胸元の小さなご縁
夏美がレジカウンターに立っていると、白髪のおばあちゃんがやってきた。
買い物かごには、かりんとうと緑茶のペットボトルが一つずつ。
「こんにちは〜」
「こんにちは。今日はいいお天気ですね」
おばあちゃんはにこにこしながら、ふと夏美の胸元に目をやる。
「あなた、佐藤さんって言うのね」
「はい、そうです」
「まぁねぇ、私の旧姓も佐藤なのよ。なんだか親近感がわくわ〜」
「そうなんですね。うれしいです」
「また来るわね」
「ありがとうございました!」
──そのやり取りを、名札くんはじっと見ていた。
制服の胸元で、ピタリと留まった名札くん。表面はピカピカに磨かれていて、名前の「佐藤」の文字が今日もくっきり。
(やっぱり、つけてもらえるって、うれしいなぁ)
名札くんは静かに思った。
最近は「個人情報が…」とか「トラブルが怖い…」とかで、名札をつける人が減ってきた。
実際、名札くんの仲間たちは、どんどん引き出しの奥に追いやられていっている。
ときどき、薄暗い引き出しの中から、「今日も出番なしだったよ…」と寂しそうな声が聞こえてくることもある。
(たしかにね、心配なこともあるんだ。名前を知られることで、不安になることもあるだろうし…)
でも、と名札くんは思う。
(それでも、名前って“誰かとつながる”ための入口なんだ)
「佐藤さん」って呼ばれるだけで、ただのレジ係が、“知ってる人”になる。
会話のきっかけが生まれ、ちょっとだけその人の世界が広がる。
そういう瞬間を、名札くんはずっと胸元で見てきた。
(僕がいるだけで、安心する人がいる。親しみを持ってくれる人がいる)
──その小さな役割が、名札くんにとっては何よりの誇りだった。
その日の夕方、夏美はふと胸元を見て、名札を少しだけ直した。
斜めになっていたピンをまっすぐにして、軽くホコリを払う。
「今日もおつかれさま」
何気ない一言だったけれど、名札くんには十分すぎるほどのご褒美だった。
(明日も、ちゃんと名前を伝えよう。誰かとの小さなご縁のために)
そう思いながら、名札くんは夏美の制服とともに、ハンガーに掛けられて眠りについた。
明日も、胸を張って「佐藤です」と名乗る準備はできている。
名札はただの名前札じゃなく、人と人をつなぐ小さな橋のような存在。
胸元で揺れるプレートが、思いがけない笑顔や会話を生み出してくれます。




