湯船の声と、素直なひととき
ただいま〜
夏美は、いつものように家へ帰ってきた。
玄関の扉を開けると、ほんのり漂う夕飯の香り。
「夏美、ご飯の支度もうちょっとかかるから、先にお風呂に入っちゃって」
キッチンから母の声がした。
「はーい」
返事をしながら、夏美はタオルを手に脱衣所へ向かった。
今日もいろいろあったな…
レジは混むし、先輩にはちょっと怒られるし、雨も降ってきたし。
お湯を溜めて、体を洗って、湯船にそっと身を沈める。
「はぁ〜、いい気持ち…」
すると、どこからか声が聞こえた。
「おならをするなよ」
「えっ?」
「だから、おならをするなよと注意をしとるんじゃ」
低くて渋い声が、湯船の中から聞こえる。
「お前はこの前、くさ〜いおならをしおったから、わしゃ臭くて臭くてたまらんかったんじゃ。だからじゃ」
「え〜と、どなた様…?」
「わしゃ、湯船のお湯じゃ。家族のみんなの疲れを癒すお湯じゃ」
「わしの絶妙な温度が、とっても気持ちええんじゃ」
「たしかに、そうだな〜」
夏美は肩まで浸かりながら、思わず口元を緩めた。
「そうじゃろ? わしは毎日、お母さんの手加減と、お前さんのリモコン操作によって、この奇跡の温度を保っておる。だからこそ、変な音や匂いで台無しにされたら、悲しいんじゃよ」
「ご、ごめんなさい…この前は、つい気が抜けちゃって…」
「ふむ。まあ、今日はちゃんとしておるから許してやる。お風呂っちゅうのはな、心も体もまあるくしてくれる場所なんじゃ。わしの中では、ちょっとくらい素直になっても、誰も笑わん」
夏美は、湯の中で膝を抱えて小さく笑った。
「…じゃあ、今日あったこと、ちょっと聞いてくれる?」
「話してみい。わしは湯気となって、黙って受け止めてやろう」
ぽこぽこと、小さな泡が湯の中に浮かぶ。
まるで「うん、うん」とうなずいてくれているみたい。
夏美は、今日あったちょっと悔しかったこと、嬉しかったこと、誰にも言えなかった気持ちを、ぽつりぽつりと話した。
湯船の湯は、ただ静かに、やさしく包んでくれる。
その夜、夏美は、湯上がりの湯気とともに
少しだけ素直になれた自分を感じて、
心の奥がぽかぽかとあたたかくなるのを感じていた。
疲れた日ほど、ふとした瞬間に心がゆるみます。
お風呂のお湯が本当に話しかけてくれたなら——
そんな妄想の中で、夏美は少しだけ素直になれました。




