レディ傘
「さーて、今日は帰るか…」と、夏美は肩をまわして小さく伸びをする。
外に出ると、朝から降っていた雨は、いつのまにか霧のようにやわらかくなっていた。
空は灰色のままだけど、どこか優しい色をしている。
「お疲れ様でした〜」
夏美は傘を開いた。
「傘なくてもいいような、でも…あったほうがいいような…」
そんなふうに思いながら、ゆっくり歩き出す。
そのときだった。
ひゅう〜っと風が吹き抜ける。
「わっ!」
夏美の傘が一気に裏返り、ふわっと広がった。
「エッチ!」
「えっ…?」
驚いて傘を見つめていると、聞こえてきたのは少し気取った、でもどこか品のある声。
「スカートがめくれちゃったじゃない!早く元に戻してちょうだい!」
「す、すみません…」
夏美は慌てて傘の骨を元に戻そうとする。
「私はレディ。たとえ傘でも、スカートがひっくり返るなんて、恥ずかしいことこのうえないのよ」
「…わかってますけど、風が強くて…」
「言い訳はレディに通用しないの。あなた、わかってる?
私はいつも、あなたを雨から守ってるのよ。しとしとでも、ざあざあでも。
今日だって、髪が濡れないように、コートが濡れないように、ちゃんと守ってるの」
「う、うん…ありがと…」
「それなのにスカートをめくるだなんて、もう…」
夏美はふぅと息を吐きながら、傘の骨をそっと戻す。
ぱちん、と音がして、傘はようやく本来の姿に戻った。
レディ傘はふぅっとため息をついた。
「まったく…でも、ちゃんと直してくれたから、許してあげるわ。……少しだけ、レディ扱いされた気分だったもの」
夏美は思わず、くすっと笑う。
「はいはい、お嬢さま」
霧雨の中、レディ傘を手にした夏美は、歩き出す。
頭上では、ほんの少しご機嫌を取り戻した傘が、やさしくカサカサ音を立てた。
道端の植え込みに咲いたあじさいが、雨に濡れて、うれしそうに揺れていた。
薄紫、青、ピンク――それぞれの色が、雨粒をまとってほのかに光る。
夏美は立ち止まり、あじさいに目を向けた。
そして、小さく微笑んで、傘の内側を見上げる。
「…これからも、よろしくね」
レディ傘は何も言わなかったけれど、
その骨が、ちょん、と優しく揺れた。
まるで、ええ、もちろん――と、気高くうなずいたように。
そのとき、傘の布地がふわりと広がり、やわらかく夏美を包み込んだ気がした。
「……なんだか、あったかい」
誰も聞いていないのに、ぽつりと呟く夏美。
帰り道の灯りがぼんやりと滲む中、レディ傘はしっかりと夏美の頭上にいた。
雨のひとしずくも、夏美の頬には届かないように――まるで、大切なレディを守るように。
ちょっと風は冷たいけれど、心はほんのりあたたかい。
そんな夕暮れだった。
ちょっと気まぐれで、ちょっと上品なレディ傘。
そんな彼女と夏美の、雨の日ならではの静かなひととき。
傘って、ただの道具かもしれないけれど――誰かのために“守ってる”って、すてきなことかもしれません。
今日もまた、やさしい雨がふたりをつなぐ…




