恋を自覚した途端に失恋しました〜別の女性の名前を呼ぶ辺境伯様に、こっそりキスされているとは気づかない令嬢〜
温かい湯舟と侍女たちの細やかな世話のおかげで、エマの強張っていた身体はすっかりほぐれていた。
ふわりと軽い白いレースのネグリジェを身に纏い、脱衣所から寝室へ戻ると、室内はランプの灯りが落とされ、静寂に包まれていた。
「あ、寝て……る?」
部屋の隅にある一人がけのソファで、ロビンが深く腰を沈めていた。
詰襟の軍服はすでに脱ぎ捨てられており、ラフな白いシャツの胸元が少し開いている。長い脚を投げ出し、銀糸のような髪をソファの背もたれに預けたまま、彼は静かに目を閉じていた。
(疲れが溜まってるのね……)
無理もない。領地の膨大な帳簿仕事に加え、今日の昼間には襲撃者の尋問まであったのだ。
エマは音を立てないよう、壁から壁へと張り巡らされたリボンを器用に伝い、ベッドの上から肌触りの良い毛布を一枚引き抜いた。そしてフヨフヨと宙を泳ぐようにソファへ近づき、上からそっと毛布をかけてやる。
眠るロビンの顔は、起きている時の気怠げで人を食ったような態度が嘘のように、無防備で幼く見えた。
整った目鼻立ちに見惚れてしまう。
そして今日までのあらゆることが一気に思い浮かび、顔がカッと熱くなった。
こんなにかっこいい人が自分を抱きしめ、いつも優しくしてくれているなんて、信じられない思いだった。
どんどん顔は赤くなるのに、彼の顔から目が離せない……。
エマは口元を覆った。
もう、誤魔化せそうにない。
――この人が、好きだ。
エマはそこまで考えが及んで、顔を両手で覆い、ぶんぶんと首を振る。
その時だった。
エマの肩口に流した蜂蜜色の長い髪から、拭ききれていなかった水滴が、ぽたりと落ちそうになった。
(いけない!)
彼を起こしては大変だと、身をよじって離れようとした、その瞬間。
「ノエル……頼むから……」
掠れた、ひどく切実な声だった。
エマの動きが、空中でピタリと止まる。
ズキン……。
胸の奥で、鋭い棘が刺さったような、心が凍りつくような痛みが走った。
苦しげに眉をひそめるロビンの横顔を見つめたまま、エマは息をするのさえ忘れてしまう。
「うあっ、冷たっ……エマ?」
ぽたり、と。
ついに落ちた冷たい水滴が頬を打ち、ロビンが青い瞳をパチリと開けた。目の前で固まっているエマを見て、何度か瞬きをする。
「あっ、ご、ごめんなさい! 髪がまだ濡れてて、水滴が……起こしちゃいましたね」
「うたた寝してたよ。……これ、毛布エマが? ありがとう」
「い、いえ……」
エマは居心地の悪さを誤魔化すように、そっと視線を逸らした。
向いた先は、隣の部屋に続く壁。先日の夜、彼が決して開けようとしなかったあの部屋だ。
(ノエルさんって……言うんだ)
胸の痛みを押し殺すように、エマは知らず知らずのうちに考え込んでいた。
きっと、ロビンはノエルという女性が戻ってくるのを待っているのだ。だから、あの部屋も当時のまま大事に残しているに違いない。
それなのに、見ず知らずの自分が転がり込み、彼の寝室を半分占領してしまっている。
『介護だよ、介護』
トイレの入り方を相談した時の、彼の呆れたような声を思い出す。
(そうだ介護……あぁ私ったら何を勘違いしていたの!? だめだわ。このままじゃ……は、早くここを離れないと)
エマはぎゅっと両手を握り締めた。
(気持ちに気づいた途端に失恋するだなんて、私って本当に馬鹿だな。でも)
明日、もう一度シリルに頼み込んで、この呪いを解く方法を本気で調べよう。あ、それから、父の残した複雑な帳簿の確認も手伝わなくては。
「んーんっ……」
気づけばエマは、空中でフヨフヨと浮き沈みしながら、クルクルと回り、盛大に唸り声を上げていた。
ロビンは毛布を掴んだまま、その珍妙な様子をじっと見つめている。
「君って、本当に百面相だよねぇ」
「ええっ、そうですか?」
「そうだよ。さっきから眉と口が忙しすぎるでしょ。パン屋で大人しくレジ打ってた時と大違いだね」
からかわれたエマは、むっと口を尖らせた。
ロビンは楽しそうに笑うと、立ち上がってサイドテーブルへ向かい、温めたミルクをカップに注いだ。
「ほら」
「ありがとうございます」
差し出されたカップを受け取ろうと、エマはリボンをたぐって彼のそばへ近寄った。
ロビンが極めて自然な動作でエマの背中へ手を回し、すっと引き寄せる。
「ひゃっ」
気がつけば、エマはロビンの膝の上へ、横向きに座らされていた。
浮き上がろうとする身体を、彼の長くて逞しい腕が腰に回ってしっかりと押さえ込んでいる。
「これにも、随分慣れてきたね?」
ロビンが耳元で面白そうに囁く。
「……慣れてるのは、ロビンさんだけです」
エマは心外だとでも言うように顔を背け、カップに両手を添えて、温かいミルクをちょびちょびと飲み始めた。
ロビンはそんなエマの横顔を、どこか新鮮な気持ちで見つめていた。普段は生真面目にきっちりとアップにまとめている髪を、見つめる。蜂蜜色の真っ直ぐな髪はランプの光を受けて柔らかく輝き、微かに石鹸の甘い香りが漂ってくる。
「……あの、聞かないんですね」
ふいに、エマがカップから口を離してぽつりとこぼした。
「私のこと。家で、何があったのか」
「聞いていいなら?」
ロビンの静かな促しに、エマは膝の上でぽつぽつと語り始めた。
父が後妻であるヘラを迎え、共に暮らし始めたこと。父が重い病に伏せり、義母や義妹からのいじめが始まったこと。父が他界し、見知らぬカエサルという男爵と無理やり結婚させられそうになり、マーサという母代わりの侍女が城から逃げ出させてくれたこと。
そして――あの雪の降る森で、追っ手から隠れていたところを、ロビンに見つけてもらったのだと。
ロビンは静かに話を聞いていたが、話し終えて、涙ぐむエマをみて、そっと口を開いた。
「大変だったな。マーサという人は、どこへ行ったんだ?」
「はい、マーサは足が悪いから一緒には行けないと言って…親戚のいる南の方へ行くと言ってました。南の領地はカエサル様の領地だから、私は南には行けなくて……」
エマは胸元のロケットへ、そっと指を添えた。
「無事に逃げられたのか、それきり分からないんです」
「……そうか」
ロビンは何かを考えるように、わずかに目を細めた。
「あの時は、本当にありがとうございました。見つけていただかなければ、私は今頃……」
「まぁ、自分の持ってる数少ないパンを、暢気にリスへあげ出しちゃったからね。イライラしたんだよ、『いや、それあげてる場合かよ』って」
「えええっ!? 声をかけてくださったのって、それが理由ですか!?」
てっきり気の毒に思って助けてくれたのだと思っていたエマは、目を丸くして彼を見上げた。
ロビンの青い瞳が、悪戯っぽく細められる。
「ふっ……まぁそうだね。でも、君らしくていいんじゃない?」
優しい声色に、エマの胸がまた小さく跳ねる。
ノエルという女性の存在を思い出し、エマは無意識のうちにロビンの膝からスッと身をよじって離れた。リボンを掴み、空中に留まる。
「明日からは、私もお父様の帳簿を一緒に確認します! これからは、ロビンさんが正式な領主代理ですものね。私にできることなら、何でも手伝いますから」
「ははっ、それはありがたいな」
空回り気味に宣言するエマに、ロビンは穏やかに微笑んで頷いた。
◇◇◇
その後、ロビンが手早く湯浴みを済ませて寝室へ戻ってくると、部屋には規則正しい寝息が響いていた。
「……マジか」
ロビンは呆れたように息を吐いた。
エマは空中で器用に眠りこけていたのだ。もっとも、体が天井に押し付けられ、顰めっ面をしていたが。
「俺って、全く男として意識されてないんだなぁ……ま、意識されても困るか」
苦笑しながら近づく。
寝返りを打った拍子にはだけたのか、白いレースのネグリジェの裾から、真っ白で滑らかな素足が覗いていた。長く美しい蜂蜜色の髪が、空中にふわりと広がっている。
ロビンはリボンを丁寧にほどくと、エマの細い腰をしっかりと抱き寄せた。
そのままゆっくりとベッドへ横たわり、自分も隣へ滑り込む。エマの身体がふわりと浮き上がろうとするのを、ロビンは自分の腕を彼女の背中に回し、片脚を彼女の脚へ絡めるようにして、ぐっと体重をかけてホールドした。
これだけ密着してのしかかっているというのに、エマは「んぅ……」と小さく寝言を漏らしただけで、起きる気配は全くない。
途端に、彼女の髪から立ち昇る甘い石鹸の香りが、ロビンの鼻腔をくすぐった。
腕の中にすっぽりと収まる華奢な温もりに、心臓の奥がじわりと熱を帯びる。
ロビンは、エマの滑らかな髪へそっと顔を埋め、音を立てずにキスを落とした。
ただの保護対象だった彼女を、結局こうしてベッドに縛り付けている。自分の取った行動に、小さく息を吐いて苦笑する。
「おやすみ、エマ・ウィンター」
静かに目を閉じると、いつもなら神経が張り詰めて寝つくまでに時間がかかるというのに、嘘のように心地よい睡魔が押し寄せてきた。
腕の中の確かな重みを感じながら、ロビンは吸い込まれるように深い眠りへと落ちていった。
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