第6話 十年前、私の家には紙が一枚届いただけでした
割れた湯のみを片付けるのに、ずいぶん時間がかかった。
破片を一つずつ拾って、新聞紙に包む。
手が、思うように動かなかった。こんなことは、この仕事を始めてから一度もなかった。
「灰島さん」
ひよりさんが、ほうきとちりとりを持ってきてくれた。
彼女の目はまだ赤い。それなのに、俺の顔を心配そうに覗き込んでいる。
「……すみません。ご遺族の前で、取り乱しました」
「取り乱してないです。湯のみ落としただけです」
ひよりさんは、黙って残りの破片を掃き集めた。
それから、テーブルの上のタグを見て、小さな声で聞いた。
「灰島千景さんって、灰島さんの」
「妻です」
夜が明けきるまで、俺は何も言えなかった。
◇
霧咲さんが事務所に来たのは、朝の九時だった。
手には、駅前のパン屋の紙袋を提げている。
「差し入れです」と言ってテーブルに置き、それから俺とひよりさんの顔を見比べて、眉をひそめた。
「……何か、ありましたか」
俺は、二人に話すことにした。
八年間、誰にも話さなかったことを。
「十年前、ダンジョンが開いた最初の年に、協会は第一次調査隊を組みました。各分野から集めた専門家が三十人。妻の千景は、その医療班でした」
ひよりさんと霧咲さんが、息をのむ。
「看護師でした。人の役に立てるなら、と言って。出発の朝、玄関で『二週間で帰るから、ちゃんとご飯食べてね』と言われました」
俺は、事務所の壁にかけたカレンダーを見た。
十年前のあの日の日付には、今でも丸がついたままだ。
「調査隊は、帰ってきませんでした。協会からの説明は一度だけ。『深層で全滅した。遺体・遺品ともに回収不能』。届いたのは、紙一枚です」
「……私の家と、同じ」
ひよりさんが、膝の上で手を握りしめた。
「当時、私は司法書士事務所で相続の調査をしていました。戸籍を読んで、亡くなった方の家族を探す仕事です。だから、紙一枚で人の死が決まることには慣れているつもりでした」
慣れてなど、いなかった。
「それで、遺品を探すことにしたんです。協会が回収できないなら、自分で行けばいい、と」
霧咲さんが、ゆっくりと口を開いた。
「それで、八年……」
「最初の二年は、上層でも死にかけました。それでも毎週潜っているうちに、だんだん体が慣れてきて。気がついたら、遺品を届ける仕事になっていました」
俺は苦笑した。
「妻の物は、まだ一つも見つかっていません。《失せ物探し》が、なぜか妻にだけは応えないんです」
テーブルの上の、湊さんのタグが光を反射した。
「ですが、湊さんは三年前、妻の手帳を探すよう命じられた。協会は、妻の手帳がダンジョンのどこかにあると知っている。そして、それを表に出したくない」
しばらく、誰も口をきかなかった。
最初に動いたのは、ひよりさんだった。
「灰島さん。私を、雇ってください」
「え?」
「配信のモデレーターも、依頼フォームの管理も、台帳を調べるのも、私がやります。兄が最後に何を見たのか、知りたいんです。それに……」
ひよりさんは、まっすぐ俺を見た。
「千景さんの手帳も、一緒に探したいです。兄が、探しに行った物だから」
断る言葉は、いくつも思い浮かんだ。
危ない。学業がある。ご遺族を巻き込むわけにはいかない。
けれど、湊さんの声が耳に残っていた。
好きなこと、やれよ――。
「……アルバイトとして、時給は千二百円です。大学の講義は休まないこと。それが条件です」
「はい!」
霧咲さんが、パンの袋を開けながら言った。
「私も手伝います。三年前の件は、私にも無関係ではありませんから」
「無関係ではない、とは?」
霧咲さんは一瞬、目を伏せた。
「……いずれ、ちゃんと話します。今は、まだ」
霧咲さんは、それ以上何も言わなかった。
代わりに、スマホの画面をこちらへ向けた。
「それより、外はこうなっています」
《コメント欄》
名無しの中層民:タグの声「協会の――」で切れたの、絶対なんかあるだろ
元探索者:三年前の四月、四十一階で事故なんてなかった。俺は証言する
ガチ勢A:協会の遺失物台帳、誰か業者の人見られない?
kuro_tama:協会の公式アカウント、昨日から一回も呟いてない
Abyss_Watcher:#WhatIsTheAssociationHiding
「トレンドの三位です。協会は、昨夜から何も発表していません」
「火に油、ですね」
「灰島さんが油を注いだわけではないです。黙っている協会が悪いんです」
霧咲さんは、きっぱりと言った。
◇
昼過ぎ、俺は協会八王子支部の鷺沼さんに電話をかけた。
「十年前の第一次調査隊の記録を、台帳で見られないでしょうか」
『……灰島さん、それ、奥様の』
「はい」
電話の向こうで、キーボードを叩く音がした。
しばらくして、鷺沼さんの声が小さくなった。
『おかしいです。第一次調査隊三十名の遺品記録が、台帳に一件もありません。普通は、回収不能でも「回収不能」と一行残るのに。まるで、最初からなかったみたいに消されています』
「消されている」
『調べてみます。……課長には、内緒で』
電話を切ったあと、俺はしばらく受話器を見つめていた。
◇
同じ日の午後。
都内の高層ホテルのラウンジで、黒崎ジンは、目の前の男を睨んでいた。
「で、協会のお偉いさんが、俺に何の用です」
「お偉いさんではありませんよ。ただの課長です」
真壁は、コーヒーカップを置いて微笑んだ。
「昨夜の配信、拝見しました。あなたの同時接続が、灰島の配信に三十万人ほど流れていきましたね」
「……喧嘩売りに来たんですか」
ジンは、ブランドもののジャケットの袖を引っ張った。
スマホの通知欄には、妹からのメッセージが一件残っている。『お兄ちゃん、無理しないでね。仕送り、今月はいいから』。
既読をつける気には、なれなかった。
「いいえ。商談です」
真壁は、一枚の書類をテーブルに滑らせた。
『協会公認・深層特別調査許可証』。
「あなたのパーティに、五十九階以深への立ち入りを特別に許可します。装備はすべて協会が用意する。最新型です」
ジンの目が、書類の上で止まった。
「灰島の配信が本物かどうか、あなたの目で確かめればいい。本物なら、あなたは人類で二番目に深層を配信した探索者になる。偽物なら、彼の嘘を暴いた英雄だ。どちらに転んでも、あなたの勝ちです」
「……条件は」
「深層で見つけた物は、すべて協会に提出すること。それだけです」
ジンは長いあいだ黙っていた。
それから、書類を手に取った。
「三百四十万人が待ってるんでね。やりますよ」
真壁は、満足そうにうなずいた。
◇
その夜、ジンのチャンネルに告知が出た。
『【協会公認】灰島のヤラセを暴く。三日後、俺が深層六十階へ行く』
《コメント欄》
ジン信者:うおおおお
名無しの中層民:協会公認ってなに?
ガチ勢A:五十九階以深、立入禁止じゃなかったのかよ
元探索者:灰島さんには許可停止しようとして、ジンには特別許可? 露骨すぎる
kuro_tama:火ばさみおじさんVSジン、ついに直接対決か
事務所のパソコンでその告知を見ていた霧咲さんが、顔色を変えた。
「この装備一覧、見てください」
画面には、協会が用意したという最新装備のリストが並んでいた。
魔素遮断ジャケット。自動回復機能つきの探索スーツ。高感度の通信機。
「どれも、五十五階あたりまでを想定した装備です。深層の魔素濃度には、まったく足りません」
霧咲さんの声が、硬くなった。
「黒崎の装備では、五十五階を越えたところで魔素酔いが始まります。――このままだと、彼は死にます」
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