「好きです!」(←パンのこと)〜無自覚な好きに打ち抜かれ、フリーズする辺境伯様と、歩くための足枷〜
翌朝。
エマは、頬に触れる規則的な息遣いと、身体を包み込む心地よい温もりを感じながら、ゆっくりと目を覚ました。
(なんだか、あったかい……)
ふわふわとした意識のまま、目の前にあるものを見つめる。
上質なリネンの白いシャツ。その少し開いた胸元の隙間から、引き締まった肌が覗いている。
エマの腰には逞しい腕がしっかりと回り、掛け布団の下では、ロビンの長い脚が彼女の両脚を逃がさないように絡みついていた。
「……っ!」
微睡みは一瞬にして吹き飛んだ。
(ま、またロビンさんの腕の中にいる――!)
悲鳴を上げそうになった口を、エマは両手で慌てて塞ぐ。
目と鼻の先では、ロビンが静かな寝息を立てていた。昨日とは違い、きちんとシャツを着てはいるものの、胸元のボタンが二つほど外れているせいで、どこへ視線を向けても目のやり場に困る。
(落ち着いて落ち着いて、きっと私が夜中に浮かないように、こうして押さえてくれているだけなのよ……)
懸命に自分へ言い聞かせ、彼を起こさないよう、そっと身体を引き離そうとした途端――腰へ回された腕にぐっと力がこもった。
ゆっくりと開かれた青い瞳が、柔らかな朝の光を反射して、すぐそばからエマを見つめる。
「おはよう、エマ・ウィンター」
「……っ」
本当のフルネームを呼ばれただけなのに、なぜか胸の奥がひどくくすぐったくなる。
「お、おはようございます……」
顔を真っ赤にして言い返しながらも、エマの脳裏には昨夜聞いた彼の寝言が蘇っていた。
『ノエル……頼むから……』
切実なあの声。きっとロビンには、大切に想い、戻ってくるのを待っている女性がいるのだ。それなのに、自分が毎晩こんなふうに彼の寝台を占領していていいはずがない。
胸の奥へ、昨夜感じたのと同じ、針で突かれたような小さな痛みが走った。
「……どうしたの?」
「え?」
「さっきから百面相が始まってるけど」
「な、何でもありません!」
「ふうん」
ロビンは何か言いたげにじっとエマを見つめていたが、それ以上深く追及することはなかった。
◇◇◇
「私にも、お仕事を手伝わせてください!」
朝食を終えるなり、エマはシリルの執務机へ両手をつき、力強く宣言した。
正確に言えば、身体が浮かないよう腰へ太いリボンを巻きつけられ、机から少しだけ浮遊している状態である。
書類へ目を落としていたシリルが、眼鏡の奥から呆れたようにエマを見上げた。
「昨日の今日です。少しお休みになってはいかがですか」
「じっとしている方が落ち着きません。それに、お父様の帳簿なら、私にも読めます」
「帳簿が読めることは、昨日よく分かりましたが」
「お父様独自の記号や省略もあります。ほかの方より、私が見た方が早いはずです」
エマは胸元で両手をぎゅっと握り締めた。
「ウィンター領のことです。私にもできることをさせてください」
しばらく無言でエマを見つめていたシリルは、やがて小さく息を吐いた。
「……では、こちらをお願いします」
彼が差し出したのは、帝都の財務院から届いた帳簿の写しと、山のような納品書だった。
「原本への書き込みは禁止。訂正箇所と不足書類は、すべて別紙へ記録してください」
「はい!」
「何か不自然な箇所を見つけても、一人で調べに行かないこと」
「はい!」
「…本当に分かっていますか?」
「もちろんです!」
元気よく答えたエマに、シリルはわずかに不安そうな顔をした。
それでも仕事を任されたことが嬉しくて、エマは用意された自分の机へ向かった。
腰と膝の下へリボンを通し、空中に簡易の椅子を作る。机の縁を片手でつかんでいれば、身体が勝手に流されることもない。
エマはまず、帳簿と納品書を年度ごとに分けた。次に、鉱山、倉庫、輸送業者ごとに細かく分類していく。
「シリル様。同じ輸送費が、資材費と管理費の両方へ記載されています。こちらは計上の重複ですね」
「もう見つけたのですか?」
「伝票番号が同じですから。それから、この三件には倉庫の受領印がありません」
エマは次々と不備を別紙へ書き出していく。
古いタイプライターを引き寄せると、軽やかに鍵盤を叩き始めた。
カタカタカタカタッ。
静かな執務室に、小気味よい音がリズミカルに響き渡った。
◇◇◇
昼を少し過ぎた頃だった。
パン屋の常連の二人、商人の息子たちが見舞いにきた。
「エマさん!」
「元気そうだね!」
「お二人とも……!」
馴染み深い顔を見た瞬間、エマの表情がぱっと明るく花咲いた。
うっかり机から手を離してしまったため、身体がふわりと天井へ向かってしまう。慌ててリボンを引き、二人の目の前まで移動した。
「どうしてこちらへ?」
「店主から、見舞いを届けてくれって頼まれたんだ」
「エマさんの様子も見てきてくれって。店じゃ、みんな心配してるぞ」
二人が差し出した大きな籠から、焼きたてのパンの香ばしい匂いがふわりと広がる。
「お店はどうなっていますか?」
「開けてはいるけど、昼前になると相変わらず大混乱だよ」
「ほら! これ店主のおっさんからだ!」
「わあ……!」
二人が山盛りのパンをテーブルに広げる。その優しさに、エマの目にじわりと涙が浮かんだ。
「ありがとうございます。呪いが解けたら、必ずお店へ顔を出しますね」
「顔を出すだけじゃなくて、戻ってきてくれよ」
「そうだよ。辺境伯様の婚約者になったって噂、本当なのか?」
「そ、それは……!」
エマは思わず口籠もってしまった。
「何か問題でも? 婚約者だから一緒にいるんだけど?」
背後から響いた低く冷ややかな声に、青年二人の背筋がぴんと伸びた。
振り返ると、黒い軍服を隙なく着こなしたロビンが、扉のそばに立っていた。
「へ、辺境伯様!」
「お邪魔しております!」
「別に。エマの見舞いに来てくれたんでしょ。ありがとう」
口元には穏やかな笑みが浮かんでいる。けれど、二人とエマの間へ自然に入り込むその動きには、少しの隙もなかった。
「それ、パン屋から?」
「はい! 店主から、エマさんとお城の皆さんへ」
籠の中を覗き込んだエマが、嬉しそうな声を上げた。
「店主さんが、エマさんが山猪の肉が好きだからってスープも預かってるよ!」
「わぁ!」
エマはスープをひと口飲んで、嬉しそうに微笑んだ。
「エマは山猪が好きなんだね」
ロビンが聞くとエマは元気に答えた。
「はい!あっ、カスクート!」
香ばしく焼き上げられた細長いパンに、旨味の詰まった燻製肉とチーズがたっぷりと挟まれている。
「これ、ロビンさんが毎朝買ってくださっていたものですよね」
「そうだね」
ロビンさんもどうぞ、と勧められて彼もパンを受け取る。
その時、ロビンは籠の中からエマの好きそうなパンを見つけ出した。
「これ、好きなんじゃない? 木苺のパン」
「わぁ、美味しそう!」
エマは目を輝かせて受け取ると、早速大きな口を開けて頬張った。
甘酸っぱいジャムと柔らかな生地のハーモニーに、驚いたように目を丸くする。そしてロビンを見上げると、目をキラキラさせて破顔した。
「すごく好きです!」
「!」
ロビンの顔が、文字通り石のように固まった。
「すっごい美味しい! ロビンさんもどうぞ!?」
エマはパンをちぎると、無邪気にロビンへ差し出した。
だが、ロビンは彫像のごとく固まったまま、ピクリとも動かない。
エマは不思議そうに彼を眺めた後、「た、食べないなら私が食べますね?」と言って、あっという間に残りを全部食べ切ってしまった。
「ロビンさん? 大丈夫ですか?」
「あ、あぁごめんごめん……破壊力が凄すぎた」
「? 何がですか?」
「こっちの話……」
「あーあーあー、もう見てられませんね」
一部始終を見ていたシリルはぶっきらぼうにそう吐き捨てると、手元の硬いパンを無慈悲に齧り切った。
「ところで、本当にずっと浮いてるんだな」
青年の一人が、エマの腰から伸びて家具に結びつけられているリボンを見上げた。
「はい。身体へ重りをつける方法も試したのですが、皮膚を傷めてしまって……」
「重さが一か所に集中するからじゃないか?」
「なぁ、俺たちの商会に、鉱石を量るための重りがあるよな」
二人の青年は顔を見合わせた。
「幅を広くして、内側へ羊毛を詰めれば……」
「エマちゃん体重どれくらい?」
「え、あ、四十二キロくらい?」
「……」
何か閃いたように、青年二人は勢いよく立ち上がると、そのまま嵐のように執務室を飛び出していった。
「「俺たち、明日また来ます!」」
「何か作る気ですね、あれは」
シリルが呆れたように眼鏡の位置を直す。
「若者は元気だねぇ」
「閣下が言うことですか」
◇◇◇
翌日。
昨日の青年二人が、大きな木箱を抱えて再び城へやってきた。
走ってきたようで、額には大粒の汗が浮かんでいる。
「で、できました……!」
「重かった……!」
床へ下ろされた木箱が、ゴンッ、と鈍く重い音を立てた。
蓋を開く。中へ収められていたのは、黒い金属で作られた二つの足輪だった。
「足枷……」
その厳めしい見た目に、エマはごくりと息を呑んだ。
「正確には、重し付きの足輪です」
シリルが片方を持ち上げようとし、その重量に眉をひそめた。
「随分と重いですね」
「鉱石の計量に使う重りを、町の鍛冶屋に徹夜で加工してもらいました。浮き上がる力と釣り合えば、足は地面につくはずです」
「上向きの力が、足首へ集中する危険があります」
「だから、できるだけ幅を広くして力を分散させるようにしてあります。内側の羊毛も、いつでも取り替えられます」
シリルは縫い目や留め金を一つずつ、プロの目で厳格に確かめていく。
一方、ロビンは腕を組み、非常に気難しい顔でその足輪を見下ろしていた。
「本当に試すの?」
「はい!」
「痛かったら、すぐ言うこと」
「……はい」
「今、少し間があったね」
「気のせいです!」
エマはリボンをたぐり寄せ、低い長椅子の上へ移動した。
青年の一人が足輪へ手を伸ばす。
「では、俺たちが――」
「貸して」
ロビンがひったくるように、その手から足輪を取り上げた。
青年二人が苦労して運んできた鉄の塊を、片手で軽々と持ち上げる。そのままエマの前へ進み出ると、静かに片膝をついた。
「ロ、ロビンさんがつけるんですか?」
「何か問題ある?」
「ありませんけど……」
ロビンの長く美しい指が、エマの靴をそっと脱がせる。
薄い靴下に包まれた足首へ直接触れられ、びくっとエマの肩が跳ねた。
「くすぐったい?」
「だ、大丈夫です」
「動かないで。挟むよ」
羊毛が肌へ均等に当たるよう細かく調整しながら、ロビンは極めて慎重に足輪を巻きつけていった。
片方。そして、もう片方。
カチャリと留め金が固定された途端、エマの身体が少しずつ、確かな重力に引かれて下へ沈み始めた。
「わ……!」
ロビンは素早く立ち上がると、彼女がバランスを崩さないよう腰へ腕を回した。
これまでずっと不自然に宙を舞っていたドレスの裾が下がる。足先が、ゆっくりと床へ近づいていく。
やがて、爪先が絨毯へ触れた。
続いて、踵がしっかりと下りる。
「おぉ〜」
「一歩、歩いてみる?」
ロビンが腰を支えたまま、優しく問いかける。エマは大きくうなずいた。
恐る恐る右足を持ち上げる。
足輪そのものは驚くほど重いはずなのに、呪いによる身体を持ち上げようとする力と見事に相殺され、思っていたよりもずっと軽く動かすことができた。
一歩。
もう一歩。
「私、歩けます!」
歓喜を抑えきれず、エマは青年二人のもとへ駆け寄った。
「ありがとうございます!」
エマは二人の手を両手でぎゅっと握り、満面の笑みを浮かべた。
「本当に、本当にありがとうございます!」
「い、いや……!」
「役に立てたなら、その……!」
二人の青年が揃って顔を真っ赤にする。
その様子を見たロビンの青い瞳が、わずかに、しかしはっきりと細くなった。
「もうお礼は十分じゃない?」
「ですが、お二人のおかげで自分の足で歩けたんですよ!」
「分かったから。手、離してあげたら?」
「あっ、申し訳ありません!」
エマが慌てて手を離す。青年二人はどこか名残惜しそうに自らの手を見つめていた。
なぜそれがこれほどまでに妙に気に障るのか、ロビン自身にも分からなかった。
「廊下も歩いてみていいですか?」
「ゆっくりね」
ロビンはエマのすぐ隣へ並んだ。エマは一歩ずつ、床の確かな感触を確かめるように、噛み締めるように廊下を進んでいく。
廊下の先に、小さな段差があった。
エマが少し躊躇って足を止める。
ロビンは反射的に、彼女を支えようと手を差し出した。
同時にエマも、彼の手を求めるように自然と腕を伸ばしていた。
指先が、ほんのわずかに触れ合う。
「……」
「……」
二人は、空中で触れ合った互いの手を見つめた。
けれど、今のエマは自分の足でしっかりと立っている。もう、ロビンに支えてもらう必要はないのだ。
二人は示し合わせたように、同時に手を引っ込めた。
「ご、ごめんなさい。つい、癖で……」
「俺も。癖になってたみたい」
ロビンは何でもないことのように、軽く笑って見せた。
「もう、俺が支えなくても歩けるね」
「はい……」
嬉しいはずの言葉だった。
一人で歩けるようになったのだから、喜ぶべきことのはずだ。
それなのに、触れかけた指先が急に冷たくなったような気がして、エマの胸がちくりと痛んだ。
エマは一人で段差を下りた。
ロビンは手を出さず、すぐ隣を歩いている。その距離は、ほんのわずかしか離れていない。けれどエマには、なぜかいつもより彼が遠く感じられた。
「エマ」
廊下を半分ほど進んだところで、ロビンが不意に立ち止まった。
「少し歩き方が変だよ」
「え? そんなことは――」
ロビンはエマの前へしゃがみ込むと、足輪と足首の隙間へそっと指を入れた。
「痛っ」
「痛いんじゃない」
「ほんの少しです!」
カチャリと留め金を外す。
足輪の下では、エマの白い足首が摩擦によってうっすらと赤く腫れていた。
ロビンの顔から、一切の笑みが消え失せた。
「今日はここまで」
「でも、まだ歩けます!」
「歩けるかどうかじゃなくて、痛いかどうかを聞いてるんだけど」
「これくらいなら我慢できます、大丈夫です」
もう片方の足輪も外された途端、エマの身体がふわりと宙へ浮き上がった。
「わっ」
ロビンは素早く立ち上がり、その細い腰を引き寄せる。
エマの身体が、慣れ親しんだ彼の腕の中へすっぽりと収まる。
その瞬間、エマの心に浮かんだのは――ほっとしたような、少し残念なような、ひどく矛盾した妙な気持ちだった。
「シリル」
執務室へ戻るなり、ロビンが地を這うような低い声で呼んだ。
「解呪薬の開発を急いで」
「私も全力で取り組んでおります」
「必要な人間と材料を、今日中に全部書き出して。予算は一切気にしなくていい」
「承知しました」
ロビンは腕の中のエマの赤くなった足首を、親指の腹でそっと撫でた。
「当面、この足輪を使用するのは一日三十分まで。少しでも痛みや痺れがあれば、すぐに外して」
「三十分……」
「不満?」
「いいえ。少しでも自分の足で歩けるなら、十分です!」
エマがパッと顔を輝かせて笑うと、ロビンはエマを抱き寄せたまま、窓の外へ目を向けた。
城下では、通りを横切るように色鮮やかな旗がいくつも張られている。広場には屋台の骨組みが並び始め、町の人々が祭りの準備で忙しそうに行き交っていた。
「そうだ。明日、城下で祭りがあるんだ。君も一緒に行く?」
「私も?」
「足輪をつけられるのは少しだけだけど、それ以外はリボンを使えばいい。疲れたら俺が抱くし」
「! はい。私も行きたいです!」
ロビンの口元が、満足そうに緩んだ。
◇◇◇
その夜。
ロビンは熱いシャワーを浴びながら、昼間のエマの言葉を不意に思い出した。
『好きです!』
パンに向けられた無邪気な笑顔と、きらきらと輝く瞳。
自分に向けられた言葉ではないと分かっていても――。
ドクン……と、心臓が高鳴る。
「はぁ、どんどん面倒なことになってくな」
ロビンは降り注ぐシャワーの湯を浴びながら両手で顔を覆った。自分の気持ちがもう隠しきれないほどにはっきりとエマを求めているのを感じて、ロビンは奥歯を噛み締めた。
部屋に戻ると、机の端には置いてある銀色の写真立てが目に入った。
軍服姿の兄が、昔と変わらない顔で笑っている。
(ノエルを、頼む……)
兄が最後に自分に託した言葉が蘇る。
「……分かってるさ」
ロビンはしばらくそれを見つめ、やがて自嘲するように目を伏せた。




