湯気のむこうのお茶さん
「あ〜、お腹減った〜」
玄関のドアを開けると、キッチンから母の声が明るく響いた。
「ご飯できてるわよ〜」
「わーい!」
制服を脱ぎながらリビングに入ると、湯気の立ち上るご飯の匂いがふわっと鼻をくすぐる。炊きたての白米、照り焼きチキン、ひじきの煮物、冷奴に、わかめのお味噌汁。まるでお腹が全部に手を伸ばしているみたい。
「お母さん、今日もすごい…!」
夏美が箸を持つと、母が笑いながら湯呑みを差し出してきた。
「はい、お茶も忘れずにね」
「ありがとう〜」
両手で湯呑みを受け取り、ふぅっと湯気を吹いてからそっとすすった。
香ばしい香り。やわらかい渋み。体のすみずみにまで染み込むようなやさしさ。
「…おいしい」
その瞬間、耳の奥で誰かがそっと囁いた。
「そう、ありがとう」
夏美はびっくりして湯呑みをのぞきこんだ。
「…今、喋った?」
「ええ、私よ。あなたの手の中にいる、お茶です」
「お茶…?」
「そう。あなたがこうして“ほっ”とできる時間をつくるのが、私たちの役目なの」
「へえ、でもなんでこんなに落ち着くんだろう。さっきまでバタバタしてたのに…」
「それはね、私が茶畑で育つときにたっぷり浴びた“お日さまの記憶”を持っているからよ。風にそよいだ記憶も、やさしい手で摘まれた感触も、全部この中にあるの」
「お日さまの記憶…」
「うん。それに私たち緑茶は、摘まれてすぐに蒸されて、発酵を止められるの。だから緑のまま。自然のまま。あなたの心にまっすぐ届くのよ」
「じゃあ、紅茶は?」
「紅茶はしっかり発酵していて、深く落ち着いた香りがあるわ。少し大人っぽくてね。ウーロン茶はその間。ちょっとだけ発酵していて、ふんわりとした味わいなの」
「お茶にも性格があるんだね…」
「あるのよ。それぞれが違う道を歩んできた。でも、みんな誰かの心をあたためたいって思ってる」
「なんだかすごいな…お茶って、こんなにやさしかったんだ」
「ふふ。今日もがんばったあなたに、少しでも寄り添えたら嬉しいわ」
その声に夏美は微笑み、もう一度、お茶をすすった。
その香りの向こうに、茶畑の光景がふと浮かぶ。
陽ざしに輝く緑の葉。風に揺れる柔らかな枝。そして、それを丁寧に摘む誰かの手。
「ありがとう、お茶さん」
湯気がふわりと立ちのぼり、ほのかに返事をしたような気がした。
そして母が何気なく言った。
「そのお茶ね、ちょうどこの前、親戚がくれたの。静岡の新茶だって」
「そうなんだ…なんか、特別な味がすると思った」
食卓の明かりがぽかぽかと温かく、窓の外にはほんのり夕焼け。
今日も、日常の中にある小さなごちそうが、夏美の心をゆっくりと満たしていた。
忙しい日々の中、何気なく飲んでいるお茶。
でもその一杯の中には、お日さまの光や風、ていねいな手仕事、そしてやさしさが詰まっているのかも…




