされた同時に空を舞った。
同時に、取られそうになっていた右手をぐいっと強く引っ張られ、エマの背中が硬く広い胸板にぶつかる。
「ろ、ロビンさん!? ってえええ!?」
いつの間に現れたのか。背後に立ったロビンは、恐ろしいほどの冷気をまとって無言でバルコニーの際まで歩み寄ると――躊躇うことなく、カエサルのマントを暗い中庭へ向かって放り投げたのだ。
「ま、マントが!! 何してるんですかロビンさん!」
「あぁ、落ちたなマントが。さっさと拾ってこいよ、海軍の犬。……いや、ヘラの犬か?」
ロビンはエマの叫び声を無視して肩を抱き、カエサルに向かって毒を吐いた。ロビンの声は、エマが今まで聞いたことがないほど低く、絶対零度の殺気を孕んでいた。
カエサルは虚空へ消えたマントを一瞥し、ゆっくりとロビンへ視線を戻す。その端正な顔に、好戦的な笑みが浮かんだ。
「……やってくれるじゃないか。ブラックウッド大尉。いや、今はもう軍を除隊したから、『元・大尉』だな?」
静まり返ったバルコニー。
黒と白、二人の男の視線が、火花を散らして激突した。




